01
夜の帳が静かに街に降りていく――。
月明かりさえ差し込まない闇に包まれた路地裏を――その暗闇に溶けるように漆黒の外套を頭からすっぽりと被り――ヴァイオレットは靴音も立てず、迷いなく進んでいた。
毒薬と短刀を懐に忍ばせ、彼女は足を速め――そして、止まる。
曲がり角の先が明るい。人の気配がある。ランプの淡い橙色の光が石壁に反射し、ヴァイオレットの行き先をわずかに照らし出していた。
彼女はその灯りに目を細め壁に背中を張り付けると、角の先の様子を伺い、そして――微笑む。そこにいる人物が、確かに目的の人物であることを確認したのだ。
彼女はフードを後頭部へと下ろし、右手でその長い髪を外套の内側から外へと流すようにさらりと泳がせると、今度はカツカツとヒールの音をたてて、角を曲がった。
「――誰だ」
それと同時に、ランプの光が人影に揺らめく。
ぎょろりとした、けれど鋭い眼光が――ヴァイオレットの方を睨んでいた。その男から微かに殺気が放たれる。
けれどヴァイオレットはそんなことには気が付かないとでも言うように、ほっとしたような顔をして見せた。
「あら――良かったわ、人が居たのね。ちょっと道をお尋ねしたいのですけれど」
そう言って、しかしヴァイオレットはそこで立ち止る。
不用意に近づきすぎてはいけない。
そんな彼女の姿に――男は小さく舌打ちして顔をしかめた。
「――あぁ?こんな時間にこんな場所で道に迷っただと?おかしなことを言うんじゃねぇよ」
男は細い道の隅に腰を下ろしたまま、怪訝そうな声を上げる。そして――ふと、目を細めた。それはまるで何かに気が付いたとでも言うように……。
そうしてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた男は、自分の足元に転がる数本の酒瓶から中身の残った一本を手に取ると、それを口につけ一気に傾けた。
ごくりごくりと男の喉が鳴り――空になった瓶を地面に再び転がすと、男はニヤリといやらしい笑みを浮かべる。
「あんた知ってるぜ、ヴァイオレット・フラメルだろう」
その言葉に、ヴァイオレットはわずかに眉をひそめた。
「私をご存じなのね」
「そりゃあな。この辺であんたのことを知らない奴はいないさ。まさか王子をパトロンにするとは――流石元お貴族様はやることが違うってな」
男はそう言って引きつったような嗤い声をあげると、まだ開けられていない瓶を一本掴んでヴァイオレットに差し出した。飲むか――と尋ね、けれど彼女はそれを断る。
「今の、誉め言葉と受け取っておきますわ。けれど、その名前はとうの昔に捨てましたの」
「へぇ、そうかよ。なら今は何という」
「ヴィオレッタ、とでも呼んで頂こうかしらね」
彼女は微笑む。ランプの淡い光に照らされた彼女のその瞳が――男を試すようにぎらりと光った。その表情に、再び細められる男の鋭い瞳。
「……なるほど確かに、トラヴィアータだな」
男の言葉に、ヴァイオレットは満足げに微笑んだ。そして、続ける。
「ええ。そうでしょう?ね――私、あなたにお聞きしたいことがあるのよ」
「……その為にわざわざこんなところまで一人でおいでなすったって訳か。ご苦労なこった。――ま、内容によっちゃ答えないでもないけどな。礼は弾んでくれるんだろう?」
「そうですわね。言い値をお支払い致しますわ」
「ハッ、金か。生憎金には困ってねぇんだわ」
男はヴァイオレットを嘲笑うと、ゆっくりと立ち上がり彼女の目の前へと立ちはだかった。そして彼女の右手を掴み――その身体を壁に押し付ける。しかし彼女は少しも抵抗しなかった。
それどころか彼女は、男に応えるようにくすりと微笑む。
「では、一晩私のお相手をして下さる?退屈はさせませんわ」
「――いいだろう」
