02
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それから三年が経ち、僕は十歳になっていた。
それはとても暑い日だった。夏の日差しが容赦なく地面を照り付け、そこから照り返す熱が僕らの肌をじりじりと焼きつけていた。
「はあ――ッ!やあッ――!」
僕はその日、ヘンリーと城の庭の訓練場で、剣の稽古をしていた。
従兄弟のヘンリーは僕の二つ年上。ヘンリーとは、僕が八つのときから共に稽古をするようになった。けれど僕は、まだ一度もヘンリーに勝てたことがない。
「――はああッ!」
「――おっと」
僕の剣が――といっても木製だけど――ヘンリーの頬をかすめる。けれどそれはいとも簡単にかわされてしまった。そして同時に、僕の剣を一瞬で薙ぐ、彼の剣。ヘンリーの力は僕なんかよりずっと強くて、僕はバランスを崩してしまう。
もちろんその隙を、ヘンリーが見逃すはずはない。僕が体勢を整えるまでのほんの一瞬の間に――僕の横っ腹に据えられる、ヘンリーの剣の切っ先。
「――そこまでッ!」
そしてまたしても、本当にあっさりと――僕の敗北が宣言された。
――あぁ、また……僕の負けか。
僕たちはゆっくりと剣を下す。そして僕は、額の汗を袖でぬぐった。
僕の目の前に立つヘンリーは得意げに――けれど気持ちのいい顔で、笑っている。
「また俺の勝ちだな!アーサー」
「……」
短めのアッシュグレーの髪が、風にそよぐ。そのすっきりとした顔立ちに浮かぶ満面の笑み。それはまるで、どんな闇も照らし出す真夏の太陽の様な明るさで、僕にはとても眩しく見えた。
ヘンリーはいい奴だ。人を決して羨んだり、蔑んだりしない。それは彼が自分自身に自信を持っているからで、確固たる強い信念があるからで。だから僕は、ヘンリーを傍に置いている。だけど――。
僕は、俯く。
「おいおい、そんな顔するなって。俺の方が二つも年上なんだから、負けたら示しがつかないだろう?」
「……」
ヘンリーは僕が、彼に負けて悔しがっていると思ったようだ。でも違う、確かに負けたことは悔しいけれど、……そうじゃない。
僕が何も答えないでいると、いつの間にか傍に来ていたコンラッドの声が、頭上から降り注ぐ。
「さあさあ坊ちゃま方、こんなところで話し込まれるのは止めて、日陰で休憩されてはどうですか。万が一熱中症で倒れられでもしたら、私の首が飛ばされてしまいますのでね」
どこもかしこも角ばった大きな身体。黒く焼けた肌に、引き締まった筋肉。彼はこの国の騎士団長、コンラッド・オルセンである。
彼はその焼けた顔に笑みを浮かべて、僕らを見下ろしていた。それはとても……気迫のある笑みであった。
けれどヘンリーは全くひるまない。それどころか彼は、コンラッドを白い目で見上げて、言う。
「コンラッド、坊ちゃまはやめろって言ってるだろ。それに俺たちはこんなことで倒れる程軟弱じゃない。――なぁ?アーサー」
ヘンリーは、僕に同意を求めるような視線を送ってくる。けれど、僕は思わず視線をそらしてしまった。だって僕は正直なところ、身体を動かすのはあまり得意ではないから。
そんな僕の様子に、コンラッドは豪快に笑う。
「はっはっは!坊ちゃまは坊ちゃまですよ。それに、お二人にあまり強くなられても、私たち騎士の役目が無くなり困るというものです。さぁさぁ、今日はこれで本当に終いです。私も仕事が残っていますのでね」
コンラッドはそう言って、その笑みを一層深くした。その気迫に、流石のヘンリーも従わざるを得ない。
僕たちは剣をコンラッドに手渡し、テラスへと歩き出す。
この訓練場は城の東側に面していた。本当はただの庭だったのだけれど、父上に頼んで少しだけ場所を空けてもらったのだ。僕の部屋の窓から見下ろせるこの場所に。――僕は、少しだけでも強くなりたかったから。
訓練場に面したテラスでは、侍女たちが既に飲み物を用意して待っていた。僕らはテーブルについてグラスを受け取る。
グラスにたっぷりと注がれたレモンスカッシュからは、細かい泡がしゅわしゅわと湧き出てきていた。――あぁ、冷たい。ひんやりして気持ちいい。僕たちは一瞬目を合わせると、それを味わいもせずに、一気に喉に流し込む。――喉が、一瞬にして潤うのを感じた。
「あぁ――美味いな」
