02
貴族――。ニックのその言葉を、男は信じられない様だった。男の動揺が背中越しに、私にも伝わってくる。今なら容易くこの腕を抜け出せるだろう。けれど、下手に神経を逆なでするようなことはしたくない。退路は既に断たれているのだから。――私は仕方なく、もう少しだけ様子を見ようと心に決める。
ニックは抵抗を見せることない私を一瞥すると、再び私の背後に立つ男を見上げ口を開いた。
「貴族です。間違いなく」
「……」
男はニックの表情から、嘘は無さそうだと悟ったようだった。同時に再び張り詰める、空気。男の腕に力が戻る。
「お前何者だ?ただの貴族じゃねぇな」
それは至極まともな質問だった。だって普通ならば有り得ない。貴族がお供の一人も付けずにこんな場所にいるなんてこと。ニックの様な子供と知り合いなどと言うことは。けれど今の私は、その質問に答えることが出来ない。
暫く続く沈黙。その間も、私の首筋に添えられたソレは決して微動だにしなかった。そして――ただ沈黙を貫き通す私の耳元で、男が問いかける。
「だんまり……か。まさか口がきけねぇって訳じゃねぇだろ?」
「――」
しかし私は、その言葉にさえ無言を決め込んだ。そう、だって全くその通りなのだから。けれどわざわざ肯定してやるつもりもない。どうせこの男には私を殺す気なんてないのだ。放っておけばいい。
だがその男は、そんな私の態度に痺れをきらしたのか私の視線の先のニックに問いかけた。
「おいニック、この女うんともすんとも言わねぇが、話せねぇのか」
「……いえ、そんな筈は」
ニックの顔が訝し気に歪められる。彼は少し考えて、続けた。
「でも、さっきから一言もしゃべらないので、あるいは……」
「……へぇ」
ニックの言葉に、男が嗤う。それはどこか嘲るような、気味の悪い声だった。
「本当にそうなら好都合だが……どれ、確かめてやるか」
「――っ」
男はそう呟くと――その太くよく日に焼けた左腕で、ドレスの上から私の身体をまさぐり始めた。
「ほら、叫んでみろよ」
それは私を試すかのような、からかうような声だった。男の左手がゆっくりと、私の腰から腹へ、そして胸元へと這うように移動してくる。それはコルセットの上からでも感じる――吐き気をもよおしそうな程――酷く気持ちの悪い感触。わざとらしい、癇に障る触り方。――けれど。
私はそれでも、決してニックから視線を放さなかった。ニックがどんな顔をしているか、彼の表情に変わりはないか……それを、見逃さないように。そうだ、これぐらい彼の苦しみに比べたらなんてことは無い。私は――平気よ。
首筋に添えられた冷たい感触。それが私の頭を、酷く冷静にする。
――そうよ、こんな男に私の心は揺らがない。こんな男に、辱められたりしない。だって私はあの日、決めたのだから。この先どんな壁が立ちはだかろうと、決してそこから目を逸らさないって。だから――。
男の長い舌が、水音を立てながら私の首筋を這っていく。それはねっとりと、絡みつくような舌使いで。――何度も何度も、執拗に嘗め回す。
――気持ち悪い。でも、悪く言えばそれだけだ。私は今この男に全く恐怖を感じていない。だから、耐えられる。
そしていつの間にか、首筋に添えられていたナイフを持った右手は、私の腰に回されていた。私が抵抗しないことに油断したのだろうか。声を出せない女にナイフなど必要ないと、そう判断したのだろうか。まぁどちらにせよ私は、自分から逃げだすつもりなど無いのだけれど。
そしてそんな――全く抵抗を見せない私に、男はとうとうナイフをズボンの後ろポケットにしまい込んだ。そうしてそのまま、私の背中を外壁にぐいと押し付ける。そこでやっと――私は男の顔を認識した。
年齢不詳の浅黒い顔、筋肉質な体格のいい身体。何の特徴もない茶色い髪は浮浪者にしてはさっぱりしているが、目は鋭くぎょろっとしている。ひげは不揃いに生え、服はそれほど汚くもないが綺麗でもない。
――私は、そんな男の顔をじっと見据えた。すると男も、自分を見つめる私の顔を興味深そうに眺め――にやっと笑う。
