07
出来ることなら口にしてしまいたい。どうしてほんの一瞬でも彼女から目を離したのかと、どうしてその手をしっかりと掴んでおかなかったのかと。何も知らずにお気楽に微笑むその顔を、ぶん殴って責め立ててやりたくなる。彼女は――アメリアの味わった痛みは、こんなものじゃなかったんだぞ、と――。
けれどライオネルは、自分の中に湧き上がるその葛藤を、必死の思いで抑えつけた。だって彼は約束したのだ。アメリアの受けたその傷を、決して誰にも言わないと。特にウィリアムには絶対に気付かれてはならないのだと。それに相手は侯爵の息子で伯爵なのだ。下手に手を出せば自分の身の破滅は免れない。
だからライオネルは――その優しげな顔立ちに、事務的な笑みを浮かべた。
「その様なお言葉、僕には勿体ないです」
笑顔の裏に――沸々とした暗い想いをひた隠しにして。
そしてウィリアムは、そんなライオネルの態度に満足げに微笑むのだ。アメリアの無傷であることを信じて疑わない瞳を、腕の中の彼女に投げかけながら……。
ウィリアムにとって、そしてアメリアにとってはそれが真実であり、だからライオネルは自分の感情を心の奥底に閉じ込め、口角を上げる。
「では、通りまで僕が案内致しますので」
――今僕は、きちんと笑えているだろうか。ライオネルはそんなことを考えながら、ずり落ちそうになるニックを背負い直し、三人の先頭を歩き出した。するとその横に、いつの間にか傍に来ていたルイスが並ぶ。ルイスは不安げな表情を浮かべると、ライオネルに目だけで会釈をして、後ろに続く二人には聞こえない程の声でライオネルへと言葉を投げかけた。
「ライオネル様、つかぬ事をお聞きしますが……」
「……どうかしたの?」
ライオネルはルイスのどこか曇ったその顔に、先ほどまでの事務的な笑みを消して尋ね返す。
「はい。――実は先ほど私共がアメリア様を捜してこちらに駆け付ける前、コンラッド卿に行く手を阻まれてしまいまして……しかしライオネル様はどうやらそのことをご存知無い様子。一体これはどういう事なのでしょうか」
「……え?」
ルイスの言葉に、ライオネルは目を見開いた。アメリアを捜そうとしているルイスとウィリアムをコンラッドが足止めする……その理由が直ぐには思い当たらなかったのだろう。ルイスはそんなライオネルの横顔に目を細め、続ける。
「コンラッド卿は、ウィリアム様を危険な場所には行かせられないと仰っておりました。確かにそれは私も理解できますし、同感でございます。けれど、ならばなぜアメリア様がその少年を追いかける前に止めてしまわなかったのでしょうか。何故、アメリア様だけを行かせて、ウィリアム様のみをそこに止まらせる必要があったのでしょうか」
「……」
ルイスの言葉に、ライオネルは何かを考える様に口を閉ざした。けれど足だけは止めることなく歩き続ける。ライオネルの耳に届く、少し離れた背後から聞こえるウィリアムの、アメリアを気遣う優しい声。ライオネルはその声に酷い不快感を覚えながらも、しばらくルイスの言葉の意味を考えて、再び口を開けた。
「そもそも僕は下っ端だから、捜索対象がアメリアだったなんて聞かされていなかった。伯爵と君がいるってこともね。ただスリの少年と一緒に姿を消した貴族のご令嬢を保護しろとしか……。でもそれって確かに君の言う通り、姿を消した時点でこの少年がスリだってわかってたってことだよね」
ライオネルは自分のつま先を見つめながら、ルイスの返事を聞くことなく、尋ねる。
「ねぇルイス、その口振りだと……君は知っているんだろう?アメリアの正体を。彼女、この少年を引き止める為に――この子の脚にこれを……」
そう言ってライオネルは、左手だけで少年を支え、右手でサーコートの内ポケットから髪飾りを取り出した。そしてそれを、未だ黙ったままのルイスの左手に落とす。
「……これは」
ルイスは呟いて、髪飾りの先端の鋭さに――察した。直ぐにそれを自分の胸ポケットにしまい、困ったように微笑む。
「ライオネル様は、『街の仕立て屋アラン』の話はご存じですか?」
それは突然の問いかけだった。
ライオネルは困惑する。
「――え。勿論知ってるけど……急にどうしたの?」
“街の仕立て屋アラン”――それは昔からこの国に伝わる有名な童話の一つである。
しがない仕立て屋の青年アランが“とある一件の仕立ての依頼”をきっかけに大きな事件に巻き込まれ、けれど最終的には国一番の仕立て屋へと身を立てる話。
