04
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今日も夜が訪れる。私はウィリアムと共に、オペラ座へ向かうため馬車に揺られていた。
――ルイスと庭園で二人きりで話をしたあの夜、部屋に戻った私は再びウィリアムと同じベッドで眠り、そして静かに朝を迎えた。あれからまだ三日だけれど、ルイスはそれまでと何ら変わりない様子で私に接してくる。まるであの夜のことなど……無かったかのように。
けれどあれは決して夢では無かった。彼の言った、エリオットが生きているかもしれないというその言葉。それに対して私が告げた、それでもエリオットを選ばないという、選択。迷いの無かった筈の気持ち。そして、もうすぐ自分は死ぬのだという、ルイスの告白。
それが、時が経つ程に私の中に黒々と広がって……自分の心を酷く苦しめていた。
ルイスと、ここを去るつもりだった。ウィリアムとの思い出を大切に胸にしまって……彼の前から姿を消すつもりでいた。けれど……それはもう、無くなった。
彼は最初から、私をここに残すつもりだったのだろう。あの日の契約……あれはただ、私がウィリアムに向き合うようにさせるためのものだった。そしてまたきっと、ルイスは最初からエリオットのことを知っていたのだ。その名前は知らずとも……その存在には気付いていたのだ。その上で私にウィリアムを愛させ……そして私に、記憶を思い出させるように仕向けた。
ルイスはその上で、再び私に真実を……選択を求めるというのか。ウィリアムか、エリオットか……どちらが本物で、どちらが偽物か。誰を選び……共に、生きるのか。
今の私は確かにウィリアムを愛している。それは変わらない。けれどもしエリオットが本当に目の前に現れたら……私はちゃんとウィリアムを選ぶことが出来るのだろうか。ルイスと共にここから去るならばいざ知らず、どちらかだけを選ぶなんてこと……本当に……。
私が視線を上げれば、こちらを心配そうな顔で見つめるウィリアムと視線がぶつかった。彼は緑色の瞳を揺らし、私の顔をじっと覗き込む。
「アメリア、やはりまだ身体の具合が良くないんじゃないのか。今からでも屋敷に戻って……」
「――ウィリアム」
いけない。ウィリアムの前でこんなことを考えるのはもう止めよう。彼をこれ以上心配させてはいけない。それに今日は、カーラ様に会えるのだ。笑顔でいなければ……。私は、微笑む。
「私はもう大丈夫よ。あまり心配されすぎても困るわ」
その言葉に、真顔で目を細めるウィリアム。
「……そう、だな。すまない、どうしても君のことが心配になってしまって。でも……あまりしつこくして君に嫌われても困るからな。言わないように気をつける」
「そうよ。私、こう見えても身体は丈夫なのよ。実際熱だって一晩で下がったでしょう?」
「……確かに、そうだな。でも具合が悪くなったらすぐに言うんだぞ。俺は――」
「ほら、また」
「――」
私は再び彼の言葉を遮って、自分の口元で人差し指を立てた。すると虚をつかれたように唇を横に結ぶウィリアム。そして彼は、少しだけ気まずそうに視線を泳がせた。その表情がなんだかおかしくて、私は思わず吹き出してしまう。
「もう、ウィリアムったら。そんなに私のことを心配してくれるのなら、ずっと傍にいてちょうだいね」
そう言っていたずらっぽく微笑むと、彼は一瞬何か考える素振りを見せて今度は艶やかにほほ笑んだ。同時に彼の腰が座席から浮いて、白い手袋をしたその右手が私の後頭部に回される。彼の笑顔が、私の眼前に迫る。そして――。
「君にそこまで言われてしまったら、そうしない訳にはいかないな」
彼は普段より少し低い声で囁いて、私の唇を、音もなくふさいだ。
***
馬車がオペラ座の正面玄関入り口に停まり、私はウィリアムに手を引かれてその荘厳な造りの劇場に足を踏み入れた。深みのある赤と金色で統一された壁と装飾、そして高い天井に煌びやかに輝くシャンデリアが、私たちを出迎えてくれる。既に中は人で溢れていた。
「多いわね……」
つい、そんな不満が口をついて出てしまう。オペラは嫌いではないが、人混みはあまり好きではない。するとウィリアムは、いつの間にか浮かべていた余所行きの笑顔をわざとらしく曇らせた。
「確かにここは国一番の劇場だからな。それにしても、君の夜会嫌いは知っていたが、単に人が多い場所も苦手だとは知らなかった」
そして彼は、そう言えば俺はまだ君のことを何も知らないな、と続ける。
「君はオペラが好きなのかと思っていたが、その様子ではそうでもなさそうだな。ここにはあまり来たことがないって顔だ」
そう言いながらもにこりと微笑むウィリアムに、私も負けじと微笑み返す。
「ええ。実のところ、その通りなのよ。オペラは好きだけれど人が多いのは苦手なの。でも、今日はあなたが一緒だから大丈夫よ」
「――っ」
すると、ふいに口元を緩めるウィリアム。その頬が微かに赤く染まったような気がした。彼の余所行きの顔が……剥がれ落ちる。
「そう、か。……じゃあ早くエドワード達と合流してしまおう」
そう言って彼は、はにかむような笑顔を浮かべた。