「ニックを飼ってたってのは本当みたいだな。貴族の嬢ちゃんにしては、良い目をしてるぜ」
「――」
それはどこか嬉しそうな声で――。けれど。
「でも悪いな。顔を見られたからには口止めしねぇと」
――口止め、それは何て芸のない言葉だろうか。
男はそのまま、私のドレスの裾をぐいっとたくし上げた。武骨な腕が、私の太ももに触れる。
「――本当に抵抗なしかよ」
呆れたように溜息をつく男。けれど――それとは反対に、私の視界に映るニックの瞳が一瞬、揺らいだ。
「――」
私のドレスの下をまさぐる男の手を見つめて、ニックはほんのわずかだけれど目元を引きつらせる。その表情の奥に潜む気配に――私は確信した。まだ、彼はここにいる。あの頃のニックは、まだ消えていない。ならば――。
そして私は決意した。――ニックをこの男から、取り返すことを。
私の目の前の男は、私の肌に夢中になっている様子。どこもかしこも隙だらけだ。なんて憐れな男。――私は右手をゆっくりと自分の後頭部に伸ばす。そして――先の尖った髪飾りを一本抜き取ると、何の躊躇いもなく、そのまま男の背中に突き刺した。
「――ぐッ」
男は自分を急に襲ったその痛みに、呻くような声を上げる。それと同時に、私の拘束が解かれた。けれど今の一撃はただの子供だましだ。致命傷にはなり得ない。だから――ここでニックをこの男から取り返す為には――もう一つしか手段がない。
私は男の腕から逃れ、そのまま強く地面を蹴る。そしてニックに手を伸ばし、彼を――固い地面へと突き飛ばした。
「――なッ!?」
ニックは私の体重に耐え切れず、背中から倒れて地面に頭を打ち付ける。ニックの顔が痛みに歪んだ。それでも彼は、私から視線を一瞬もそらさない。
それは彼の必死の抵抗の様で……。私は本当に切なくなった。でも私はもう逃げない。自分の撒いた種、回収するのも自分自身。だから私は、あの男からあなたを必ず奪い返す。どんな手を使っても。
私はニックの身体に跨がり、心の中で呟く。
――ごめんね、ちょっと痛いけど、我慢して。
そして私は、再び自分の頭に手を伸ばした。そこから抜き取られるのは、輝く銀色の髪飾り。さっき男に突き刺したのと、同じ物。その切っ先は――まるでアイスピックのように――鋭く、煌めく。
「――ま、待てッ!」
私の行動に、男が我に返ったように叫んだ。それはニックを庇うような、私に抗うような声だった。けれどもう遅い。私の腕は既に振り上げられている。後はこのまま、突き刺すだけ。
「――っ」
そして流石のニックも、私のやろうとしていることを理解したのだろう。私を睨む瞳は一瞬で、恐怖の色に染められた。――殺される、と、彼の顔は強張り、固まる。
だけど、私の決意は揺らがない。
私はニックの視線を捕えて放さずに、振り上げたこの手を――そのままニックの太ももに向け一気に振り下ろした。
「――ッ!!」
ニックは声にならない悲鳴を上げる。痛みに顔を引きつらせて、目に涙を一杯に溜めて、それでも彼はやっぱり私から目を離さなかった。そんなニックに向けて、私は微笑む。
ごめんね、ニック、痛いよね。でも大丈夫。ちゃんと責任は取るから。――そう、心の中で囁いて。
「――んの、女……ッ!」
刹那――ニックに跨がったままの私の首を、男の腕が締め上げた。それは怒りに任せて、ただ暴力的に、今度こそ全身から殺気を放ち、私の息の根を止めようと。
けれどその男の両手には、私の喉を潰せるほどの力が残っていなかった。なんとか私を締め殺そうと試みる男の浅黒い腕。その先の男の顔は、どこか苦しそうに歪んでいる。そう、背中に突き刺さったままの私の髪飾りが、男の身体を蝕んでいるのだ。
「……くっそ、まさか……毒、か」
男は苦々しげに呟いた。その表情に、私は少しだけ微笑んでみる。肯定の意を込めて。
でも安心して欲しい。別に死に至る様な毒では無い。本の少し身体の自由が利かなくなるだけの、弱い弱い毒だから。