01
つい――走り出してしまった。まさかあの子がスリを働くなんて、何かの間違いじゃないかって。どうしても確かめたくて、確認せざるを得なくて。気づけば私は、ウィリアムに何も言わずにその少年を追いかけてしまっていた。
走れば走るほど――道幅が狭くなっていく。高いレンガと、石造りの壁が私の左右にそびえたち、太陽の光はほんのわずかしか届かない。
もうずいぶん長い時間走り続けているような気がする。――二十分か、三十分か。けれど少年は走り続ける。自分を追いかける私から、どうにか逃れようとして。
どうしよう、もうやめようか。引き返してしまおうか。きっとウィリアムは心配している。例えそうでなくても、急に居なくなってしまった私を捜してくれているだろう。あぁ、早く戻らなければ。彼に余計な手間を掛けさせるわけにはいかないのだから。
――けれど、どうしてもあの子のことが気になって――。やはり、このまま帰るなんてことも、出来ない。
「なんで着いてくるんだよッ!」
私の少し前を走るその少年は、自分を追いかける私が誰かということに気が付いていない様だった。でもそれは仕方がないことだ。だって私は声が出せない。あの子の名前を呼ぶことが出来ないのだから。
声さえ出せれば――それだけできっと確かめられるのに。声なんて無くても構わない。そんな風に思っていたのが嘘の様に……今は、自分の声がとても恋しい。
――不思議ね。
この二か月で、私は自分でも驚く程に変わってしまった。声なんていらない、何もいらない、人と関わることを避け、世界から目を背け、そんな私に声なんて不要だと心の底から思っていた。それが今はどうだろう。ウィリアムの名前を呼びたい。彼に愛の言葉を伝えたい。そして、私に背を向け走り続ける、あの子の名前を確かめたい。
二か月前の私だったなら、きっとこんな風にあの子を追いかけたりはしなかったであろう。ただ横目で流し見て、他人事のように、ただ当たり前の様に過行く景色の一部として、見過ごしていただろう。どうせ皆忘れてしまうのだから、と。どうせ死んだら、誰も私のことなど覚えていられないのだからと――。それが、今では……。
――あぁ、人違いならいいのに。あの子で無ければいいのに。それなら私はもう、これ以上あなたを追いかけたりしないのに。ねぇ、お願いだからこっちを向いて。その足をほんの少しでいいから止めてちょうだい。お願いよ、ほんの一瞬でいいの。ただ一度だけでいいから、振り向いて。――お願い、少しでいいから、あなたの顔を私に見せてちょうだい。
「――ん、だよッ、お前!!」
刹那――私の願いが通じたのだろうか、その少年はようやくこちらを振り向いた。それはちらりと――ほんの一瞬のこと。でも――それで充分だった。それだけで、事足りた。だって、私がその顔を見間違えることなどあり得ないのだから。そして――恐らく、それはまた、目の前のこの子も同じだろう。
「――ッ!?」
こちらを一瞬振り向いた少年――ニックは、私の顔を認識すると大きく目を見開いてその場にピタリと立ち止った。それは、まるで幽霊でも見ているかのような顔で。
「ミ、リア?」
茫然とした表情で彼が呟いた名は、どこか懐かしい……響き。
――あぁ、やっぱり間違いない。ニックだ。やはりニックだったのだ。私のことをミリアと呼ぶ人間は、この子しかいないのだから……。瞬間、懐かしさと共に私の心に込み上げるのは――切なさと、悔しさ。
そして私は、無意識のうちに、立ち止ったままの彼に手を伸ばしていた。理由なんて、無かった。ただ、そうせざるを得なくて。
――けれど。
「――触んなッ!!」
ニックは、自分に触れようとする私の手を――振り払った。
「――」
目の前に立つニック。最後に会ってから二年か、それ以上か――。まだ幼かった顔立ちははっきりとしてきていて、細かった身体も筋肉が付き締まっていた。身長も、もう私とほどんど変わらない。……けれど、あの頃の様な優し気な瞳は――表情の乏しい中にも見せていた彼の柔らかさは――もう何処にも感じられなかった。ニックの瞳に揺れるのは、憎しみと、怒り……ただ、それだけ。
