03
「――ッ」
私の突然の行動に、ウィリアムの目が大きく見開かれる。まさかこんなことをされるとは欠片も予想していなかったであろう彼は、私の唇が自分の唇に触れ――そしてそれが離れるまで、ただ茫然としたまま固まっていた。
――それは多分、それほど長くない時間だっただろう。触れるか触れないかの、まるで子供がするような口づけだった筈……。けれど、たったそれだけの行為にもかかわらず、私の微笑みに応えるように、ウィリアムの顔は真っ赤に染まった。それは私のよく知るエリオットのように、耳まで赤くして……。そうして彼はさっきよりも、今よりも――ただ驚いたように瞳を揺らす。そしてそこに、私を拒絶する感情は見えなかった。
「――アメ、リア……」
ウィリアムは右腕で口元を隠すようにして、ベッドに横たわる私を見下ろす。その瞳には、その声には、微かに熱がこもっていた。いつもならば、今までならば、何かを隠すように、誤魔化すように、私から顔を逸らしていただろう彼は――けれど今だけは私をじっと見つめ――決して視線を離そうとはしなかった。私はそれが、痛みも忘れてしまう程に嬉しくて、愛しくて、再びウィリアムに手を伸ばす。するとその手を優しく包み込んでくれる彼の大きな両手。その手が本当に温かくて、私の胸に熱いものがこみ上げてくる。
――あぁ、ウィリアム、ウィリアム。愛しているわ、貴方を本当に愛しているわ。
どうしようもないくらいに、痛いほどに締め付けられる私の心。――愛しているわ、と、そう口を動かすと――俺もだよと私を抱きしめて、私の耳元で愛を囁くウィリアム。それが心からの彼の言葉だと、彼の真実なのだと理解するのに一秒もかからなかった。
私を包み込む彼の腕、うなじにかかる彼の熱い吐息。心臓の鼓動。――生きている彼に、私を心から愛してくれている彼に、私は今抱きしめられている。それはなんて夢物語。だけどこれは幻ではない。これは、紛れもない現実だ……。
――あぁ、ウィリアム……。
頬をつたう涙……。溢れ出す、想い――。もう、私は何もいらない。これ以上の幸せなんて望まない。この人の愛が手に入るなら、他の何もかもを捨ててしまえる。彼の心に私の姿を刻み付けれるのなら、私はあなたの為に喜んでこの命を捧げるわ……。
――あぁ、この瞬間が永遠に続けばいいのに。ずっとこのままでいられたらいいのに。この腕に抱かれたまま――この人と生きていけたらいいのに……。
「……今まで本当にすまなかった。君を独りにして、本当に悪かった。アメリア……俺は、本当は弱い人間なんだ。誰よりも臆病で、とても愚かな男だ……」
耳元で囁くウィリアムの声が――微かに震える。
「――それでも、君は俺を愛してくれた。この二か月の間、ずっと俺に笑顔を向けてくれた。俺はいつの間にか、そんな君に心惹かれていたんだ。
聞いてくれ、アメリア。俺は今、君を心から愛しているよ。本当に、愛おしいと思っている。だから、アメリア……ずっと俺の傍に、いて欲しい。結婚しよう、出来るだけ早く」
「――ッ」
私の背中に回された彼の腕に――力が込められる。私を離さないように、どこへも行かせないというように――。それは私のずっと望んでいた言葉。私がずっと夢見ていた愛の証……。だからなのか、もう――本当に、涙が溢れ出して止まらなくなった。彼の声が――愛しくて、痛い。嬉しくて――苦しい。息が出来ないほどに。
私はちゃんと覚悟していた。気持ちが通じあう、それが別れの合図だと。愛し愛されたとき――それが私と彼の本当の最後だと。でも……やっぱり……。
――ここに、いたい。ずっとこの人の傍にいたい。一緒に生きていきたい。でもそれは決して許されないこと。絶対に、望んではならないこと――。ならば私は今こそ私の気持ちの全てをこの人に伝えよう。愛していると、貴方を心から慕っていると……少しでも私のことを、忘れないでいてもらうために……。
そして――私のその想いに応えるように……今まで空気しか出なかった私の喉が――まるでこの時を待ちわびていたかのように……ようやく言葉を、発した。
「――ウィリ……アム」
「――ッ!」
その擦れた声に――ハッと顔をあげるウィリアム。その顔が――今にも泣き出しそうに、歪む。
「アメリア……声――が……?」
ウィリアムの言葉に、そうみたいと呟くと、彼はこれでもかというくらいに私を強く――けれど愛しむ様に抱きしめた。そして彼は、良かった、本当に良かったと……何度も何度も震える声で繰り返す。そんな彼が本当に愛しくて、私も彼の背中にゆっくりと腕を回した。そして、まだ掠れてはっきりとはしない声で、精一杯の想いを伝える。
