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07


 今の私の隣にはウィリアムがいる。そして、カーラ様やエドワード、ブライアン……ハンナやライオネル、それから……ルイス。沢山の人と関わり合って、多くの人のお陰で、私はようやく昔の心を取り戻すことができた。だから今の私には……この旋律が、美しくも悲しい音色が、渇いていた心に澄み渡るように広がって行くようで……それがとても、嬉しい。


 暫くしてワルツが流れだし、赤い幕がゆっくりと上がっていった。ヴィオレッタの屋敷のサロンに招待された友人に連れられてきた、青年貴族アルフレードと、美しい娼婦ヴィオレッタの出会い。

 皆の目を盗み、ヴィオレッタと二人きりの部屋の中、アルフレードの純粋な愛の告白が、私の心に熱く響く。


『貴方のことを愛しています、一年前のあの日からずっと!ある日あなたは私の幸せを満たすように、稲光のごとく現れた。以来私はあなたを想い、震えながら、未知の愛に生きてきたのです。

 ああ、もしも貴女が私のものならば、貴女の優美な日々を私がお守り差し上げるのに』


 舞台上で愛を語るアルフレードの真っ直ぐな瞳。そしてその言葉に、私の中でふと――エリオットの姿が思い出された。それは(いにしえ)の記憶。懐かしい、思い出。

 ――あぁ、そうだった、確か前世でも一度だけこのオペラを聴いたのだ。けれどそのときはアルフレードとヴィオレッタの愛がどうしても滑稽に思えてしまって、途中で席を立ってしまった。私はあのとき本当は悲しかったのだ。どうしても泣きたくなってしまったのだ。二人の姿をいつの間にか、死に別れた自分達に重ね合わせてしまって……。

 でも今は不思議と穏やかな気持ちで聴いていられる。それは私の隣に、ウィリアムがいてくれるからであろうか……。まだ私の心は夢から醒めていないような心地がするけれど……それでも今私はきっと、自分でも気が付かないうちに、いつのまにか……満たされていたのだ……。



 一度はアルフレードの気持ちを退ける、美しい娼婦ヴィオレッタ。愛を知らない憐れな女。けれどだからこそ、アルフレードの真っ直ぐな想いが彼女の心に響くのだろう。愛を、知らないからこそ……。


 ヴィオレッタより手渡された一輪の椿の花が、アルフレードの掌の上に咲く。

『これは……?』

『返していただくために』

『いつですか?』

『花が枯れてしまった時に』

『ああ!それでは明日に』

『それでは、明日に』

 あぁ、あのアルフレードの微笑みは、まるで初夏の太陽の様に輝いていて……それは、まるで――。


『私は幸せ者です。これ以上は望みません』

 ヴィオレッタの手の甲に優しく唇を落とし、顔を上げたアルフレードのなんて嬉しそうな声。


 あぁ。懐かしい。本当に……懐かしい。やっと私は、自由になれる気がする。心穏やかに、生きていける気がする。まだエリオットとのことを全て過去のことにすることは出来ないけれど……。私は、ようやく前を向いて歩いて行けるような気がする。

 

 アルフレードの純粋な心が、熱い眼差しが、ヴィオレッタの冷えきっていた心に(あかり)をともす。彼女は別の貴族の男をパトロンに持ちながら、アルフレードの愛に心を打たれてしまったのだ。その身に巣くった結核の病に、自分の命が長くないことを知りながら。けれど、きっと……それは幸せなことだった。愛を知らずに死んでしまうことに比べたら……幸せなことだったのよ。


 ヴィオレッタの切ない想いを乗せたアリアが――彼女の美しく透き通った歌声が――響き渡る。


『不思議だわ。心の中に彼の言葉が刻まれている。真実の愛なんて、私には不幸なだけなのに。

 この乱された心を、私は一体どうすればいいのかしら。今まで心を燃え上がらせる方などいなかった。今まで知らなかった喜びよ、愛し合うことなんて。私はあの方を遠ざけることが出来るかしら。不毛で愚かな私の生き方のために……。

 ああ、きっと彼だったのよ。喧騒の中でも孤独な私の魂が、夢に思い描いていたのは。彼の慎み深い態度が、私への真っ直ぐな想いが、私を愛に目覚めさせたんだわ。……けれど――』


 ――あぁ、私、決めたわ。立ち止っていたらいけないのよ、悩んでいるだけでは何も始まらない。このままでいいわけないわ。あの時のルイスの苦しそうな顔も――エリオットが生きているかもしれないということだって……ただ待っているだけではいけないのよ。


『――馬鹿な考え。これは虚しい夢なのよ。ただ一人見捨てられた私のような哀れな女が、今更何を望むというの。

 忘れたらいけないわ、ただ楽しむの、喜びの渦の中で消えていくのよ。私はいつも自由に、快楽から快楽へと遊べばいいの。私が人生に望むのは快楽の道を歩み行くこと。夜明けも日暮れも関係ない、華やかな場所で楽しくして、いつも快楽を求め、私の思いは飛び行かなければならないの』


