刃物を持った男
一人暮らしのあなたはきちんと毎日施錠していることを確認しているでしょうか。
「お兄さん、どこ住まいなの?」
商売中、無駄に喋りかけてくるような人間が僕はどうにも好きになれなかった。その会話自体を商品としているのならともかく、乗ったタクシーだとかそういったところで話しかけられると仕事に集中してほしいと思ってしまう。
内心『これ以上あんまり話したくねえなあ』なんて思いながら、どこ住みかを問うてきた男に僕はへらへら笑いながら大体の住所を教えた。
「へぇ、結構近所なんだね」
「うん…まぁ」
「ミサキちゃんの紹介だけど、もしかして彼氏さん?」
「いや、三崎さんはサークルの先輩なんです」
「住所的にミサキちゃんと家近いから一緒に住んでるのかと思ったよ」
にこりと笑う痩身の男に、僕は鏡越しに愛想笑いを返した。
今までは安くて家からすぐ近くの床屋に通っていたのだ。けれども顔見知りのおっちゃんが煩いくらいに話しかけてくることに、そしておっちゃんの話すどうでもいい話に意見を求められることに関して、いい加減うんざりしていた僕はサークルの先輩に愚痴をこぼした。
すると先輩は「返事をあんまり求めない良い感じの美容師さん知ってるよー」と言うものだから、それなら是非!といった感じで紹介してもらった次第なのである。
その美容室は紹介してもらわなければ入らないような、僕からしてみれば気取った外観で、ガラス越しに見える内装も年頃の女の子が喜びそうな意匠をしていた。正直なところ少し入りづらかった。僕の他に客がいなかったのも入りづらさに拍車をかけていた。
しかし覚悟を決めて入ってみれば、ここの店員らしい痩身の男がニコニコ笑顔で僕を出迎えてくれた。笑顔というものは例えそれが愛想笑いでも相手に安心感を与えるものである。少しだけ緊張が和らいだ。
予約は三崎さんにお願いしてもらっていた。何でも店長と仲が良いらしい。だから男には僕のことが伝わっていて「ミサキちゃんから話は聞いてます。おれ、お喋りだけど意見は求めないから宜しくね」なんてことを言われてしまった。
「いろいろぶっちゃけ過ぎだろ三崎さん…」と思ったりもしたが、親切に予約をしてくれたのは三崎さんだ。文句は言うまい。
髪をどこまで切るか伝えて、白いカットケープを着せられる。美容室の、すこし背の高い椅子に座ってカットケープで体を覆われている鏡の中の自分は何ともまあ間抜けに見えた。まぁ僕の他に客はいないから、別にいいか。
「相槌を求めない感じかー、何系の話しましょうかね?」
「おまかせします」
「そうだ、ミサキちゃんから怖い話とか最近聞いた?」
聞いたといえば聞いたけど…正直なところ既に会話をするのが面倒だった。ここは話を聞くのに徹するか。
「聞いてないですねえ」
「そっかあ」
シャキン。鋏の刃の擦れる音が耳の真後ろで鳴った。
「じゃあ、おれがミサキちゃんに聞いた怖い話をしよっかな」
▽
ミサキちゃんってさ、夜はぐっすり眠るタイプの人らしいのね。でも最近ちょっと暑いでしょ。熱帯夜とかニュースの天気予報でそんな単語を聞くような季節だからね。クーラーつけないで寝たらしいんだけど、暑すぎて夜中に起きちゃったんだって。
寝汗もかいてるし、脱水症状が怖いからって感じでワンルームの部屋の、玄関近くにあるシンクで水を汲んでそれを飲んだらしいんだ。
で、シンク周辺の明かりをつけていたわけなんだけど狭いワンルームだから視界の端に玄関があってさ。
レバー型のドアノブがゆっくりゆっくり上がっていったのを偶然視界に捉えちゃったんだって。レバー型のドアノブが、音も立てずに上がるところをね。
ミサキちゃん、寝ぼけてたんだろうって結論づけて速攻布団に潜ったらしいよ。流石に怖いもんね。寝ぼけてたって思いたくもなるよ。一人暮らしだもの。
んで、その次の日はクーラーをつけて夜中に起きることもなくグッスリ快眠だったみたいなんだけど…翌々日の夜中。今度はトイレに立つ為に起きちゃったらしいんだ。
時間は、確か……草木も眠る丑三つ時くらいかな?トイレはシンクのすぐ目の前にあるらしいよ。つまり玄関が近い。
