06
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ボックス席への扉を開け部屋の中に入ると、二千人以上を収めることが出来る大ホールの全貌が視界に映し出された。既に人で溢れかえっているそのホール内はラウンジと同じように壁や床は赤と金色で統一され、天井は厚いオーク材で覆われている。
「いい席だな」
「本当ね」
既に人で一杯に埋まっている一階席を見下ろしながら、そう満足げに微笑むウィリアム。それに応えるように、私も微笑んだ。
私たちがいるのは、舞台と一階席を取り囲むように半円状に作られた、四階層あるボックス席のうちの二階席。舞台がほぼ正面に見え角度的にも申し分ない。ちなみにこの部屋の席は最前列が三席、二列目と三列目が二席ずつで、計七つの椅子がある。
「俺たちはここでいいからな」
「ああ、どうせカーラの付き添いみたいなもんだし」
エドワードとブライアンは未だにウィリアムをどこかからかうような笑みを浮かべながらも、二列目の席にどかっと貴族らしからぬ様子で腰を落ち着けた。カーラ様はそんな二人にどこか冷やりとした視線を送りつつも、私に向かってほほ笑む。
「アメリア様、どうぞお座りになって」
そして彼女は私を最前列の中央に座らせた。それに続いてウィリアムとカーラ様も私を挟んで左右に腰を下ろす。
「アメリア様は“椿姫”の原作、お読みになられました?」
「ええ。読みましたわ。カーラ様もお読みに?」
今日の演目“椿姫”は数あるオペラの中でも非常に有名な作品で、年間通して最も上演回数の多い作品の一つである。全三幕から成り、演奏時間は二時間半ほど。
青年貴族アルフレードと高級娼婦ヴィオレッタの純愛を描いており、二人は一度結ばれるがアルフレードの父に反対されて別れ、その後再会するもののヴィオレッタは結核で死んでしまう、という悲恋の物語。確か公開当初は娼婦が主役ということで、貴族を貶める作品だと問題視されたそうだが、最終的にはヒロインのヴィオレッタが亡くなることから公演を許されたと言われている。
私の記憶が正しければ、前世には既に存在していた筈の作品だ。つまり、私が原作を読んだのはその前世のときということになる。それ以降一度も目を通してはいないが、流石に話が改変されているということはないだろう。
カーラ様は私の問いかけに少し躊躇うように視線を泳がせると、わずかに目を伏せた。
「実は私先月読み終えたばかりで……。あの……お恥ずかしながら前の私でしたら、娼婦と貴族の恋のお話なんていかがわしいって思っていた筈なのに……なんだかアメリア様や兄さまたちを見ていたら、知らないままに否定するのは違うのではないかしらって思えてきて……。それで実際読んでみたら、案の定とても素晴らしいお話で思いの外感動してしまって……」
彼女はどこか切なげに瞳を揺らしながら、今度は私の顔を覗き込むようにしてこちらをじっと見つめ、続ける。
「だから……その……。私――本当にアメリア様には感謝しておりますのよ。以前の私だったら絶対に知ろうともしなかったようなことを、アメリア様のおかげで知ろうと思えるようになって……。いかに自分の世界が狭いのかということを、自覚したと申しましょうか……」
「……カーラ様」
そして……彼女は再び、可憐に笑った。
「私、アメリア様とお友達になれて、本当に嬉しいんですの。あの時……私、アメリア様に本当に失礼なことを申しましたのに、それでもずっと私に優しくして下さって。本当は……声が出ないから私に本当の気持ちを伝えられないだけじゃないのかしらって……思ってしまっていたのに……。でも、アメリア様は変わらず私に笑いかけて下さいました。私――」
「カーラ様」
あぁ、もう。この方はなんて素直な方なのかしら……。思わず、私の頬が緩んでしまう。
「それ以上は仰らならないで下さい。お礼を言わなければならないのはこちらの方ですわ。カーラ様もご存じのことかと思いますが、私がこの社交界でずっとレディらしからぬ振る舞いをしてきたのは、誰もが知る事実です。それでもカーラ様は私に真っ直ぐに向き合って下さいました。
それにカーラ様がいなければ、私が今こうやってウィリアム様の隣に座っていることも、恐らく無かったでしょう」