「うん。……おいしいね」
どうやら僕らは相当喉が渇いていたらしい。侍女たちは僕らの様子にくすりと笑うと、テーブルに二杯目のグラスを用意してくれる。
ヘンリーはそれを手に取り、再び口をつけた。彼の喉が――ごくりごくりと、気持ちのいい音を鳴らす。
僕はそれを横目で見ながら、訓練場の更に奥にある広い庭園をぐるりと見渡した。
――ここは変わった。三年前のあの日から。彼の声が聞こえるようになった、あの時から。
普段は決して表に出てこない、もう一人の自分。彼は僕の心が限界に達するときにだけ、表に出てくる。僕の代わりに皆の望む言葉を囁き、そして同時に、切り捨てるのだ。そうして気が付けば、いつの間にかこの城の中から負の感情は消えていた。僕を悪く言う者は、この城の中から居なくなっていた。
僕の右目は相変わらず赤いまま。けれど周りの心の声は、僕が聞こうと思わない限り聞こえることは無くなった。だから最近は比較的平穏に……僕は心穏やかに過ごすことが出来ている。
「――あ、そうだ、アーサー」
唐突に、ヘンリーが僕を見た。
「父上が君に会いたがっていたよ。君の意見が聞きたいんだって」
その言葉に、僕はつい顔をしかめてしまう。ヘンリーの父親、アルデバラン公爵。僕の――伯父。
公爵には三年前、この城から何人も人を追い出す際にずいぶんと世話になった。その恩がある、だから決して無碍には出来ない。けれど……。
「そんな顔するなって。君の言うことはよく当たるから……頼りにしてるんだよ」
「……」
わかっている。これも全て自分の蒔いた種だ。そうしたのは彼だけど、それでも僕がしたことには変わりはない。それに、公爵は決して悪い人では無い。誰かを貶めようという類の心は、全く持っていないのだ。ただ、ひたすらに強欲なだけ。
それが僕に牙を向くことは無いだろう。そして周りを傷つけることも、しばらくの間は無いであろう。公爵は強かな男だ。――けれど彼はいつだって、正当性のある決を下す。だから彼は公爵をここに残したのだろうし、三年前、公爵に協力を頼んだのだろうから。
僕は顔を上げて、無理やり笑顔を作り出した。
「わかった、来週にでも」
「そうか!良かった、父上に伝えておくよ」
ヘンリーは太陽の様に笑う。本当に、眩しい笑顔。――でも。
「来月から、だよね。学校」
そう、来月からヘンリーは寄宿学校に入学する。しばらくの間、会えなくなってしまうのだ。
僕はぎりりと唇を噛む。
ここは確かに変わった。あの頃と違い、皆僕の目を見て話してくれるようになった。笑顔を向けてくれるようになった。ここにはもう誰一人として、僕のこの力を知る者は居ない。この僕の右目の本当の色を、知る者は誰も居ない。
それでも、僕は周りを信用することが出来ないでいた。心を読んでしまえば、聞こうと思えば直ぐにでも頭に響く他人の声。けれどもしそれが、またあの頃の様に僕を恐れ、蔑む声だったら――。そう思うと、足が竦んで動けなくなる。誰の声も、もう二度と聞きたくないと、聞こえないと……そう、耳を塞いでしまうのだ。
そんな僕が、本当に信用出来るのは……ヘンリー只一人。それなのに、彼としばらく会えなくなるなんて……。
「アーサー、何て顔してるんだ。君は本当に俺のことを慕ってくれているんだな!」
「――!」
ヘンリーは屈託のない顔で笑う。
「大丈夫だって。十二月にはクリスマス休暇があるし、三ヶ月なんてすぐだ。そうだろう?」
そう言ったヘンリーの顔に迷いはなくて、彼にとっての三ヶ月と、僕にとってのそれが如何に違うのか、まざまざと思い知らされてしまった。
きっとヘンリーは、僕のことなんて直ぐに忘れてしまうだろう。こんなに人が良くて、明るい彼だ。新しい友人が出来て、こんな僕のことなど、思い出しもしなくなる。
「――っ」
そう考えたら、思わず泣き出しそうになった。思わず、叫び出しそうになった。……でも僕は、それを必死に押し込める。ヘンリーを困らせたくはない。
だから僕は、精一杯……笑った。
「そう、だね。三ヶ月なんて直ぐだよね。学校、頑張ってね」
「ああ!ありがとう、アーサー!」
僕の笑顔を見て、安心したように微笑むヘンリー。無邪気な……子供の様な笑顔。
それは眩しくて……あまりにも眩しすぎて、僕の暗く淀んだ心に、深い影を落としていった。