01
第二幕、開幕です。
楽しんでいただけると幸いです(^^*
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今日も、声が聞こえる。
聞きたくもない、耳障りな声が。視界に入る者たちの――他人を蔑む心の声が。
怒り、妬み、嫉み、そして憎しみ――。
城の中は負の感情であふれていた。ここにいるのは、不快で、汚い、醜悪な根を持った者達ばかり。
本当に僕に――父上に忠誠を誓うものなど、ここには誰一人としていなかった。皆何かを企み、そして、他人の大切なものを奪い、壊していく。
ここはそういうところだった。そんな、強かな者しか生き残れない場所だった。
弱いものは負け、ここから追い出されていく。強くなければ生き残れない。強い盾と、矛――その両方を持つ者でさえ、それだけではここで勝者になることは出来ないのだ。
僕の頬を、暖かい風が撫でる。
僕はいつものように部屋を抜け出し、誰もいない城の裏の庭園へ来ていた。
そこには美しい白いユリの花が咲き乱れていて、それだけが僕の心を癒す。ここだけが、普段は誰もいないこの場所だけが、唯一僕のいられるところ。僕が唯一、自分の気持ちを吐き出せる場所。
「……大嫌いだ、皆、皆ッ!!」
母上も、侍従も、侍女もメイドも、皆、皆――。
僕は花壇のレンガに座り込んで、一人叫んだ。
ここには――僕の味方など一人もいない。誰一人として、決して僕と目を合わせようとしない。
僕のこの赤い目を恐れて。僕に心を読まれることを、恐れて。
そう、だって、僕を産んだ母上でさえ、僕を気味悪がり、遠ざけるのだから。
僕は思い出す。
僕が三歳になったばかりのときの、決定的な出来事を。母上の銀のブローチが無くなった、あの日のことを。
母上が結婚前に父上からもらったという銀のブローチ、それがある日突然無くなった。母上は大騒ぎをして、使用人に城中を探させた。けれどどうしても見つからなかった。
だけど、僕はそれを不思議に思っていた。だって、母上のお付きの侍女が、”自分がブローチを持っている”と言っているのが確かに聞こえたから。それなのにどうして皆、見つからないと言うのだろうと。
だから僕は言ってしまった。その侍女が持っているよ、と。――僕の指に差されたときの、真っ青になった侍女の顔を、僕は今でも忘れられない。あのとても驚いたような、恐怖と畏怖に染められた顔を……。
その時僕はようやく知ったんだ。僕が聞こえているこの声は、他の誰にも聞こえていないのだと。僕だけに聞こえる、心の声なのだと。僕のこの赤い瞳が、皆の心を読んでしまっていたのだと。
そして翌日、その侍女の首は刎ねられた。
母上は泣いた。死んだ侍女は、母上のお気に入りの侍女だったから。ブローチ一つで彼女を殺してしまったと、とても嘆き悲しんだ。そして同時に僕を恨んだ。あなたのせいで――、と、そう叫んだ母上の悲痛な心の声が、今でも僕の耳から離れない。
あれからもう四年が経とうとしてる。けれど母上は、あれ以来未だに、僕とは決して目を合わせようとしない。
それは使用人も、また同じ。朝僕を起こすときも、食事の支度をするときも、勉強を教えるときも、乗馬や剣の訓練をするときでさえ、彼らは決して僕と目を合わせない。誰も、僕の顔を見ない。
だけど、そう、かろうじて父上だけは、僕の目を見て話してくれる。けれど――父上は僕よりも母上が大切だから、母上に気を使って、最近はあまり僕と会ってくれなくなった。
僕の赤い右目。今は色を入れていて、一見普通の紫だけど、それを外せば血のように赤いおぞましい色。
どうして僕はこんな目を持って産まれてしまったのだろう。どうして僕には、人の気持ちが読めてしまうのだろう。聞きたくもない――知りたくもない声なのに、どうして……。
「どうして僕は……産まれて来てしまったんだろう」
僕が母上を不幸にした。僕のせいで、母上は笑わなくなった。僕が居なければ……僕なんか、産まれて来なければ……。
「――ッ」
あぁ……性善説を最初に唱えたのは、一体誰だっただろうか。産まれながらにして、人は善い心を持っているなどと、一体誰が言い出したのか。