「勿論よ、ウィリアム。……私も、あなたのことを心から愛しているわ」
「――っ」
私の言葉に、私を抱きしめるウィリアムの肩が揺れた。彼のさらりとした前髪が、私の首もとをくすぐる。私の言葉を噛み締めるように、私の声を確かめるように、彼の声が囁く――もう一度、俺の名前を呼んでくれ、と。
「ウィリアム、ウィリアム、……ウィリアム」
「あぁ――アメリア」
私の声に応えるように、彼は私の肩から頭を上げ、熱を帯びた瞳でじっと私の顔を覗き込んだ。そして――。
「――んっ」
彼は私をゆっくりとベッドに押し倒すと、そのまま深く、口づけた。何度も、何度も――それは私の知らない彼の姿で。私の知るエリオットよりもいくつも年上の彼のその口づけに、私はアルコールの焼け付くような匂いと、その熱に全身を犯されていくような――そんな感覚に襲われる。頭の芯が痺れて、何も考えられなくなる……。
「――アメリア」
キスの合間にも私の名前を囁き続けるウィリアムの薄い唇。それがいつしか私の首筋に、肩に――胸元に、点々と赤い華を咲かせていった。バスローブの紐が解かれ、秋の夕暮れの冷えた空気に晒される私の身体。けれど、寒さは全く感じなかった。それは多分、ウィリアムの唇に犯されているせい。全身が燃えるように熱くて――思わず、口から漏れ出す、吐息。
「…………ん……ッ」
熱い、熱い………、身体と思考が分離してしまいそうになる。意識が、遠のく――。まるで、自分の身体じゃないみたいに……。
私の下腹部に伸びるウィリアムの手。それは先ほどまではあんなに熱いと思っていたのに、いつの間にか冷えていて――その冷たさに私は思わず身を縮めた。すると彼ははたと手を止め、眉を潜める。そして、呟いた。
「……熱すぎないか?」
ハッとしたような表情を浮かべるウィリアムの右手が、私の額に当てられる。同時に見る見る顔色を悪くするウィリアム……。――どうか、したのだろうか……。
「――熱」
「……え……?」
「熱がある」
彼のその言葉に、私は妙に納得した。――あぁ、先ほどからの頭痛はそのせいかと……。それを自覚したら、何だか今度は逆に寒気を感じるような……。けれど私はそれでもウィリアムを何とか安心させたくて、尚も朦朧とする意識の中で、必死に口を動かす。
「……人間、誰しも熱はあるものよ……」
「――こんなときに冗談を言うやつがあるか!今度こそ医者を呼ぶからな。――誰か!誰かいるか!医者を呼べ!今直ぐに!」
そう言って部屋の外に向かって声を張り上げる彼。いつもなら決して有り得ない彼の罵声に近い声音に、部屋の外から「かしこまりました」という焦ったようなメイドの返事がして、そのまま駆けていく。彼はそれを確認すると、再び私の手を強く――両手で握った。
「俺はここにいる。ずっと、君の傍にいるから」
懐かしいその言葉に、私は心から安堵して――けれどそれと同時に私を襲う酷い眠気。瞼が鉛のように重い。目を開けていられない……。全身から、力が抜けていく。彼の両手に包まれた私の右手も――もう、少しも上げていられない程に……。
「――アメリア!?」
力無くうなだれる私の右手の重たさに気が付いたのだろうか。真っ青になって私の名前を呼ぶ彼の顔が――閉じかけた私の瞳に映った。
あぁ、そんな顔しないで。大丈夫、大丈夫よ、きっとただの風邪よ――すぐに良くなるわ……。そう伝えようとしたが、もう私の口は動かなかった。
「アメリアッ!アメリア――!!しっかりしろ、アメリア!!」
彼の悲痛な声だけが私の頭に響く。あぁ――まるでこれは、あの時と逆みたいね……。熱に犯された私の脳裏に過ぎるのは……あの日息絶えたエリオットの姿。
いつもは彼を見送るばかりだった私。もし今彼がそのときの私と少しでも似た感情を持ってしまっているのなら――神様、それだけはどうかおやめになって。彼を少しも苦しめたくないの。あの時の私の様な想いは、絶対にしてほしく無いの……。
「アメリア!返事をしてくれアメリアッ!」
酷く取り乱したような彼の声が、必死に私の意識をつなぎ止めようとする。けれどそれももう、叶わない。
深い深い海の底に沈んでいくように、全身の感覚が消えていく。――彼の声が、聞こえなくなる。視界は闇に覆われて、何も考えられなくなる。
――愛して、いるわ。
私はそんな薄れゆく意識の中で、最後にそう、一度だけ、彼への切なる愛を……囁いた。




