06
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燃える――燃える――燃え上がる。
真っ暗な闇夜とせめぎ合うように――赤い赤い火柱が、辺りを覆いつくしていた。あんなに美しかった森が……木々が……草木が……大きな炎に包まれて、ごうごうと酷い音を上げながら瞬く間に朽ち果てていく。私の、庭が……消えていく。
「――あ、……あぁ……」
私はそれをなすすべもなく、ただ見つめていることしか出来なかった。燃え盛る炎の真ん中で――私は湖のほとりにへたり込み、もう一歩も動くことが出来なかった。
「――ごめんなさい、エリオット……」
約束、したのに――。あなたの傍にいるって、約束したのに……。あなただけのものでいるって……約束したのに……。
私は肩から羽織った薄い毛布の下の――自分の汚された身体を、両腕で強く抱きしめる。まだ昼間の――見知らぬ兵士たちの忌まわしい――おぞましい感覚が残っていた。こんな姿……彼には絶対に、見せられない。見られたく……ない。
「――ごめんなさい、ごめんなさい」
背後から黒い煙が襲ってくる。跳ねるように飛び散る火の粉が、土で汚れた私の素足を焼き、ただれた皮膚からは赤黒い血が滲んでいた。痛くて痛くて、もう一歩も歩けない。けれどそれ以上に、鋭く刺すように――張り裂けてしまいそうに痛いのは……私の、心……。
叫びたいのに――叫べない。泣きたいのに――泣けない。痛いのに……苦しいのに……それ以上に、もう――エリオットに、申し訳なくて……。
「……ごめん、なさい」
茫然と顔を上げれば、赤い炎の隙間から、黒い絨毯のような漆黒の夜空にぽっかりと穴を空けたような、白い澄んだ色の月がのぞいていた。それだけは――私の知っているいつもの景色で……。あの日エリオットと眺めた――美しい、月が思い出されて……。
思わず、涙が……零れてくる。――けれど、それさえも私を包む熱風が一瞬で乾かしてしまう。
「……泣くことも、許されないのね」
私の体を赤い炎が包み込む。一歩踏み出せば、美しい月を映した湖の水が、私の身体を癒すであろう。ここに浸かってしまえば、この焼けるような熱さから逃れられるのだろう。――けれど私は、動けない。
「――……」
一歩でも踏み出せば、自分の太ももに伝う生暖かい液体が――私の心を黒く黒く塗りつぶすように広がって、それがとても気持ち悪くて……今すぐにでも舌を噛み切って、死んでしまいたい気持ちになる。
いや、そうしていれば良かった。実際、そうしていれば……。けれどそれを選ばなかったのは、エリオットの顔が浮かんだから――。彼の悲しむ顔が、脳裏を過ったから……。でも、こんなことになるのなら――どうせ死んでしまうとわかっていたのなら、綺麗なままで死んでしまいたかった。こんな苦しい思い……しないで、彼のものであるうちに、死んでしまえば良かった……。
「……ごめん……なさい」
もう、それしか出てこなかった。汚い……汚い、汚い、汚い。こんな、自分。――あの男たちを、憎むことすらもう出来ない。ただ苦しい、ただ――消えたい。全部、忘れてしまいたい……。全て……全て……。
「……」
――あぁ、私は何の為に生まれて来たのかしら。何の為に今まで生きてきたのかしら。今朝まで幸せだったのに……。昨日だってエリオットの腕に抱かれて、愛してるって言ってもらって……本当に本当に幸せだったのに、こんなに……簡単に崩れ去る。
私はどうして生まれて来たのだろう。彼を苦しめる為に生まれて来たのだろうか。彼と出会って――私を愛した彼は、私が死んだらどんな顔をするのだろうか……。きっと……想像も出来ないほどに、苦しい想いをするのだろう……。けれど、私はもう――生きることを選べない。
「……さようなら、エリオット」
