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02


***


「お嬢様、湯加減は如何でしょうか」


 扉の向こうから、ハンナのいつも通りの明るい声が聞こえてくる。その声に、私は「丁度いいわ」の意味を込めて、二回手を叩いた。


 声が出なくなったあの日から、私はお風呂のときはこうやって手を叩き、ハンナに指示を出している。“肯定”なら二回、“否定”なら三回。そうは言ってもハンナは何でもよく気が付いてくれるから、私が三度手を叩くようなことは殆どない。それにハンナに言わせれば、こうやって湯舟に浸かるときは侍女の一人もつけるもの、そうすればお嬢様がわざわざ手を叩いて合図を送る必要もなくなるのに――とのことであったが、私は昔からお風呂は一人で入ると決めているのだ。それを今さら声が出なくなったくらいで覆すつもりは無い。――だって髪も身体も一人で十分洗える。それに、もし怪我を負っても決して気が付かれてはならないから――。今日あの男に付けられた首の赤い痣……この様な、貴族の令嬢にあるまじき姿を――。


 私は肩までお湯に浸かりながら、ニックのことを思い浮かべる。ライオネルはあの後恐らくニックを警察に引き渡したことだろう。とは言え罪状はただの窃盗。それ程罪は重くない筈だ。それにまだ彼は子供。あの様子だとかつてはまだ生きていた彼の父親は亡くなってしまっていそうだし、身元引受人など最早誰も居ないだろう。明日にでも直接足を運んでいくらか見繕ってやれば簡単に釈放してくれる筈。久しぶりに――ローザにでも変装しようか。それともルイスに協力を頼むべきか……。

 そこまで考えて、私はそれを否定するように首を振った。――駄目だ。きっとルイスは許してくれない。自分の目的を忘れるなと釘を刺されることだろう。この二か月、ルイスは私に何のアクションも起こして来なかった。それは多分、私がルイスの思惑通りに動いているからであって……。――それに只でさえ今日は不審な行動をしてしまったのだ。これ以上、ウィリアムに怪しまれる訳には……。そこまで考えて、私はようやく思い当たる。


「……」

 ――あれ?ちょっと待って。どうしてさっきルイスやウィリアムは、私にニックについて何も聞かなかったの?そもそもどうして二人が一緒に……。


 ――街で置き去りにされたハンナ。そうだ、最初はただの偶然かと思っていたが、違うのだ。急に居なくなった私をルイスが追いかけ――そしてウィリアムとハンナはその後合流した……。それが意味するものは即ち……。

 尾行――されていた?私たちが……ハンナと、ルイスに……?


「――っ」

 私はやっとその事実にたどり着き、思わず顔を歪める。

 全然、気付かなかった。欠片も、気が付かなかった……。私はこの二か月の間に、どれだけ不抜けてしまったのだろう。……いや、きっと悪意のない尾行だったのだ。だから、気付かなかった。きっとそう……だけど。


 私は、浴室の鏡を睨むように見つめる。

 ――ならばルイスは気付いた筈だ。きっと、私とニックの関係に。彼の事だから、既に私の過去など調べ上げてしまっているだろう。私がニックをどうするつもりで追い掛けたのか――きっとルイスは気付いている。それなら……。


 私は静かに――湯船から立ち上がった。鏡に映る自分は果たしてアメリアか――それともユリアか。どちらでもかまわない。けれど、この首の赤い痣が、私の心を戒める。

 ウィリアムを愛すると誓った今でも――まだ気を抜くのは早いのだと。まだ何も、解決してはいないのだと。


「――」

 あの時は余裕が無くて――ついライオネルに対しておかしなことを口走ってしまった。以前の私ならもっと冷静に対処出来た筈なのに……。きっと彼は私の困る様なことはしないだろう。けれど、今回のことで彼をコチラ側に巻き込んでしまうところだった。本当に……浅はかだった。この様なことはもう二度と無い様にしなくては……。


 そう心に決めて――私は静かに、目を閉じる。すると丁度その時、浴室の外からハンナの声がした。


「お嬢様、申し訳ございません。下に行ってタオルを取って参りますわ。しばらくお待ちになってて下さいね」


 ――あぁ、今日は屋敷の使用人が出払っているから何時もと勝手が違うのだろう。バスローブはここにあるが、髪を乾かすためのタオルが無かったとかそんなところか。

 私は肯定の意を込め、再び二度手を叩く。同時に扉の向こうから消えるハンナの気配。


「……」

 私はそれを確認して、湯船から上がるとバスローブを羽織った。首の赤い痣を今のうちに隠してしまおうと考えて。

 私は鏡の前に立ち、手に収まる程の大きさの陶器の入れ物の蓋を取る。そしてそこに入っている白粉を指に付け、ゆっくりと首の上に伸ばしていった。――けれど、その時。


「アメリア?そこにいるのか?」

 唐突にウィリアムの声が扉の向こうから聞こえたかと思うと、ゆっくりと下がる――ドアノブ。


「――ッ」

 どうしてウィリアムが――!

 私は焦る。人が入って来た気配なんて感じなかったのに、どうして――。あぁ、駄目よ、開けないで、まだ私はこの痣を隠しきれていない……!

