05
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「アメリア!アメリア!返事をして、アメリア!!」
そこには既に男はいなかった。いや、逃げられたと言うのが正しいか。先ほどまでアメリアの首を絞めていた男は、騎士団の青いサーコートを羽織ったライオネルが現れたことに気が付くと、一目散に逃げだした。そしてライオネルの方も気を失って倒れているアメリアに気を取られ、男を追うことが出来なかったのである。
「アメリア、アメリア!……くそッ、どうして彼女がこんな――」
ライオネルの腕の中には、首に痛々しい赤い痣をつけ、蒼い顔で浅い呼吸を繰り返すアメリアの姿。ライオネルは意識の無いままのアメリアを見つめ、悔しげに顔を歪めた。
彼女の頬に残る、白い涙の後。一体彼女はどれほど恐ろしい思いをしたのだろうか、想像に難くない。それにアメリアの呼吸は浅すぎる、このままでは良くない。
「ごめんね、アメリア」
ライオネルは呟いて、アメリアの背中に手を伸ばした。ドレスの背中のフック外し、肩からドレスのスリーブを二の腕辺りまで下げる。そしてきつく締められたコルセットの紐を、慣れない手付きで緩めた。それと同時に、少しだけアメリアの頬に赤味が戻る。
「……もう大丈夫だよ、アメリア」
ライオネルは囁くようにそう言って、アメリアの身体を地面にゆっくりと横たえた。そして、今度はその傍らに倒れている少年に目をやる。少年の太股に突き刺さるのは、銀色の髪飾り。――それがアメリアの物だろうと言うことに、ライオネルは直ぐに気が付いた。そして先程逃げて行った男の背中に刺さっていたものも、同じであろうと。
ライオネルは考える。それはアメリアの精一杯の抵抗であったのだろうか、或いはこんな場所に彼女がお供も付けずに居たことを考慮するなら、意図的に用意していたものなのかもしれない。どちらにせよ、この髪飾り――このまま突き刺しておくのは良くないだろう。
ライオネルは髪飾りにそっと手を触れる。そしてそれが太い血管にまで達していないことを確かに確認すると、髪飾りをゆっくりと引き抜いた。同時に、気絶したままの少年の顔が一瞬歪む。血は余り出る様子はないが、痛いものは痛いのだろう。
ライオネルは少年を一別すると、髪飾りに付いた血をコートの裾でサッと拭き取った。そして髪飾りをじっと観察する。それは一見普通の髪飾りの様であった。しかし、普通のものよりいくらか先が尖っている。それはまるで、何かを突き刺す為に意図的に磨き上げられたかのように。
ライオネルはそれに気付くと、何かを考える様に目を細めた。そして髪飾りを、自分のコートの内ポケットにしまい込む。
「君は一体何者なんだ」
ライオネルはアメリアを見下ろし、静かに呟いた。
二ヶ月前に彼女と初めて会ったとき、確かに感じていた違和感。それが今、彼の中で確かな物に変わっていた。声が出なくなったというのに全く動じる事無く、かと思えばガラスで腕を切ったときは酷く怯えたようにうずくまり泣いていた、そのアンバランスなアメリアの姿に。こんな先の尖った髪飾りを持ち歩き、決して力では敵うはずのない男に立ち向かおうとしたのであろう、彼女に。
ライオネルはアメリアの横に跪き、その頬を優しく撫でる。
「何が君をそうさせるんだろう」
彼の表情はまるで何かを慈しむように穏やかで、けれどとても切なげで。彼自身自分がそんな顔をしていることには気が付いていないのであろう。
「君は本当に幸せなのかな」
ライオネルの頭に、ウィリアムの顔が浮かび上がる。アメリアの婚約者、ファルマス伯爵。あの後ライオネルはウィリアムについて調べていた。まぁ調べると言っても、周りに彼の噂を尋ねるということくらいだったが。そしてわかったこと。ファルマス伯爵――ウィリアム・セシルという男には、悪い噂がただの一つも無かったのだ。皆口を揃えたように、彼は素晴らしい方だ、頭脳明晰、温厚篤実、非の打ち所が無い――とウィリアムを褒め称えるのだ。勿論それを言わされている風では無かった。だが普通ならそんなことは有り得ない。いくら相手が侯爵家の人間であったとしても、一つや二つ、悪い噂というものは立つ筈なのだ。
ライオネルは二ヶ月前にウィリアムに接したとき、少なくともウィリアムが穏やかで優しい性格であるとは感じられなかった。だからそれが噂と相まって、ライオネルを酷く気持ちの悪い心地にさせた。