私はウィリアムにエスコートされて赤い絨毯の上を進んでいく。席へと続く階段は正面入ってすぐと、真っ直ぐ奥まで進んだ突き当りのそれぞれの左右にあり、カーラ様とは正面奥の突き当り、右階段の前で待ち合わせということになっていた。私たちが突き当りを右に曲がると、階段を挟むように開けたラウンジの壁際に見慣れた三人が立っていた。ここまで来ると、あまり人も多くない。殆どの観客はそのまま階段を上がっていってしまうからだ。
「アメリア様!」
私たちに気が付いたカーラ様が、フリルのあしらわれた薄桃色のドレスの裾を揺らしながら、いつもの様に軽やかな足取りでこちらに駆け寄ってきた。花の様に可愛らしい笑顔、エメラルドの如く輝く丸い瞳。ウィリアムと同じ栗色の長い髪は左右で編み込まれ、それがまだ成人したばかりのあどけない少女らしさを強調させているが、それさえも純粋な心を持つ彼女には相応しいと、私の頬も思わず緩む。
「今日は来て下さって本当に嬉しいですわ!」
私を見つめる彼女の真っ直ぐな眼差し。明るい笑顔。それに応えるように、私も精いっぱい微笑んだ。
「はい。こちらこそお招き頂き本当にありがとうございます」
そんな私の言葉に、カーラ様の目が大きく見開かれる。
「アメリア様、声……っ」
そう、声を震わせる彼女。そうだ、彼女にはまだ伝えていなかったのだ。私の声が戻ったことを。
「ええ、そうなんです。二日前に。本当にご心配をおかけしてしまって、でも、これでカーラ様と沢山お話できますわ」
「――っ」
彼女の瞳が揺れる。そして、彼女は人目もはばからず、私に抱き着いた。
「アメリア様、本当に……本当に良かったですわ!」
今にも泣きだしそうに瞳を潤ませるカーラ様。その表情に、私の心がほっと温かくなる。私の隣に立つウィリアムに視線を送れば、彼もどこか安心したような柔らかい笑みを浮かべていた。
「カーラ様、本当にありがとうございます。これからも、どうか仲良くしてくださいね」
私が微笑むと、彼女はぐすっと鼻をならしながら、嬉しそうにこくりと小さく頷いてくれる。
「勿論ですわ!」
それは彼女の、心からの笑顔。
――あぁ、良かった。私たちは知っていた。この二か月の間、彼女がずっと自分に後ろめたさを感じていたことを。彼女が私に対して、罪悪感を持ってしまっていたことを。だから私の声が戻り、彼女はようやくその楔から解放される。
けれど、そうやって感動の包容をする私たちに、エドワードとブライアンは何時ものように緊張感の無い言葉を投げて来た。
「おお、アメリアの声が戻ってる」
「本当だ」
彼らはへらっとした表情を浮かべて、私たちの元まで歩いてくる。センスのいい紺ベースのタータンチェックのスーツに身を包んだ二人は、ネクタイの色こそ違うがどちらがどちらかわからない程にそっくりだった。
「……あなた達、相変わらずね」
この二人、普段は各々好きな服を着ているのだが、公式な場やこういった人目につくような外出のときは必ずといっていい程お揃いのファッションで攻めて来る。
さっぱりとした顔立ちにすっきりとした目元、耳に少しかかる長さのこげ茶の髪を遊ばせて、いつもどこか貴族ばなれした緩い表情を浮かべているエドワードとブライアン。正直言って見目は悪くない二人には、この社交界で彼らを慕う女性が多くいるようだということを、私はこの二か月の間で知っていた。けれど二人はまだ結婚はいいやと言って、目立つ容姿ながらもなるべく女性と関わらなくてもいいようにと、敢えてお揃いの服装で社交場に出るのである。そして意地の悪いことに、お互いになりすまして女性の誘いを断るのだとか。
私がそれを知ったのは、ウィリアムと共に出席した先月の夜会で、二人がお互いの名前を語っていることに気付いたとき。どういうことかと尋ねたら、彼らは悪びれもなくそう教えてくれたのだ。流石の私もなんてやり方だろうと驚いたが、彼らも彼らなりの苦労があるのだろうなと納得することにした。
「――お。そのちょっと棘のある言い方、健在だな」
「ああ、懐かしいよな。やっぱり君はこうでなくちゃ」
そう言って、どことなく嬉しそうに笑う二人。これがこの二人なりの喜び方なのだと、私はちゃんと知っている。
そして彼らは取り敢えずと言った風で今更ながら定形の挨拶を済ませると、未だ私に抱き着いたままのカーラ様に視線を向けて眉をひそめた。
「カーラ。泣くなよ。化粧が落ちるぞ」
「な……っ、泣いたりしてませんわ!」
エドワードの言葉に、カーラ様が私から離れて焦ったように声を上げる。
「そうかー?お前は昔っから泣き虫だからな。アメリアのコートを汚すなよ」
「そっ、そんなこと致しませんわ!いつまでも子供扱いするのはやめて下さい!」
「いやそう言われてもな」
「実際まだ子供だろ」
「そんなことありませんわ!」
こんな場所にも関わらず妹をからかいだす兄二人。流石に時と場所を選んで欲しい。私がそう思うと同時に、ウィリアムが呆れたように二人に言い放つ。
「お前たち、プライベートとは言えこういった場所ではよさないか。誰が見ているかわからないんだ」
「――あぁ、悪い悪い」
「つい――な」
そしてエドワードとブライアンはいつもの様に顔を見合わせると、私たちを席へと案内してくれた。