「今さら、何の用だよ」
その声に込められているのは、明らかな、憎悪。隠すつもりもないと言う様に、彼ははっきりとした敵意をその表情に露わにさせる。
その鋭く細められた瞳に、私は悟ってしまった。それと同時に私の心に重く圧し掛かる、深い自責の念。
あぁ、そうか。彼は変わってしまったのだ。いや、私が彼をこうさせてしまったのだ。あの頃の私は――今の目の前のこの子のように―――世界の全てを憎んで生きていたのだから。その結果が、これなのか。
「……」
思い出してみれば、決していい別れ方では無かった。あの頃の私はただ、ウィリアムの目に留まらないようにと――それだけしか頭に無くて。自分の悪評が社交界に広まったと同時に、屋敷に引きこもったのだ。だから――そう、最後にニックに会ったあの日、私は……。
「はっ、何だよその顔。俺を憐れんでるの?何でこんなことしてるんだって、説教でもしに来たわけ?」
「……っ」
かつてはランプに揺れる炎の様に、穏やかで暖かい色を灯していた彼の赤褐色の瞳――それが今では、闇に沈んだように――真っ黒に陰っていた。泥の様に酷く濁り、妖しく光る彼の瞳……それが彼の過ごしてきた過酷な日々を、私に嫌と言う程知らしめる。
「もしあんたに少しでも慈悲の心が残っているんなら、昔のよしみで俺に金を恵んでくれないかな。別に一生分とは言わないよ、一か月でも、なんなら一週間分でもいい。貴族の娘のあんたになら、安いものだろ?」
「――……」
そう言ったニックの口元は、どこか自嘲気味に歪められていた。恐らく今の言葉は、彼の本音では無い。彼は私に、本当に金銭を要求しているわけではない。彼はただ私に伝えたいのだ。私を責めているのだ。いかに自分が落ちるところまで落ちたのか、私に知らしめ、その気持ちを晴らす為に。
でもそれは間違った方法だ。そうやって誰かを責め、目を背け、確かに一時は心に平穏が訪れるかもしれない。けれどそれは、決して本当の救いには繋がらない。私はそれを、今身を持って学んでいる。しかしだからと言って、私にはどうしてあげることも出来ない。だって彼をこんな風にしてしまった原因は、その一因は、間違いなくあの頃の私にあるのだから――。
――言い訳などするつもりは無い。弁明の余地など無い。今の私に出来るのは、ニックの気持ちを受け止めることだけ。目を逸らさずに、彼の言葉を受け止めるだけ。
「――ん、だよ。何か言えよ。あんた、一体何のために俺を追いかけてきたんだよ。こんな場所まで」
「……」
「あの頃みたいに俺を飼い慣らそうとでも思った?それとも、自分の思い通りに動く駒が恋しくなったとか?だけど、残念だったな。もうあの頃の俺はどこにもいない。あんたの知ってるニックは死んだ。――だから、悪く思うなよ」
そう言ったニックの視線が、一瞬私の背後へと向けられる。それが意味するものは――即ち。
「――ッ!」
私は背後から忍び寄る気配を感じ取り、とっさに身をかがめた。頭上を掠める何か――。取りあえずはかわせたか。でも、これ以上はどうすることも出来ない。目の前にはニックが立ちふさがり、後ろには――。
その正体を確かめようと振り向こうとした私の首に、男の太い腕が絡みつく。同時に、首筋に添えられる冷たい感触。
「――ッ」
その男は私の身体を拘束しつつも、その鋭い視線はニックだけを見据えているようだった。
「下手打ちやがって。知り合いか」
その声は低く、重く――けれど、私を殺す気は無いようで……私はひとまず安堵する。
「すみません。昔ちょっと食べさせて貰ってたことがあっただけで」
「お前をか?物好きな女だな。――どこの店のモンだ」
「その人は娼婦じゃありません。貴族ですよ」
「はぁ?貴族だぁ?」
ニックの言葉に、一瞬男の腕の力が緩む。