この前のこともあるから、なるべく玄関を見ないようにトイレに向かったらしいんだけど、やっぱり狭い部屋だからさ。どうしても扉が視界に入っちゃうんだって。
トイレから出て、すぐ右側。人間は見たくないものほど意識しちゃうものだからね。
視界の端にしっかり捉えられたレバー型のドアノブは、静かに下がっていくところだった。
音なんかは一切立てない。中の人間に気付かれないように、ゆっくり、ゆっくり。
目一杯下がるところまでドアノブが下がって、一旦止まる。
鍵が掛かっているか、掛かっていないか確かめるように。
想像してみてよ。板挟んで向こう側に、得体の知れない何かが自分ちのドアを開けようとしてるところをさ。とても、怖かっただろうねえ。
鍵は幸い掛かっていたみたいで、ドアノブはまた静かに上がっていった。
ドアの向こうにいる何か。ドアスコープを覗いてみれば、その何かの正体は分かるわけだ。
こちら側に自分がいることを悟られたら、連れていかれる。そんな気がしたらしいよ。得体の知れないものは、それだけで恐怖だよね。
でもミサキちゃんは震える体に鞭打ってドアスコープを覗いたんだって。
そしたらドアスコープの向こう、扉の前にいるであろう相手と目が合った。
その目はドアスコープ越しにこっちを覗き込むように見ていて……
▽
シャキン、という鋏の音で肩が跳ねてしまった。オカルト的な話に縁遠そうな見た目をしている癖に、語りが上手くて普通に怖かった。
「めちゃめちゃ怖かったです」
「お、やったぁ」
鏡に映った美容師の男は嬉しそうに笑った。爽やかな笑顔からは想像もつかないくらい上手い怪談話だった。
「多分、某有名な怪談の語り手さんが乗り移ってましたよ」
「いやいや、その人まだ生きてるでしょ」
「ぶっちゃけ話盛りました?」
「盛ってないよ!ミサキちゃんから聞いたまま」
その後は当たり障りない話題をちょこちょこして、気付けば僕の頭はさっぱりとした形になっていた。
「じゃあ、最後に前髪ね。目を瞑ってもらえる?」
言われた通りに目を瞑る。視界が暗くなって、何も見えなくなる。前髪を触られるような感じがした。ああ、駄目だ。視界を遮断すると無駄な想像力が働いてしまう。
こちらを覗き込むような目。ドアスコープは、構造的に外側から内側を見ることは出来ないように作られている。
それでもこちらを覗こうとしてきている目と、視線がかち合った先輩はどんなに怖かっただろう。
「あ、さっきの怖い話で言い忘れたことがあったんだけど」
「なんすか?」
「男は刃物を持ってたらしいよ」
シャキン。ひときわ大きく音が響いた。美容師の一言が僕の頭にすとんと落っこちてくる。
ドアスコープ越しにこちら側を覗く僕の想像上の男は、鋏を、持っている。
「そ、それ、警察沙汰じゃないすか」
「うん。だから相談はしてるらしいよ」
そういえば、ミサキさん警察に相談してるって言ってたな…。
なんだかモヤモヤしたものを抱えながら目を開ける。鏡の中の僕と目が合った。前髪は、綺麗に整えられていた。
会計を済ませて出口に向かう。痩身の男は「また来てねぇ」と人の良さそうな笑みで僕を見送った。
入るときに意識しなかった美容室のドアノブは、レバー型のものだった。ドアノブは握るとひやりとしている。僕は思い切り扉を開けてやる。美容室から一歩、外に出ると夏の陽射しが僕の頭をじりじりと焼いた。夏の喧騒が耳に煩かったけど、なんだかそれも心地よかった。
三崎さんから聞いたという怖い話。彼女は苦笑いで「実際的な被害は無いからしばらく様子見なんだよね。警察もパトロールする回数を増やしてくれるって言ってたけど…」と言っていた。
三崎さんは刃物で傷付けられていないから、確かに実際的な被害は出ていない。けれど本当に相手が刃物を持っていたなら、苦笑いなんて出来ないんじゃないか?
ちらりと後方の美容室を見るとガラス越しに男がこちらを見ていた。遠目で見る男の顔には表情がないように見えて、僕はすぐに視線を逸らした。
じわりと滲む汗を拭って思う。僕は二度とあの美容室には行かないだろう。