“日々努力を怠らなければいつか必ず成功することが出来る”、"諦めないことが肝心だ"といった意味や、“チャンスは皆平等に与えられている”といったものの例え話として使われることが多い。
「では、その話に出てくる花屋の娘、ローザのことは」
「ローザって……確か」
ライオネルは二、三秒考えてから口を開いた。
「アランに恋をしていた少女のことだね。出番は序盤にしかなかったと記憶してるけど……」
「ええ、仰る通りです。アランは別の女性と結ばれてしまい、ローザの恋は叶わなかった」
実はこの話、少女たちの間では“恋の物語”として有名でもある。
だがそれはともかくとして、ライオネルにはルイスがどうして急にこんな話を持ち出したのか全くもってわからなかった。
「ライオネル様は知っていますか? この話、実は実際に起きた出来事を基にした話なのでは、と言われておりまして」
「つまり、実話ってこと?」
「ええ。もう三百年以上前の書物にこれとよく似た話が書かれていたのです。もっとも、その書物でのローザは花屋の娘ではなく、アランを守る女剣士として描かれておりますが。それ以外は……特にアランについての記述は、全くもって童話と同じ内容ですよ」
ルイスはそう言って、小さくため息をつく。
その表情は何かを憂いているように見えた。けれど、ライオネルにはその理由がわからなかった。
彼はルイスの横顔を見つめ、尋ね返す。
「今の話とアメリアに、いったいどんな関係があるの?」
するとルイスは、ライオネルをちらと横目で見てから、ゆっくりと口を開けた。
「いえ、何も関係ありません。ただ、その話の中でのローザは、アランを守るためなら人殺しすら厭わなかった。そのかいあってアランは若くして成功することができたのです。だがその一方で、周りに敵を作り過ぎたローザはアランの知らぬところで殺されてしまった。話の中での彼女はどこまでも気高く、冷酷で、孤独でした。……私は彼女のそういうところが――」
そこまで言うと、ルイスは突然沈黙した。
いったい何を想っているのか、その横顔はあまりにも真剣で、ライオネルはこれ以上声をかけることもできずにただ歩き続けるしかない。
――気が付けば、いつの間にか人通りの多い路地へと出ていた。ここまで来てしまえばもう安全だろう。それに、道行く人々の雑踏で後ろの二人に声を聞かれることもあるまい。
ルイスはそう判断したのか、あるいは別の想いがあってなのか、再び話し出す。
「……私は常々感じているのです。アメリア様を見ていると……どういうわけか、どうしてもローザを……思い出してしまう」
「――ッ」
瞬間、ライオネルは両目を大きく見開いた。
アメリアを見ていると“ローザ”を思い出す、とは一体どういう意味なのか
ライオネルがじっとルイスを見つめれば、ルイスはほんの少しだけ口角を上げる。
「彼女の孤独なところ……そして、“目的の為なら手段を選ばない”――そういうところが、ですよ」
それは囁くほどの声だった。けれどこの喧噪の中でも、ライオネルの耳には怖い程はっきりと響いて聞こえた。
「……僕には、君の言っていることがよくわからない」
「おや、本当に? 貴方は既に、アメリア様のそういう面を目の当たりにされているのでは?」
「――っ」
ルイスの挑発するような声音に、ライオネルは絶句する。
脳裏に過るのは、路地裏での先ほどのアメリアの姿。
そのときのことを思い出したライオネルは、これ以上ルイスの言葉を否定することもできずに両目を閉じた。波打つ心の動揺を抑え込もうと、肺から深く息を吐きだす。
――冷静になれ。今僕ができることは、そう多くない。
ライオネルはそう考えながら、両目を開いて真っすぐに前だけを見つめる。その視線はそのままに、横を歩くルイスに尋ねた。
「伯爵は、彼女のそんな一面を知らないんだね?」
「はい、存じておりません。アメリア様はウィリアム様を本当に愛していらっしゃいますから……」
「……そう」
――愛しているからこそ、知られるわけにはいかない。つまりはそういうことだろう。
「ねぇ、ルイス。前に僕が君に言った言葉、覚えてる?」
ルイスはその言葉の内容に、直ぐに思い当たった様だった。彼は淀みなく答える。
「ええ、はっきりと。お困りの時は助けてくださると……そう言ってくださいました」
