04
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「……リア、――ユリア!」
「――!」
その声にどきっとして顔をあげると、テラス席のテーブルを挟んだ向かいの席に座るエリオットが、こちらを心配そうな顔で見つめていた。
私の手の中のコップはいつの間にか温くなってしまっている。
「どうかした?」
そう言って私を気遣ってくれるエリオット。彼は不安そうに瞳を揺らし、顔を曇らせていた。
そんな彼の表情に、私はとても申し訳ない気持ちになる。
――あぁもう、私ったら。せっかくエリオットと久しぶりに会えたのに、彼の話も聞かずにぼうっとしてしまうなんて……。しっかり、しなくちゃ……。
「ごめんなさい。何でもないの」
私は何とか、彼に微笑んでみせる。けれどエリオットには私の作り笑いなんてお見通しのようで……。
「何でもないわけないだろう。君、やっぱり顔色が良くないよ。ちゃんと寝られてる?……おばあ様の具合、そんなに悪いのかい?」
「――っ」
彼の言葉に、私は少しだけ目を伏せた。
――あぁ、駄目ね。彼には隠し事なんて……出来ない。
「……。――そう、……そうね。ナサニエル先生は……もうあまり長くはないだろうって……言っていたわ」
「……そんな」
「…………仕方ないわよ。もう――ずいぶん歳だもの」
半年前――年が明けた頃、おばあさまは体調を崩してしまった。
今年の冬はここ数年のうちでも特に寒かったから、年老いた身体には堪えたのだろう。それは季節が春になっても変わることなく、おばあさまの体調は全然良くならなかった。それどころか日に日に悪くなるばかり。
そしてとうとう、ベッドから起き上がることもままならなくなってしまった。
「……今日はありがとう、エリオット。私、もう行かなきゃ……」
私はエリオットにお礼を言って、静かに席を立つ。
あの日――クリスマスから半年が過ぎ、私たちは以前にも増してお互いを想うようになっていた。
けれど、ここ最近は会う回数はめっきり減った。おばあさまが心配で、離れられなくて――こうやって月に二、三回、生活に必要なものを街に買いに来るときと、そして彼が仕事の合間を縫っておばあさまのお見舞いに来てくれる短いひと時、それだけが、今の私に許された――彼と過ごせる時間。
寂しくないと言えば嘘になる。それは多分、彼も同じだろう。
けれどそれでもエリオットは、ただ私の気持ちを考えて、いつも優しく見守ってくれている。それが最近とても心苦しくなってきて――でもそんなことを口にしてしまっては彼を傷つけてしまうだろうと――私は段々と、彼に笑顔を見せられなくなってきてしまっていた。
でもきっと、エリオットにはそんな気持ちすら見透かされてしまっているのだろう。
彼は私を追うように席から立ち上ってこちらに走りよると、私の腕に抱えられた荷物の入った袋を軽々と持ち上げた。
「――送るよ」
そう言って、彼はいつも以上に真剣な顔で私を見つめる。その瞳に、私の心臓がとくんと跳ねた。
「……でも、まだ仕事があるんじゃ……」
「君以上に大切なものなんてない。ねぇユリア、僕はそんなに頼りないかな」
「――っ」
彼の深い緑色の両目が、私を捕らえて放さない。その視線が苦しくて、痛くて、私は思わず俯いてしまった。本当は、嬉しい筈なのに。
けれどそんな私に、尚も優しく、どこか落ち着いた様な声で、彼はゆっくりと語りかける。
「顔を上げて、ユリア。君の気持ちはわかってるつもりだよ。僕たち、何年の付き合いだと思ってるの?」
「……」
その言葉に私が顔を上げると、そこにはいつものように微笑む彼の姿があって。
それは凛々しくも穏やかな、初夏の太陽の様な暖かい笑顔。
そして彼は私の右手を、その大きく逞しく成長した左手で強く――それでいて包み込むように――握ってくれた。
「帰ろうか」
私の愛しいエリオットが、その瞳に私だけを映して、私だけを見ていてくれる。私はその優しさに心癒やされながら、エリオットに手を引かれて歩き出した。
*
街を出て広い草原を抜け、私たちは通り慣れた緑の道を進んでいく。
木々の隙間から降り注ぐ金色の光に目を細め顔をあげれば、そこにはいつもよりも澄んだ高い空が広がり、数羽の鳥たちが大きな羽を広げていた。その羽ばたきが枝葉を揺らし、そこから吹き抜ける青い風が隣を歩くエリオットの髪をさらりと揺らす。同時にきらりと光る、彼の美しいヒスイ色の瞳。
記憶のある頃からずっと過ごしてきた、ここは私の庭のようなもの。
けれど慣れたこの道も、この景色も、エリオットと一緒だと不思議といつもと違って見えた。昔から、ずっとそう。一人でも寂しくはない、怖くはない、寧ろ心地良く感じるほどに、私はこの森を愛している。
