05
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――雨が降っている。森の木々の葉に、湖に、――地面に、静かに静かに落ちていく無数の雨粒。空は暗く――日差しは無い。その色を映したように、昼間だというのに辺りの景色はどこか灰色に包まれていた。
「そろそろ、行こう」
「…………ええ」
私は背後に立つエリオットの声に小さく返事をして、十五年過ごしてきた家の扉を――固く、閉ざした。
――おばあさまは、死んでしまった。それは6月の始めのこと。ある朝私が目覚めて気が付いたときには、既に冷たくなっていた。お葬式は私とエリオット、それからおばあさまの主治医だったナサニエル先生だけで行い――そして私は今日、この家を離れる。
私が振り向くと、フードの下のエリオットの瞳が切なげな様子で私を見ていた。彼はゆっくりと左手を出し、私が手を取るのを待っている。私はそれに答えるように小さく微笑んでその手を握ると――彼に連れられるように、街へ向かって歩き出した。
――おばあさまが亡くなって、私はずいぶん泣いた。この森に捨てられた赤ん坊だった私を拾い、育ててくれた優しい優しいおばあさま。本当の子供でも孫でもない私を、とてもとても可愛がってくれた、大好きなおばあさま。だけど、……ごめんなさい。私、今日でこの森を出ていくの。
私はエリオットに手を引かれながら、薄手の外套を頭からすっぽり被った彼の後ろ姿を見つめた。その背中は雨に濡れて、いつもよりどこか寂しげに見える。
「――後悔、してる?」
ふと、彼が呟いた。その表情は、彼の後方を歩く私からは伺えない。私の靴が、泥水を跳ねる。
「……いいえ」
私も、呟く。だって、あの家に住み続けるのは辛すぎるもの。思い出が多すぎて。どうしたって、おばあさまのことが思い出されてしまうもの。
エリオットは言ってくれた。一緒に街に住もうと。ここに一人で住むのは、寂しすぎると――。そして私は、彼の言葉を受け入れた。
「私は……薄情かしら」
つい――そんな言葉が口をついて出てしまう。エリオットの肩が、一瞬震えた。
「そんなことない。言い出したのは僕だから」
いつもよりも低い声で、彼はそう言う。
「それに君のおばあさまだって、君が一人でいることは望まないと思う」
真っ直ぐにただ前だけを向いて、迷いのない足取りで森を進むエリオット。私の手をしっかりと掴んで離さない――いつもより冷たい彼の掌。それがどうしてか、少しだけ……怖い。
「ごめんなさい、エリオット。――私、自分が自分でよくわからないの」
「……」
「私……本当にいいのかしら。私……おばあさまに何もしてあげられなかったわ。なのに――今こうやってあなたに手をひかれて歩いている。あなたは私と一緒に居てくれる。――それが、何故かわからないけど……とても、怖いのよ」
「――っ」
瞬間、足を止めるエリオット。そして音もなく振り向いた彼の瞳は――。
「何を――言い出すの」
――雨に濡れて、まるで泣いているように見えた。
「この前僕が言ったこと、覚えてないの……?」
かすかに歪められる、彼の口元。それはどこか、怒りの感情を含んでいるように感じられて、私は思わず息をのむ。――あぁ、言わなければよかった。でも、後悔してももう遅い。
おばあさまが亡くなってからずっと私の傍にいてくれたエリオット。私を抱きしめて慰めてくれたエリオット。そんな彼の優しさに甘えて――とうとう彼を傷つけた。だけど……もう、どうしようも無くて……。
「……覚えて、いるわ」
私は必死に、その言葉だけを絞り出す。
「――なら……ッ!……そんな悲しいこと……言わないでよ。――僕は」
エリオットの顔が、悔し気に歪んで……それを隠すかのように、俯いて……。
「――僕は……こんなに君が好きなのに……」
「――っ」
――あぁ、エリオット、ごめんなさい、ごめんなさい。そんな顔をさせてしまって。私、本当にそんなつもりじゃないのに……。
「何度言ったらわかってくれるんだ。僕が君の傍に居たいんだ。君を幸せにしてあけたいんだ。――それなのに……そんなに僕と一緒が嫌?それとも街に住むのが嫌なの?」
「――ッ、……それ、は……」
何時になく、傷付いたようなエリオットの表情。それをどうにかしたいのに――どうして……私は即答出来ないの?