「そう。僕、本当にそのつもりでいたんだ。……ごめん、僕、勝手に伯爵とアメリアについて調べさせてもらって……そしたら知れば知るほど彼女のことが心配になってしまって。それが、今日アメリアに会ってはっきりした。僕は本心から、彼女の力になりたいんだって。でも――僕には爵位も無いし力もない。どうしたらいいのか本当にわからない」
「……それは、アメリア様のことをお慕いされていると?」
「――!いや、違う、そういうんじゃない!そんな、恐れ多いことは――」
けれど、ライオネルは否定しかけて気が付いた。自分の心中に不確かに渦巻くこの想いの正体が一体何なのか――まだ理解できていないことに。それが恋では無いと、きっぱりと否定しきれないのだと言うことに。でももしそれが恋であったのならば――それは決して許されない想いだ。だから彼は、その想いを否定する。
「違う。これは彼女の友人としての言葉だ。僕はまだ騎士でもないし、彼女に仕えられるような立場の人間でもない。でももし少しでも彼女が望んでくれるなら、僕は本当に彼女の友人として彼女の傍に居たいんだ。――許されないことだとしても」
「……そう、ですか」
ルイスはライオネルのまっすぐな瞳に、その迷いのない横顔に再び目を細め「でしたら――」と続ける。
「貴方の覚悟、そして誠意をお見せ頂けますか。不本意ながら私、アメリア様の生き方には少々不安を覚えておりまして……。どなたかお諫めして下さる方が居れば……と考えていたのでございます。アメリア様の評判は既にご存じでしょう? あの方は一筋縄ではいきません。ですがどうやら貴方には心を許しているご様子。ですからライオネル様、もしあなたが望むのなら、私があなたをアメリア様のご友人として、ウィリアム様に推して差し上げます」
「――え」
ライオネルは、ルイスの言葉に一瞬その足を止めた。けれどすぐに再び歩きだす。――もし本当にそんなことが可能なら、自分はアメリアの隣に立てるということだ。あくまでも友人としてだけれど。でも、それでも……。――ライオネルは、尋ねる。
「覚悟と、誠意……とは」
「簡単なことでございますよ。貴方が今背負っているその子供を、貴方が自らの手で躾ければよろしいのです」
「――え?」
――それは、法を裏切れということか? アメリアを諫めろと言ったその口で、僕に法を犯せと言っているのか?
ライオネルは驚きのあまり目を見張る。
「どうもアメリア様はその子供に並々ならぬ感情を抱いておられるご様子。アメリア様のお心を掴むにはそれくらいして頂かなければ」
「……」
「私は別にその子供を殺せと言っているわけではありません。警察には引き渡さずに、自らの手で哀れな孤児を救済してみせよ――と申しているだけ」
ライオネルを見つめる、ルイスの漆黒の瞳。それは底なし沼のように暗く――深く――ライオネルの心の奥へと入り込んでいく。ライオネルの決心の強さを推し量る様に。
――ルイスは……微笑む。
「一週間差し上げましょう。もし本当にその気があるのでしたら、それまでに侯爵家の門を叩いて下さい。今あの屋敷には旦那様ご夫妻はいらっしゃいませんので、何の心配もなさらずに」
ルイスは更に、続ける。
「但し――一週間、それを一日でも過ぎればこのお話は無かったことにさせて頂きます。私は二度と貴方をアメリア様には近づけさせません。勿論ウィリアム様にもです。それを努々お忘れなきよう」
「――っ」
いつの間にか、全ての表情が消し去られたルイスの横顔。そこに浮かぶ何の熱も無い黒い瞳の冷たさに、ライオネルは思わず息を呑んだ。けれどそれも束の間――ルイスは足を止め、再び微笑んだかと思うと、後ろを振り返る。
「ウィリアム様、私は馬車を捕まえて参ります。こちらで少々お待ち下さいませ」
そう言ってルイスは駆けて行く。
馬車は直ぐに止まった。そして――ウィリアムに続き馬車に乗り込むアメリアの華奢な背中を、ライオネルは黙って見つめる。もしルイスの提案を呑まないのなら――これが、彼女の姿を見る最後なのだと理解して。けれどそんなことは決して認められないと……その瞳を揺れ動かして。
馬車に乗り込んだアメリアが、ライオネルを振り返る。その表情は穏やかに微笑んでいたが……その視線が背中に背負われたニックに移されると、途端に泣き出しそうな顔に変わった。そして俯く――アメリア。その表情に、ライオネルは……。
ライオネルとニックをその場に残し、馬車はゆっくりと動き出す。ライオネルはその馬車を――道の先へと消えて見えなくなるまで――ただじっと見送り続けていた。