06
ウィリアムは蒼い顔をしたまま、茫然と立ち尽くした。一体いつの間に居なくなっていたのだろうか。
ウィリアムの横を通りすぎる人々が、立ち止ったまま動かない彼の顔にちらちらと怪訝そうな視線を送る。ウィリアムはそれをどこか他人事のように受け止めていた。それは一瞬だったか、それとも数分だったのか――。
「――アメリア……!」
ウィリアムはようやく我に返り、彼女の名を叫んだ。しかし勿論、返事などあるはずが無い。彼に刺さるのは、通り過ぎる人々の視線のみ――。そもそもアメリアは声を出せないのである。彼は急いで周りを見回すが、前も後ろも道行く人ばかりで、どこにもアメリアの姿を見つけることは出来なかった。
「……アメリア」
ウィリアムの心に沸き上がる、強い焦燥感。
そして彼は、自分がすっかり油断してしまっていたことに気づいた。この二か月の、屋敷で静かに過ごしていたアメリアの姿に。出会ったときとはまるで別人の様な、彼女の雰囲気に。
だが――そう、ルイスに聞いていた本来の彼女の性質というものは、今のアメリアとは全く違っていた筈なのだ。男物の鞍にまたがり馬と野を駆け抜けていた……そんなエピソードを、以前ルイスより聴かされていた。エドワードとブライアンを引き連れてパブに通うその行動力。それらを知っていた筈なのに――すっかり油断してしまっていた。
「――くそッ」
何というざまだ。彼女を守ると言っておきながら――それが不本意なものだったとは言え――彼女を幸せにすると誓っておきながら、こんなに簡単に彼女を見失ってしまうなど。これではルイスに顔向け出来ない。これでもし――彼女の身に何か危険が及んだら……。ウィリアムの頭に過る、一抹の不安。
けれどウィリアムは、それを振り払うかのように頭をふった。そして自身の拳に力を込め息を止めると、ゆっくりと瞼を閉じる。それは彼が自分を見失いかけていると自覚したときの、心を落ち着かせる為の一種の癖の様なものだった。彼は自分の心臓の鼓動を聞き――そして今度はふっと小さく息を吐いて、呼吸を調える。そして――。
ウィリアムは瞼を開くと、鋭い眼光を放ちながら元来た方へ引き返した。その視線は、どんな些細な出来事も見逃さないとでもいうよう様に、周りの景色をしっかりと捉えて離さない。
そうだ――きっと何か彼女の目を引くものがあったのだ。こんな街中で、しかもこのように人通りも多い中、トラブルに巻き込まれる筈がない。巻き込まれるとしたら――彼女自ら、巻き込まれに行くという選択肢以外考えられない。つまり、そう――アメリアは何かを見つけてしまったのだ。彼女が自分に一言も、何も言わずに咄嗟に走り出してしまうような……そんな何かを。
ウィリアムはそんな確信に似た何かを感じ、足を速めた。
***
「――まったくッ!」
ルイスは、アメリアの姿を追って路地裏を駆け抜けていた。
ウィリアムとアメリアを尾行していたハンナとルイスは、急にウィリアムの傍を離れて走り出したアメリアの姿を目撃していた。そしてルイスは、そのアメリアが走りだす直前に何を見ていたのかも気づいていた。
アメリアが見ていたもの――それは、一人の少年がスリを働くその瞬間。ルイスは彼女がそれを見た瞬間の、あの大きく見開かれた目を見逃さなかった。それは恐らく驚愕と――悲哀の感情を秘めた瞳。同時に路地裏に身を隠す少年、それを追うアメリア。
そしてそのアメリアの姿に、ルイスは察した。それはあの少年が、アメリアの知り合いであろうということ。
ハンナは急に走りだしたアメリアを追おうとしたが、ルイスはそれを制し、自分が行くと告げるとそのまま駆け出した。アメリアが追っているのはスリの少年だ。例えそれが彼女の知り合いであるとは言え、いくらか面倒なことになるだろう。女性のハンナでは危険だろうと、ルイスは判断したのである。
けれどアメリアの足は予想以上に速かった。あの細い足で一体どうしたらそんなに速く走れるのかと言う程に。しかし理由はそれだけではない。アメリアはこの街をよく熟知しているのだ。どこをどう通ったらどこに繋がるのか。それ故迷いが無いのである。しかしそれはルイスとて同じこと。では何故ルイスがアメリアに追いつけないのか。それは――ルイスの体力に理由があった。
「――っ」
十分程走ったところで、ルイスは息を切らせて足を止めた。そして右腕を壁について寄りかかるように腰を折る。その額には、大量の汗が噴き出ていた。
「――くそ」
気が付けば路地幅は細くなり、人がギリギリ行き違えるかどうかという程になっていた。建物は高く、空は狭い。太陽の恩恵は少なからず受けられているが、それも今が真昼だからだ。少しでも日が傾けば、ここはすぐに暗闇に包まれるであろう。
「……これだから……嫌なんですよ」
ルイスは自分の動かなくなった足を睨むように見つめ、苦々し気な表情で悪態を吐いた。それは誰に向かってか、何に向かってか――それともこの状況に対しての言葉なのか。けれど少なくとも、ルイスの眉間に寄せられた皺には、深い苛立ちの情が込められている。
しかしそれも束の間――ルイスは大きく深呼吸をすると、再び足を動かし始めた。かと言ってもう、彼には走る体力は残されていなかった。ルイスは憮然とした表情を浮かべたまま、狭い路地裏を速足で進む。そしてどこかに少し開けた場所が無いかと、周りの様子を伺っていた。自分の足で探すなど効率が悪すぎる。かといって、このように狭すぎる場所ではべネスを呼ぶことが出来ないのである。
けれどそんな都合のいい場所が簡単に見つかる筈が無かった。いや、諦めたと言った方が早いか。少なくともルイスの記憶では、この辺りに開けた場所は無い。一度大通りに出てしまえばそれも叶うが、しかし人通りのある場所ではべネスは決して地上に降りては来ないのだ。これではもう、流石のルイスもお手上げである。――かと、思いきや。
ルイスは煩わし気に天を見つめ、囁くような声で、何事かを――呟いた。
それは彼が、最後の手段を取るときの言葉だった。二か月前、アメリアが川に落ちたときに使ったばかりの力。――それは彼だけに許された力。けれど、酷く体力を消耗する為普段は決して使わない。
ルイスはゆっくりと目を閉じた。そして意識を集中させる。途端、辺りを包むのは、恐ろしい程の静寂。痛いほどの静けさ。それだけが……その場を支配する。
そしてその場に唯一人佇むルイスの脳裏に浮かんだのは――先ほどのスリの少年と対峙する――アメリアの姿だった。