でも彼と一緒だと、その気持ちがもっとずっと大きくなって、ただ幸せで。その気持ちはいつまでたっても慣れなくて……。
私は、右手をつないだままの彼の横顔をじっと見つめる。すると彼はすぐにそれに気が付いて、微笑んでくれた。
「なんだか久しぶりだね。こうやって手を繋いで二人で森を歩くの」
エリオットはそう言って、私の手を握る左手に少しだけ力を込める。私より少しだけ高い、彼の体温。それがとても、心地いい。
「そうね、確かにそうかもしれないわ」
私が微笑み返すと、彼はどこか懐かしそうに目を細めた。
「子供の頃はいつも手をつないで散歩したよね。二人でこの森を走り回って……木の実や果実を拾ったり、木登りをしたり、リスやうさぎを追いかけたり……。小川で魚をつかまえたりもしたね」
「――そうね。木登りは私の方が上手かったわ」
「はははっ、確かに!木登りは今でも君には勝てないだろうな。でも足なら僕の方が速い」
「もう、当たり前でしょ!私達いくつになると思っているの!今でも私の方が速かったらそっちの方がおかしいわ!」
「ふむ、それは確かにその通りだ」
彼はそう言うと、すっとぼけたような顔をしてわざとらしく口角を上げた。
そのどこか不敵な笑みに、私の心臓がきゅうっと締め付けられる。
――あぁ、私は本当に……この人には敵わない。
エリオットの声が、笑顔が、その眼差しが……いつだって私の心をときめかせ、強く掴んで放さない。眩しくて眩しくて、その存在自体が愛しくて……。
「ねぇユリア、覚えてる?僕たちが初めてここで出会った日のこと」
エリオットの栗色の髪を輝かせる木漏れ日。彼の柔らかい前髪を揺らす爽やかな春風。彼の瞳の色を一層深く美しく彩る青々とした木々。
そのどれもが、まるで彼の為だけに存在しているのではないかと、――そう、錯覚してしまう程に。
「八歳のときだったよね。森で迷って僕が困り果てているところに、突然空から君が降ってきた」
「――空って……。それはあなたが大声を出すからじゃない」
――そうだ。あの日も私は木の上でうたた寝していて。でも急に叫び声が聞こえたものだから、驚いて落ちてしまったのだ。見事に――エリオットの上に。
「あの時僕は天使が舞い降りてきたのかと思ったよ。街の教会の天井に描かれている天使の絵と、本当にそっくりだったから」
「――っ。それは……初耳ね」
「そう。君の下敷きになって頭を打って。地面に倒れた僕の顔を覗き込む君の碧い澄んだ瞳があまりに美しくて――あぁ僕は死んだんだ。空からお迎えが来たんだな、って思ったよ」
「…………」
これは誉められているの?それともからかわれているのかしら……。私が返事に困っていると、エリオットはふわりと微笑む。
「僕はね、あの日、君を一目見て一瞬で恋に落ちたんだ。あぁ、なんて可愛い子だろうって」
「――っ」
眩しげに細められる、彼の瞳――。
「君は知らなかっただろう?君が僕のことを好きになるよりもずっと前から、そう、初めて会ったあのときから、僕はずっと君のことが好きだったんだ」
「――っ」
――あぁ、どうしてこの人はいつも、私の欲しい言葉をくれるのだろう。まるで私の心が読めるみたいに……。
「僕はね、凄く努力したんだよ。君に好かれたくて、好きになってもらいたくて。だから君の考えてることは大抵わかるようになった。
好きだよ、ユリア。僕は君を愛してる。君の笑顔も泣き顔も、僕に後ろめたいと悩む意地らしいところも、本当はちょっとがさつなところも……全部全部ひっくるめて、君の全てを愛しているんだ」
エリオットの熱い眼差しが、甘い声が、私の心を包み込む。彼の言葉が嬉しくて、切なくて、愛しくて――言葉が出てこない程に。
「だからユリア、お願いだ。どうか僕には君の全てを見せて欲しい。僕の前ではいつだって、ありのままの君でいて欲しい。君が僕のいない場所で涙を流しているなんてこと……想像するだけで、僕は耐えられないほど辛いんだ。
ねぇユリア、僕の願いを聞いて欲しい。君が僕のことを愛してくれているのなら――。いつも僕の隣で笑って、僕の腕の中で泣いて欲しいんだ。どんなときも、僕を君の傍にいさせて欲しい」
「――っ」
エリオットの美しい微笑み。
けれどその瞳には、燃え上がるような熱い何かが見え隠れして……。私はもう、息をすることさえ忘れてしまいそうになる。
「僕はどんな君だって受け入れるよ。君の全てを愛したいんだ。
ユリア、僕は誓うよ。絶対に、何があってもこの手を決して離さないと。例え世界の全てが君の敵になろうとも、僕だけは君の味方でいると――」
「――」
あぁ、あぁ、エリオット。私の愛しいエリオット。私にはあなただけ――。あなたさえ居れば……私はここで、生きていける……。
――愛している、愛しているわ、エリオット。
そして私たちは、お互いの愛を確かめあうように――強く強く抱きしめあった。