05
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クロークにコートを預けた私たちは二階へと上り、ずらりと扉の並んだ曲線上の廊下を進んで行った。ここはボックス席専用の廊下である。従って、周りを歩くのは貴族ばかり。
ふいに聞こえてくる――私と同じくらいの歳だろうか――まだ年若いご婦人たちの談笑する声に耳を傾ければ、彼女たちは結婚話に花を咲かせている様だった。あの方のお相手は子爵ですって。まぁ、私たちもうかうかしてられませんわ。素敵な殿方が現れてくれないかしら、などと口々に言っている。
その何ともなしな無邪気な声に、私は今さらながら当たり前の事実を思い出した。それはこのオペラ座という場所が、貴族たちの社交場として機能しているのだということだ。
そう――多くの貴族はもっぱらここをオペラを楽しむ為ではなく、特権階級の権威を誇示する為の社交場として利用している。婦人のみで集まってファッションについて談笑したり、殿方同士ならば政治の話、そしてお決まりの愛人との密会など、貴族にとってのオペラ座というものは決して単純には語れない。それもあって私は長らくこういう場から離れていた訳で……。
「……」
なんとなく、憂鬱な気分になってくる。そしてそんな私に追い打ちをかけるように、再び聞こえて来たのは――廊下の端に立ち止まり、こちらに視線を向ける数人の令嬢たちの――他の誰にも聞こえないであろうという程の、私を嘲る囁き声だった。
「あら――あの方、サウスウェル家の……。隣にいらっしゃるのはファルマス伯爵よ」
「まぁ、本当ですわ。そう言えばあの方、少し前に事故で声が出なくなったのだとか……」
「そうなの?それは本当にお気の毒ね。そのような婚約者を無碍に扱うことも出来ないでしょうし、ファルマス伯爵も内心はお困りなのではないかしら」
「本当にその通りですわ。私なら堪えられませんもの」
「あの異名は伊達では無かったということではなくて?」
「まぁ、あなた、流石にそれは言い過ぎよ」
そしてそれに続く、かんに障る嗤い声。
――あぁ、なんて馬鹿馬鹿しい。これだから貴族の集まる場所は嫌なのよ。けれど、わかっている。これは自分の蒔いた種。ウィリアムからの婚約を受けたあの日からのたった三カ月かそこらの間で、二年もかけて広めた自分の悪評を払拭しきることが出来ると思えるほど、私は自分を傲ってはいない。
私はその声を聞かなかったことにして、そのまま横を通り過ぎようとした。――けれど。
「こんばんは。美しいご婦人方」
――!?
唐突に聞こえて来たウィリアムの声に顔を振り向けば、彼は何時になくにこやかな表情で令嬢たちに声をかけていた。そして彼の言葉に、エドワード、ブライアン、そしてカーラ様も足を止める。
「名前を呼ばれた様な気がしたのだが」
令嬢たちに向けられるウィリアムの満面の笑み。しかしそれは――間違いなく、作り笑いで。けれどそんなことには露ほども気付いていないであろう令嬢たちは、ウィリアムの微笑みに応えるように、可憐に微笑み返した。
「まぁ、聞いてらしたのですね。お恥ずかしいですわ。
私たち、伯爵とアメリア様があまりに仲睦まじくて、本当に羨ましいと話しておりましたのよ」
「ええ、本当にお似合いのお二人ですわね、と」
「その通りでございますわ」
そうやって心にも無い言葉を平気で口にする令嬢たち。本当に面の皮が厚いのだなと、私はただ辟易する。けれどウィリアムは彼女らの言葉に、より一層笑みを深めて……否、眼光鋭く、ニヤリと笑った。そして低い声で言い放つ。
「なる程、そういうことならば私がこれ以上言うことは何も無い。だがこれだけは覚えておくといい。彼女は私が生涯唯一愛すると決めた女性。彼女を侮辱する者は、誰であろうとこの私が許さない。例え貴方のお父上が公爵であろうとな。――イザベラ嬢」
「――ッ」
刹那――顔を蒼くして全身を強張らせる一人の令嬢。そして彼女はウィリアムから目を逸らすと「私はこれで」と小さく呟いてそのまま行ってしまった。他の令嬢たちも、その後を追うようにこちらに会釈して去っていく。
「え――ちょっと、ウィリアム、今の……何なの?」