 ――哀れな娼婦ヴィオレッタ。私もきっと同じ、同じだった。この千年の間ずっと……。でももう違う。私の隣にはウィリアムが居てくれる。彼の命を守り通して、そして……私と同じように苦しみ続けるルイスの心も……。


 私は愛し合うアルフレードとヴィオレッタの歌声を聴きながら、一人静かに、決意した。




 ――二時間半に渡る演奏が終わり、私達は階段を下っていた。


「……ふっ……うぅ……」

 私の右隣には――未だ堪えきれず涙を流しながら鼻をすするカーラ様の姿が。どうやら感極まってしまったらしく、幕が下りてしばらくたった今もこの調子で……。


「大丈夫ですか?」

 私の問いに、彼女はハンカチで目許を押さえながら小さくこくりと頷く。

「ごめ……なさっ……」

「謝る必要なんてありませんわ。本当に素晴らしいお芝居でしたもの」

 そう、私だって思わず涙が零れそうになった。エリオットとの思い出を抜きにしても――。それ程に、素晴らしい出来だった。


「……席でもう少し落ち着くのを待てば良かったな」

 私の左を歩くウィリアムが苦笑する。そして、本当にカーラは昔から変わらないなと呟いた。するとそれに応えるのはエドワードとブライアン。二人は片方の口角を上げると、やれやれと言った様子で口を開く。


「いい加減泣きやめよ、ただの芝居だろ」

「そうだぞ。まぁでもヴィオレッタ役のアイリーンは涙が出るほど美しかったな」

「確かに。あの曲線美、思わず溜め息が漏れるよ」

「あのドレスの下を一度でいいから拝んでみたい」

 そう言って顔を見合わせ、ニヤリと笑うこの二人。そんな紳士らしからぬあまりにも低俗な会話に、カーラ様はぎょっとして顔を蒼くした。ウィリアムに関してはもう呆れて物も言えないと言った様子だ。

 ……あぁもう、本当にこの二人は……。


「あなた達は本当に期待を裏切らないわね。そもそも始まって十分で寝るなんて、どういう神経してるのよ」

「ははっ、気付いたか」

「いやぁ、俺たち昨日徹夜だったから、つい……」

 そう言って緩い笑顔を浮かべる二人。本当に掴みどころがない……。まぁ、この二人をこんな風にしてしまったのは私にも責任があるのだけれど……。


「夜遊びもたいがいにした方がいいと思うわよ」

 私がふいに呟くと、二人は再び顔を見合わせてぶはっと吹き出す。


「まさか君にそんなことを言われる日が来るなんてな!」

「あぁ、変わったのはウィリアムの方かと思っていたけど、アメリア、君も中々丸くなった。この二か月の間によっぽどのことがあったんだな」

 階段下のクロークで順にコートを受け取りながら、興味深そうに眼を細めてこちらを見つめるエドワードとブライアン。しかしそれも束の間、彼らは何か思い出したように急に真面目な顔をする。


「変わったと言えば――。なぁ、ウィリアム」

「……何だ」

 急に声色を変えたエドワードに、ウィリアムは不思議そうに眉をひそめる。

「最近アーサーに会ったか?」

「……っ」

 その名前に、ウィリアムの瞳が一瞬驚いたように見開かれたことに気付いたのは、恐らく私だけではないだろう。エドワードとブライアンの二人は、お互いに何か意味深な視線を送りあって再び口を開いた。


「あいつ、最近おかしいんだよ。俺たちがいくら誘っても出てこないし」

「あぁ。あの日以来――会おうと思って城に出向いても、いつも留守なんだ」

「それで侍女たちに話を聞いたら、最近は王立図書館に通ってるって言ってさ。何か調べものをしているらしいって」

「それで俺たち行ってきたんだよ。先週。そしたら……」


 二人は再び探り合うような視線をお互いに向けて、気まずそうに一度だけ息を吐いた。


「なぁ。……お前たち一体何があったんだよ?アーサーのやつ、お前の名前出したら凄い顔してさ。もうおっかないのなんのって」

「まるで昔のあいつに戻ったみたいだったぞ。まだ低級(ジュニア)のころの、知り合ったばかりのあいつみたいな」

「何があったのか知らないけど、一回会いに行ってやってくれよ」

「ああなったらもう俺たちじゃどうしようもないんだ。多分、お前の話しか聞かないよ」


 そう言った二人の表情は、言葉は、いつになく真剣で……ウィリアムは何も応えずに押し黙った。


「――な?ウィリアム。頼むよ」

「あぁ。お願いだ」

「……」

 二人の懇願するような瞳に、ウィリアムの表情が陰る。けれど……彼は、頷いた。


「わかった。アーサーには会いに行く」

 その言葉に、ぱっと顔を明るくする二人。

「あぁ、良かった」

「頼んだぞ、ウィリアム!」

「俺たち明後日には保養地へ立つからな。向こうで会おうぜ」

「アーサーのこと宜しくな!」

 二人は口々にそう言うと、訳が分からない様子のカーラ様を問答無用で引き連れて、台風の様に去って行く。


 その背中を見送るウィリアムの横顔に揺れる色は、果たして……。


 私はそんな……顔を強ばらせたままの彼を見上げ、「帰りましょう?」と、微笑んだ。


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