 私はそう思い、扉を開けさせまいと駆け寄る。けれど、間に合わなかった。扉の向こうから姿を現したウィリアムと、私の視線が――ぶつかる。


「――あ」

 ウィリアムはバスローブ姿の私に一瞬顔を反らしたが、けれど――直ぐに視線を、戻した。


「……何を、しているんだ」

 そう言って眉をひそめる、ウィリアム。


 ――あぁ、気付いて、しまったのね。

 私の手に握られた陶器のうつわと、首の痣……そこに、ウィリアムの視線が突き刺さる。そしてその意味を悟ったのだろう、これでもかと言う程に大きく見開かれる、ウィリアムの緑色の瞳。そして彼は、声を震わせて呟いた。


「その痣……昼間の……なのか……?首を、絞められたのか……?」

「――」

 あぁ――気付かれたく無かった。この人にだけは、こんな姿、見られたく無かった。

 私は頷くことも出来ず――ただ、俯く。けれどウィリアムは、それを決して許さなかった。


「アメリア!」

「――っ」

 彼の顔が、酷く歪む。今まで見たことも無いくらいに、感情的に……まるであの日の、エリオットの様に――。


「どうして言わなかった!何故隠したりするんだ!俺は、そんなに――ッ」

 悔しげに揺れる彼の瞳。今にも泣き出しそうな程に、震える彼の唇。――彼の腕が、私の背中に回されて――でも、そこで、止まる。

 

「――自業自得、……だな」

 そう呟いて、ぎりりと奥歯を噛み締めるウィリアム。そして彼は、自嘲気味に片方の唇の端を上げた。

「君と真剣に向き合って来なかった、こんな俺を……頼れるわけ、ないよな……」

「――ッ」

 違う、違う、そんなことない。そんなこと、あるわけない。これは全部私の我が儘なの、私が好きでしたことなの。だから――あなたにはそんな顔、して欲しくない。


 私は、揺れる彼の瞳を――見つめる。けれど、私の想いは伝わらず、そのまま私に背中を向けるウィリアム。

「……すまない」

 そう呟いて、私から離れていく――ウィリアム。


 ――あぁ、待って、行かないで、行かないで。ここにいて……エリオット!


 私の心が――叫ぶ。私の中のユリアが、悲鳴を上げる。でも、やっぱり私の声は、声にならず――そして同時に、急に痛み出す、こめかみ。

 何かで強く締め付けられるような……鈍く――重たい痛み。それに逆らえず、私は思わずその場にしゃがみ込んだ。


「――っ」

 ……あぁ――なんで、こんなときに……。ウィリアム……ウィリアム……ねぇ、お願いよ……行かないで……。


 そう思っても、もう私にはどうすることも出来なかった。痛くて――痛くて。声も出せず、私はただ手放しそうになる意識の中で、ウィリアムの背中を見つめることしか出来ない。

 けれど、それが幸を奏したのだろうか……。痛みに絶えきれず力の抜けた私の左手から、白粉の入った器がタイル貼りの床に落ち、カツンと音を立てた。その音に、不意にこちらを振り向くウィリアム。そして彼の視線が私の視線と絡まると――彼の顔が再び――歪む。


「――アメリアッ!」

 ウィリアムは私の名前を叫ぶと同時に、顔を真っ青にしてこちらに駆け寄ってきた。それが何だか妙におかしくて……嬉しくて、私は何とか、彼に微笑む。


「頭が痛むのか!?」

 そう言って――焦った顔で私を軽々と抱き上げるウィリアム。

「どうして言わないんだ……」

「……」

 その声はいつもの彼らしくなく――今にも消え入りそうな声で……。それは本当に、あの日の――エリオットの様で……。


 ――あぁ、どうして、どうしてあなたがそんな顔をするの。どうして、そんなに傷ついた顔をするの……。


 彼は顔を辛そうにしかめたまま、私をそのまま寝室のベッドに運んでくれた。そしてゆっくりと私の身体をベッドに下ろすと「医者を呼んでくる」と小さく呟き、再び背を向けようとする。けれど――私はもう離さない。もう彼を、行かせない。

 私は必死に痛みに堪えながら、ウィリアムのシャツを掴んで――引いた。


「――ッ、……アメリア」

 ウィリアムはそんな私の行動に、困惑の表情を浮かべた。そんな彼に何とか伝えたくて、私は声を出せないままに、口を動かす。


「……行かない……で……?」

 彼は、私の口の動きを確認するように、そう口にした。


 ――あぁ、良かった、伝わった。

 私は安堵し、頷く。――そして再び、繰り返す。


「……ここに……居て……?――俺、に?」

 本当に?と、続けるウィリアム。


 あぁ――何て顔をしているの、ウィリアム。あなた一体どうしたの、何があったの。そんな顔されたら――愛されてるって、勘違いしてしまう。……でも、もしその可能性が少しでもあるのなら――。


 私は朦朧とする意識の中で、必死にウィリアムの腕に手を伸ばす。そして、呆然とする彼の腕を引っ張り彼の身体をひきよせると、そのまま彼の唇に――そっと口づけた。


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