でもその理由はちゃんとわかってる。なら、ちゃんと私の言葉で伝えなくては。いくら彼が私のことをお見通しだと言ったって……それを口にするかしないかでは……意味が違ってくるのだから。
私は俯いた彼の顔を覗き込むように、見上げる。
「私――どうしても不安なのよ。私にはもうあなたしかいない。もう他に誰もいない。……私、考えてしまうの。あなたの言葉は、あなたの気持ちは心から信じているわ。でも人はいつか死ぬ。……こんなこと言いたくないけれど、私……もしあなたまで居なくなったら、……生きていけない、って」
――おばあさまが死んで、まだ二週間。一生分の涙を流したかと思う程に泣いたけれど――私の心は未だ整理がついていない。痛くて、怖くて――私を支えてくれるエリオットの腕が無ければ、私はきっともうここにはいなかった。
「エリオット。私……私もね……知ってるのよ。街の人に自分が良く思われていないってこと。あなたは必死で隠そうとしていたけど……あなたがご両親から、私との結婚を反対されているってこと……」
「――ッ!」
刹那――彼の瞳が、これでもかと言う程に大きく見開かれる。
「あなたは私と一緒に居たいって言ってくれる。それは私も同じよ。だけど……本当にそれであなたは幸せになれるのかしらって。私はあなたを幸せに出来るのかしらって。
……今まではこんなこと、一度だって思わなかったのに…………どうしちゃったのかしらね、私……」
「――ユリア……」
彼の瞳が、揺らめく。
「私……本当にあなたを愛しているの。心から――あなたのことを愛しているわ。だから、私……あなたにも、ちゃんと幸せになってもらいたいのよ。……どうしたらいいかは、まだ、わからないけれど……」
私の言葉に、再び眉をひそめるエリオット。彼は私の両手を強く握ると、どこか躊躇うように口を開く。
「――それは……何度も言ってるよ。僕の傍にいてくれれば……僕は、それだけで……」
その声は、少しだけ震えていて……私は、それに答えるように頷いた。
「――ええ。そうね、……そうよね。わかっているわ。――ごめんなさい、でもありがとう、エリオット。私あなたを信じているわ。だから私にももっと何かさせて。あなたの傍にいるだけだなんて……私、それじゃあつまらないわ。もっとあなたの役にたちたいの。こんな弱い私を愛してくれるあなたの気持ちに応えたいのよ」
「――っ」
――そうよ、私、エリオットにこんな顔をさせたかった訳じゃないのよ。ただ、あなたの傍にいるだけの女じゃなくて……あなたを幸せにすることが出来るようになりたいの。
私は、微笑む。
「傍にいるだけでいいなんて、寂しいこと言わないで。もっと――私にも期待してくれる?私、あなたの傍にいるから。ずっと、傍にいるから。約束……するわ」
「……っ」
私の言葉に、息を呑むエリオット。彼の表情が、少しだけ落ち着いた様に見えた。彼は「それなら……」と、口を開く。
「僕の隣で、前のように笑っていてくれる?僕は本当にどんな君だって好きだ。だけど……笑顔でいてくれる君が――一番、好きなんだ」
そう言って彼は――少し恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに微笑んだ。その笑顔に、私の心も少しだけ落ち着く。ほんの少しだけ――穏やかに、なれた気がした。
私――まだ辛いけど、でも――エリオットがいてくれるなら、彼が少しでも笑っていてくれるなら、その温かい眼差しを私に向けてくれるなら――。
「私、あなたの為に笑うわ。だって私も、あなたの笑顔が大好きだから――」
雨が止む――。雲に隠れていた太陽が顔を見せ――森に温かい日が差し込んでくる。その眩しさに目を細めながら――私はエリオットの濡れた頬にそっと口づけた。