おかしい。ウィリアムがおかしい。どう考えたって、今までのウィリアムならこのような場所で今の様な態度を取る筈がないのだ。これではまるで別人ではないか。いや、確かにライオネルに対する態度は辛辣なものがあった、確かに彼の本質はただの優しい男では決してない……けれど――まさかこの様な人目のつく場所で……。
私が問いかけると、彼は令嬢たちの消えていく背中を見つめながらどこか呆れたように嘆息する。
「そのままの意味だ。君を侮辱する者は誰であろうと許さない」
そう、私を見つめて当たり前の様に言ってのけるウィリアムに、私はただ茫然とした。そして私と同じく、エドワードとブライアンが驚いた様に目を丸くする。
「……お前、変わったな。冗談抜きで」
「いや、俺さ。実はお前のことずっとつまらないやつだと思ってたけど、……撤回するわ」
そう言いながらも今度はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて、ウィリアムの肩に両側から腕を回すこの二人。
「なぁ、ウィリアムお前、何かあったんだろ?」
「言えよ、俺たち聞いてやるからさー」
「――お前たち、放さないか。男に抱きつかれる趣味は無い」
「いいや、放さないね」
「アメリアと何かあったんだろ、吐け」
そして二人に強制連行されるウィリアム……。私はその背中を見つめながら、考える。
やはり、気のせいでは無かったのだ。三日前のあの日から、まるで別人のように変わってしまった彼の雰囲気。ルイスの言っていた、全ての準備が整ったというあの言葉。そして、エリオットが生きているのかもしれないという、可能性――。それらが全て、今のウィリアムのあの振る舞い方に関係しているのだとしたら……。そこまで思案して、私は小さく頭を振った。
……いや、やめよう。今考えたって仕方が無い。考えるのは屋敷に帰ってからでも遅くない。私は小さく息を吐いて傍に立つカーラ様に視線を向ける。すると、彼女は――。
「ロ・マ・ン・ス!ですわ!」
「――!?」
目をこれでもかというくらい、キラキラと輝かせていた。
「今のウィリアム様、とても素敵でしたわ!まるでおとぎ話に出てくる王子様のようで!」
両手を胸の前で組んでうっとりとした表情を浮かべるカーラ様。それはウィリアムのことが好きというよりも――本当に王子様に憧れる少女の様な無垢な瞳で……。けれど――。
「……そ、そうだったかしら?」
確かに、先ほどの彼の言葉は嬉しかった。人にかばってもらえるなんて、何十年ぶりだっただろうか。しかもその相手がウィリアムで……まさか、第三者に対して私のことを愛していると……唯一愛すると決めた女性だと言ってもらえるなんてこと、今までなら絶対にあり得なかった。一度だってこんなことはなかった。
……嬉しい。確かに、嬉しい。……けれど、同時に困惑しているのもまた事実。考えなければならないことが多すぎて、わからないことが多すぎて、今の私には、彼の言葉を素直に喜ぶことが出来ない。
それに言わせてもらいたい。あんなに黒い笑顔を浮かべた王子様など言語道断。というより、おとぎ話の中の王子様のような人物など、現実には決して存在しないのだ。けれどそんな野暮なことを口にするのは流石の私もはばかられる。
私がそんなことを考えていると、カーラ様は何か勘違いしたのだろう。
「あ――っ、ち、違いますのよ!ごめんなさい、私ったらまた無神経なこと……。ウィリアム様のことをお慕いしているとか、そういうことを言っているのではありませんの。だからそんなお顔なさらないで下さい」
申し訳なさそうに私を見つめる彼女の姿。その不安げに揺れる透き通った瞳をこちらに向けられると、逆にこちらがいたたまれなくなってしまう。私は彼女を安心させようと微笑んで、口を開いた。
「こちらこそ申し訳ありません、カーラ様。あのようなウィリアム様の姿を初めて拝見したものですから、少し驚いてしまっただけなのです」
すると私の言葉に、彼女は安堵したように息を吐いた。そして、「では行きましょうか」と可愛らしい笑顔を浮かべる。
その言葉を合図に、私たちはウィリアム達を追いかけるように再び歩きだした。