そしてそれはアメリアに対しても同じであった。アメリアの噂は本当に酷いものだった。思わず耳を塞ぎたくなるほどに。そして周りは皆、最後に付け足したように言うのだ。“ですがあの方も最近はお変わりになられたようだ。ファルマス伯爵が彼女の心を変えたのでしょう“――と。
ライオネルは最初それを信じられず、同姓同名の別人であるのではと疑った程だ。けれど噂の内容は確かに、ファルマス伯爵の婚約者、アメリア・サウスウェルの事であった。
“これは口止め料だ”――ウィリアムのその言葉が、ライオネルの中で何度も何度も繰り返される。その意味がわからないほど、自分は子供では無い。けれどどうしても気になって、二人の噂を聞いて回ってしまった。そしてまた――こうやってアメリアと出会ってしまった。
ライオネルは悔しそうに顔を歪める。もう直ぐここに仲間がやってくるだろう。だがその時自分は、アメリアのことを知らない振りをしなければならないのだ。初対面であるように、振る舞わなければならないのだ。そのことが彼の心を酷く憂鬱にさせる。
「アメリア。ねぇ、起きてよ」
ライオネルは切なげに瞳を揺らし、アメリアの頬に触れた。そしてそれと同時に、アメリアの瞼が――ピクリと動いた。ライオネルはそれに気が付くと、我に返った様に目を見開く。
「アメリア、アメリア!」
その声に応えるように、アメリアがゆっくりと瞼を上げた。その瞳はまだ虚ろであったが、ライオネルはひとまず安堵したように息を吐く。
「良かった、気が付いて」
「……」
ライオネルの声に、アメリアはかすかに顔を横に傾けた。彼女はライオネルの姿を認識すると、不思議そうな顔をする。どうして貴方がここにいるの――と。
「僕、任務で君を捜していて。――あぁ、でも、本当に無事で良かったよ」
「……」
ライオネルはそう言って、アメリアを安心させるように穏やかに微笑んだ。そんな彼の表情に、アメリアは何か悟ったように目を細める。そして彼女は、ゆっくりと自分の身体を起こそうとした。けれど、ふらつく。
「――駄目だよ、まだ動かない方がいい。君、さっきまで首を絞められていたんだよ」
「……」
だがライオネルの静止も構わず、アメリアは何とか上半身を持ち上げた。そして、ゆっくりと自分の首に手を当てる。
そこには赤い指の痕。痛々しい――赤い痣。ライオネルは思わず、そこから目を逸らしてしまった。余りに惨くて……見ていられない、と。そして彼は、俯きながら呟く。
「――アメリア、その、僕……君にどうしても聞きたいことが……」
ライオネルは再び顔を上げた。けれど、目の前でアメリアのし始めたことに――驚愕する。
「何を、してるの……」
ライオネルは目を見張る。目の前のアメリアは、どこからともなく取り出した手鏡で自分の首を写し出し、その赤い痣を隠すように白粉を塗っていたのだ。
「――アメリア……」
こんなの――普通じゃない。ライオネルは今度こそ確信した。アメリア・サウスウェルという女性は、やはり普通では無いのだと。首を絞められて死にかけたのに、泣きもせずにその痣を無かったことにしようとするなど――。一体どうしてそんなことをする必要があるのか。彼女は何を考えているのか。ライオネルには皆目見当もつかず、ただ困惑することしか出来なかった。
けれどアメリアはそんなライオネルの様子など気にも止めないで、首の痣を綺麗に消し去ると横たわる少年――ニックに目を向けた。そしてその太股に自分の髪飾りが刺さっていないことを確認すると、どこからか手帳とペンを取り出し何かを書き始める。そして書き終わると、手帳をライオネルに見せた。
「――え」
ライオネルはその文面に、再び目を見開く。
「……でもこの子はスリなんだよね。僕にはこの子を警察に引き渡す義務がある。それに君を安全な場所に連れて行く義務も。このまま立ち去るなんて出来ないよ」
『なら私も一緒に捕まえて。この子がこうなったのは私のせいだもの。それに私も、この子を傷つけたわ。私の髪飾り、貴方が持っているんでしょう?』
「……。ねぇ、アメリア。君は一体……」
ライオネルを見つめるアメリアの瞳――それは怖い程に真剣で、彼は益々わからなくなった。死にかけておきながら、自分を置いて立ち去ってくれ、何も見なかったことにして欲しい――などと言う言葉に。