ごめんなさい、ごめんなさい。私――もしももう一度生まれ変われたら、きっとあなたに会いに行くわ。今度こそ、こんなことにはならないように――もっと強く、強く、あなたの傍にいられるように頑張るから……だからどうか、弱い私を、許してね。
――意識が遠のく――。喉が焼けるように熱くて……もう、声も出せない。私は地面に横たわると――滲んだ白い月を見上げて――エリオットの笑顔を思い出す為に……静かに目を閉じ、精いっぱいに……微笑んだ。
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声が聞こえる――。燃え盛る炎の中で、愛しい彼女が泣いている。一人地面にうずくまり、その細い腕で、自分の身体を必死に抱き締めて泣いている。
あぁ、どうして君はそんな顔をしているんだ。何がそんなに君を苦しめるんだ。
僕は彼女に手を伸ばす。彼女を抱き締めようと、必死にこの腕を……。なのに、どうしたって触れることが出来なかった。僕の指は、彼女に少しも届かない。
彼女に襲いかかる真っ赤な炎。焼け焦げる臭い。僕の耳には――彼女の悲痛な泣き声が、彼女の喉から漏れる――声にならない叫び声が……僕の心臓を握り潰すかのように、響き渡っていた。
――あぁ、駄目だ、行っちゃ駄目だ、駄目だ。お願いだ、お願いだから……。
彼女の身体が、崩れ落ちる。燃え盛る炎の中に――ゆっくりと……。けれど僕の足は、動かない。どうしたって、前に進む事が出来なくて――僕はただ、そこに立ち尽くしていた。
「あ……あぁ……」
僕のユリアが、僕の、僕の……。
彼女の命の灯火が、静かに静かに消えていく。赤い炎に燃やされて――僕の目の前から居なくなる。
「駄目だ……お願いだ、ここにいて、行かないで、逝かないで……ッ!!」
必死にもがいて、手を伸ばしても、決して届かない僕の指。炎の向こう側で、白い月を見上げて微笑む――彼女の美しい可憐な姿。死にゆくその時でさえも――その輝きは失われない。
「ユリア――、ユリア……ッ!待って、約束したじゃないか!ここにいるって!僕の傍に居てくれるって……!!」
僕は声を張り上げる。聞こえないとわかっていても、彼女にはもう届かないと知っていても……。
「愛してるんだ!君のことを心から!お願いだ、逝かないで!!ユリア――ユリア……ッ」
伸ばした手はただ空を掻き、指の隙間からこぼれ落ちて行くように、僕の意識が薄れていく。
炎に包まれ消え行く彼女の姿が――僕の視界から消えていく。
「ユリア……っ!」
――あぁ、ユリア、僕のユリア。ごめんね、本当にごめんね、僕が弱かったから、僕が非力だったから、君を守れず傷付けた。僕が君を苦しめて、僕が君を殺してしまった。誓ったのに――君の傍にいると、一瞬だって離れないと……なのに、僕はその約束を果たせなかった。ごめんね、ユリア。こうなったのは全て、僕のせいなんだ。
お願いだ、自分をどうか責めないで。君は本当に悪くない、君は本当に――何も悪くないんだ。あぁ――だからどうか、責めるなら、僕を。恨むなら、僕を――。その美しい君の心をそれ以上傷付けないで。君の涙は、もう沢山だ……。
僕の足元が崩れ去る。――意識が、深い深い闇に沈んでいく。
あぁ――僕は次こそ、君との約束を果たすと誓う。僕は必ず君に会いに行く。僕はもう――君から離れたりしない。その手を離したりしない。だからユリア、待っていて。僕が迎えに行くまで、僕を決して忘れないで。
僕が君をもう一度愛すその時まで――君は……。
***
僕は静かに瞼を上げた。暗い天井だけが、僕の視界に映る。まだ真夜中、僕は深い溜め息をついてゆっくりと身体を起こした。ベッドが軋む。
「……ユリア、もうすぐだ。もうすぐ君を、迎えに行ける……」
僕は暗い部屋のベッドの上から――窓の外に映るあの日の様な白い月を見上げて――愛する愛する彼女の姿を思い浮かべ、只一人小さく、呟いた。