そうだ。嘘は言っていない。もしあの日、森の川の岸壁にカーラ様が居なかったら私は川には落ちることなく、そしてルイスとあの様な契約を結ぶことは無かったであろう。ルイスのことだから何時かは私に接触して来る手筈だったであろうが、それでもきっとこんなに早くウィリアムと心が通じ合うことは無かったに違いない。
「あの……一体それはどういう……」
カーラ様は私の言葉に、瞳を揺らめかせる。そのどこか不安げな表情に、私は決意した。
彼女には話しておこう。いや、話さなければならない。私がウィリアムと婚約したのは、ただ自分の保身の為であったということを……。私がちらりとウィリアムを見ると、彼は微笑んで、小さく頷いてくれる。
「私、カーラ様に謝らなければならないことがありますの」
「……え?」
「私たちは最初、ただお互いの利益の為だけに婚約を致しました。そこに相手を想う気持ちは一切ありませんでした。私は元々誰とも結婚するつもりはありませんでしたし……ウィリアム様も恐らく同じようなものだったのでしょう」
私の言葉に、カーラ様の瞳が驚いた様に見開かれる。
「それは……政略結婚ということですの?」
貴族同士の結婚は、何かしらの政略的な部分はあるものだ。けれど恐らくカーラ様にとって、お互いに全く気持ちが無いままの婚約など有り得ないのであろう。ましてウィリアムは私と婚約するまでの間、全ての縁談を断り続けていたという。そんな彼が急に婚約した相手、それがまさか政略的なものだったとは信じられないのであろう。
私は彼女の言葉に、家同士の問題では無かったのよ、と続ける。
「私がウィリアム様にお願いしたのです。婚約を受け入れる変わりに、ある条件を守って欲しいと」
「……条、件?」
「はい。決して私をお愛しになられぬように、――と」
「……っ」
カーラ様の肩がびくりと揺れる。どうしてそんな条件を提示する必要があったのか、そしてウィリアムも何故それを受け入れたのか、わからないと言いたげに。
そんな彼女に、ウィリアムが真剣な視線を送る。
「今さら蒸し返すのもおかしい気がするが、俺がアメリアにその条件を提示されたとき、失礼ながら都合がいいと思ったんだ。正直俺は愛だの恋だのと言ったものは面倒だと思っていたし、結婚したからといって相手を愛せる自信も、そのつもりも無かった。だからアメリアはそれが必要ない相手だと知って、心底安堵したほどだった。
それもあって、カーラの気持ちをあの様に無碍に断る形になってしまい、本当に申し訳なかったと思っている」
「……そう……だったんですの……」
カーラ様は再び目を伏せるが、しかしすぐに顔を上げてふわりと笑った。
「でも、私にそれを仰るということは、今はお二人ともお互いのことを想いあっていらっしゃるということなのでしょう?」
そう言った彼女の眼差しは何の疑いも何の憂いも無いと言った様子で、私は心の底からこの方には敵わないなと感じた。
私とウィリアムはそれぞれ頷き微笑み返す。すると彼女は嬉しそうに更に笑みを深くした。そして、続ける。
「アメリア様、そんなお二人の事情をお話下さってありがとうございます。私、ウィリアム様のお相手がアメリア様で本当に嬉しいですわ。どうかお幸せになって下さいましね」
「はい。本当にありがとうございます」
私がそう応えると同時に、ホールの明かりが落ちて前奏曲が流れ始めた。私たちは微笑みあって舞台の方へと視線を移す。
美しい、けれど悲し気な旋律が流れ出し――そして私は、自分の心に浮かんだ確かな想いに、安堵した。
良かった。これで一つ、心のつかえがとれた気がする。まだこれから自分がどうするか何も決められていないけれど、きっと彼女は――私がこの先どんな選択をしようとも――これから先もずっとウィリアムの傍にいてくれることだろう。それを確かに今、確認することが出来た。
繊細な音色が私の心に響いてくる。ヴァイオリンから始まった落ち着いた旋律に、フルートやクラリネット、そしてホルンやティンパニーの音が重なりあって一つになり、私達に切ない恋の物語の始まりを告げた。曲名は“第1幕への前奏曲「ヴィオレッタに捧げし歌」”。ヴィオレッタの運命を暗示するような哀愁をおびた美しい曲。以前の私ならば、この音楽を心から美しいと感じることは出来なかったであろう。でも、今は――。