その言葉にヴァイオレットは――男が気付かないであろう程の、ほんの一瞬だけ――その美しい面に薄い笑みを浮かべた。
***
――月が煌々と輝いている。
街の外れの一軒のパブ、僅か二、三人の先客しかいない薄暗い店内に彼女は足を踏み入れた。
先ほどまで羽織っていた彼女に不似合いな黒い外套は左手に抱え、いつもの様に既にカウンター席に座っている一人の男の横に静かに腰を下ろす。
そして美しい顔に張り付けたような笑みを浮かべると、いつものを――とバーマンに声をかけた。
少しして赤い液体の注がれたグラスが彼女の前に差し出される。
彼女はそれを受け取り厨房へと戻っていくバーマンの背中を見送って、胸元から銀色に輝く髪飾りを取り出した。そしてそれを隣に座る男の前に、音もなく置く。
「――全て滞りなく」
「……それで?」
男は髪飾りを胸の内ポケットに納めながら、無感動にその先を尋ねた。
彼女はそれに対して微笑みを崩さずに囁く程の声で呟く。
「……“エリオット”――と、申しておりましたわ」
「……エリオット?」
「ええ。どうせ偽名だろうから探しても無駄だろう、とも」
彼女は更に続ける。心当たりがありまして?――と。
その言葉に男は少し考える素振りを見せた。そして、その闇よりも暗い漆黒の瞳を妖しく光らせる。
「……無いですね。ですが――そうですか。エリオットと言うのですか」
「……」
「――これは恐らく私への宣戦布告でしょう。やはりあちらは私に気付いているとみて間違いない。だが……どうやらそのエリオットとやらは、私のことを少々勘違いしているようだ」
そう言ってニヤリと笑う男の横顔に――彼女は背筋に薄ら寒いものを感じた。
けれど、だからこそ彼女はこの男に従っているのだ。――自らの意志で。
男は――続ける。
「“彼”の様子は変わりないですか」
「ええ。少しずつですが核心に近づきつつありますわ。最近は王立図書館に入り浸りになられて……“神話”が効きましたわね」
「それは大変結構なことです。では貴方は引き続き監視を続けて下さい。彼が目覚める――その時まで」
「ええ。勿論でございますわ。ところで……一つお尋ねしても?」
「何でしょう」
彼女は横目で男の様子を伺いながら、そっと口を開く。
「……お返しされたのですね、あの方のお心を」
「――ええ」
「お言葉ですけれど……時期尚早なのではありませんこと?このままではどちらかが命を落とされることとなりましょう?」
「そうですね」
彼女の言葉に、男はただ無表情で肯定する。言いたいことはそれだけですか?と、目を細める男の横顔に――本当に何の感情も浮かんでいない冷徹な瞳に――彼女は思わず身震いした。
その様子に、男はかすかに眉をひそめると呆れたように嘆息する。
「言っておきますが、これはあくまで“エリオット”をおびき寄せる為の餌。ようやく巡って来たチャンスをみすみす逃がすなんてこと――彼はしない筈。ですから貴方が危惧するようなことにはなりませんよ。
それに、これでようやく全ての駒がそろうのです。貴方の願いも叶えられるでしょう。余計なことを考える必要はありません」
「……」
宙を射る男の鋭い眼光――その横顔に、彼女はそれ以上何も言うまいと口を閉ざした。
男は立ち上がる。
「では。私はお先に失礼しますよ」
そう言って彼女に背を向け一歩踏み出し、けれどそこで立ち止まった。彼女の背後で、男が再び口を開く。
「一つ――言い忘れていました。貴方の右腕袖口――汚れています」
「――っ」
彼女がその低い声に自分の右手を返して袖口を確認すると――確かにそこには赤黒い染みがついていた。
うっかりしていた、恐らく先ほど路地裏で出来た染みだろう。
そう目を細めた彼女が背後を振り向いたときには、――既に男の姿はどこにも無かった。