そこにいるだけで吐き気をもよおしそうな場所にいて、どうしてそんなことが……人の愛など信じられるだろうか。……信じられるわけがない、誰も、何も、自分自身さえ――。
本当に大嫌いだ。こんな自分が、弱くて、卑屈で、本当に大嫌い。
消えてしまえばいい、こんな自分、消えて無くなってしまえばいい。誰にも必要とされない、誰にも愛されることがない、自分なんて……。
そうして僕は夢に逃げ込む。いつも、一人、ただ……一人で。
そうしなければ、僕は自分でいられなかった。壊れてしまいそうだった。話し相手もいない、そんな毎日に、狂ってしまいそうだった。
媚びを売る為だけに近づいてくる貴族も――上辺だけ取り繕った友達も、僕の目を見なければいいと思って……本当に僕を馬鹿にしている。僕には全部聞こえてるんだ。お前たちの声が。僕を恐れ、ただ利用しようとするその卑しい心の声が。
もう――全部消えてしまえ。全部全部、消えて無くなってしまえ。
この世のすべて、そしてこの僕自身も……闇に呑まれて……無くなってしまえばいい。
『――本当に?』
そんなとき、夢の中の僕が問いかけてきた。
『君は本当にそれでいいの?本当にそれで満足なの?』
もう一人の僕は、ほほ笑む。
『僕は知っているよ、君の本当の願いを。……僕には聞こえているよ、君の心の叫び声が』
「……っ」
暗い暗いトンネルを抜けた先、そこに広がる荒れ果てた庭。それを囲むように長く続く――無限の回廊。
そこには怪物が住むという――それはもう思い出せない程昔、母上が読んでくれた絵本に出てきた、孤独な怪物。
――そこに住む怪物は、寂しそうな顔で、僕にほほ笑む。僕だけに、微笑む。それは優しく、悲しく、深い愛に満ちた瞳で。
『アーサー、僕は君の傍にいるよ。ずっとずっと傍にいるよ。僕だけは何があっても、君の味方でいるから。だから、そんな顔をしないで』
夢の中で、怪物は笑う。
『僕が、いるよ』
何度も何度もそう繰り返す。それは甘く、切なく、僕の心を捕えて放さないように――。
『忘れないで、僕がいることを。ずっと、君の傍にいる。……約束、するよ』
「――っ」
僕の頬をそっと撫でる、その怪物は――僕の瞳から絶対に目をそらさなくて……。彼だけは、僕の赤い目を怖がらなくて……。
それが夢だとわかっていても、ただの夢だとわかっていても、僕は何度も、何度でも、彼に会いに行く。
『愛しているよ、アーサー』
僕の望む言葉をくれるのは彼だけ――。夢の中の、もう一人の自分だけ――。
『僕が君の力になるよ。――君のその力、それは王の力だ。偉大な力。君だけに、扱える――』
目の前の自分の赤い右目が、妖しく光り――そして、囁いた。
『アーサー、僕が力を貸して上げる。僕が君を助けてあげる。君の敵になるものを全て、この僕が壊してあげる。――さぁ、この手を取って』
そうして僕の目の前に、ゆっくりと掲げられる彼の青白い右手。それは酷く不気味で、まるで死人の手のようだと僕は思った。けれど、不思議と嫌な気はしなかった。
これで、楽になれるのだと――ただ、そう思った。
気が付いたときには、僕はその手を取っていた。瞬間、僕の心に広がったのは――形容しがたい、高揚感。
そして僕は彼に手を引かれ、回廊を抜け出した。暗く長いトンネルを抜け――僕らはようやく、目覚める。
再び僕が目を開けると、そこはいつも通りの裏庭だった。
辺り一面にユリの花が広がっている。それはとても美しく――まるで毒花の様に、狂ったように咲き乱れていた。
僕はその花の中から、一際美しく咲くユリに手を伸ばす。鼻孔に漂うのは、甘く香しい匂い。それは人の心を惑わす毒の花。
「……君はとてもきれいだね。だけど」
僕の掌の上で咲く、純白の花弁。
「あんまり目立つと、散ることになるよ」
僕は呟いて、その掌を――強く、握りしめた。
ハラハラと、僕の手から白い花びらが舞い落ちていく。寂し気に、悲し気に――。
それは僕の、七歳の誕生日の、丁度前日のことだった。
そしてその日を境に、僕はもう二度と、その裏庭に立ち入ることは無かった。