5
スヴェトの白人特有の高い鼻が長く伸び、長く裂けていく口元は絵本に載っていた口裂け女にどこか似ていた。
グルル、という低い獣のうなりがスヴェトの喉から鳴った。
小屋の扉に隠れ、スヴェトの変化を息を飲んで俺は見つめていた。
はっと自分の変化に気づいたらしいスヴェトはさっと口元を隠し、次の瞬間には元の人の顔に戻っていた。
スヴェトを向かいから見ていたらしい男は、スヴェトと似たどこか痛ましそうな、悲しそうな顔をして、なにか告げるとすぐ立ち去っていった。
すぐに雪が降り始め、男の姿を消していった。
新しい乾いた薪をストーブに入れ、スヴェトは俺を座らせた。
互いに無言で、沈黙の降りた室内に薪に火が移る音が心地よく響いた。その響きに誘われるように俺はいつの間にか口を開いていた。
「なあ、スヴェトが、あの夜俺を助けてくれた狼なんだろ?」
スヴェトはいつもの青い目が茶色く変化していた。完全に戻っていない狼の目で俺を見つめて、小さくうなづいた。
その顔は俺に怯えているようにも、悲しそうにも見えた。たぶん俺に知られたくなかったんじゃないだろうかと思う。
「だったら、感謝するよ。俺は、この国に連れてこられて、何度も死にかけて、逃げ出して、あんたに助けられたんだ。ありがとな。なかなか、言えなくて、悪りぃ。」
まだ拙い下手くそな俺の言葉で、でも素直に感謝を告げるのは照れくさくて、赤くなりながらもじもじと礼を言う。感謝しているのは本当で、体の中が熱くなり雪で冷えた手足にじわじわとようやく血流が戻り始めたのを感じた。
俺の様子をどう勘違いしたのか、スヴェトは俺の濡れたセーターを取り上げる。
ソファーにかけていた毛布を素っ裸の俺の頭にばさりとかけた。毛布から顔を出した俺を、スヴェトはどう考えているのか、ひどく暗い顔をして見ていた。
「ダン、私は感謝されるような人間じゃない。話してやらなきゃいけないことがたくさんある…。そして私たちがなんなのかも。」
そうしてスヴェトは、たどたどしくも俺に分かりやすいように噛み砕いて話をしてくれた。なぜここにいるのか、そしてスヴェトのことも。
「怖がらないでほしい、と言っても無理かもしれない。自分でも、怖いんだ。ダン。必ず家に帰してあげるから、今はここにいて、逃げないで。ちゃんとすべてを話してあげるから。」
俺よりも、怯えた顔を見せるスヴェトは心底辛そうだった。俺はスヴェトの、俺よりも大きくて、何倍も年を食っていそうで、それでも頼りなげなその顔を見て、俺は完全にスヴェトは俺の味方なのだと理解した。いや、味方になろうと思った。
「俺を馬鹿にすんなよ。スヴェト。あんたがなんか黙ってるのは気づいてた。俺を助けたのはあんたなんだろう。俺は信じてやるよ。だから話せ。ちゃんと聞いてやるし、俺はあんたを怖がったりしねえ。」
スヴェトがようやくホッとした顔を見せて、俺もホッとした。スヴェトは深呼吸して俺を見つめてゆっくりと話し始めた。
スヴェトは、俺の連れてこられていた施設の研究室で働いていた、元研究者だった。それは俺もそうなのではないかと思っていたので、想像通りだった。ただ、元、がつくというのがどういうことなのか気になって先を続けた。スヴェトは俺の反応を気にしているようだった。
確かに、あの場所で俺が白衣のやつらに受けた行為は許せないが、別にスヴェトがしたわけではないのだ。俺はしっかりと自分の意思を伝え、スヴェトに全て話すよう頼んだ。
元々あの施設は、病気を抱える子供のためのサナトリウムのような場所だった。
«ノーリ»と呼ばれる少女の担当となったスヴェトは、少女の希望でホワイティという愛称で呼んでいたそうだ。
その少女の病を解明し、治療法を探すことがスヴェトの仕事だった。難しい名前の病で、説明されても俺には理解出来なかった。スヴェトは何年も少女の病気を研究していたが、治療法はどうしても見つけられなかったそうだ。
悔しそうにスヴェトは顔を歪ませていた。
どこから道を間違ったのか、いつからか施設の在り方が段々と変わっていってしまったそうだ。もしくは元からおかしかったところをうまく隠されていたのか、スヴェトがホワイティの病の研究に夢中で気づかなかっただけなのかもしれないとスヴェトはいう。それでも許されないことだとスヴェトは語った。
子供たちは薬を使われて自由な意思を奪われ、研究されるためだけのモルモットになっていったそうだ。
なかなか進まない研究や、研究にかかる費用、子供を世話するための人員がどんどん削減されていったのだ。
当初は潤沢に割り当てられていたはずの資金は、いつの間にかどこかに流れていき、施設の管理は荒んでいった。
施設は人員不足でどんどん不衛生になり、モルモット扱いの子供たちには拷問に近いような実験を繰り返されるようになっていった。
体力のない子供はどんどん減っていったそうだ。それは当然で、元々病を抱えていて弱っていた子供たちだったのだから。
しかし施設に資金を出している出資者からは、どんな手を使ってでも成果を上げるように迫られた施設の関係者は、減った子供たちの代わりを補充させるため、あらゆる場所から子供を集め始めた。
そうして連れてこられたのが俺だった。
スヴェトは俺に謝る。繰り返し、何度も謝罪するスヴェトに聞くと、俺のことを後からそういう子供がいたことを知ったらしい。
特定の病を持つ子供を集めていた連中は、弟の入院している病院から俺たちの町を突き止めたようだ。
そして背の低い俺が弟と間違えられて攫われた。
間違われなければ、連れてこられたのは弟だったかもしれないと、俺の背中に冷たい汗が流れた。
「俺は、弟だと思われて連れてこられたのか。そうだな、弟より背が低かったし。あんなところに入れられるなら俺でよかったのかもしれない。でも、でも弟は、錦児はあの時、海に。」
今でも鮮明に思い出す、弟が海に投げ出される姿が頭を離れない。日本語混じりに言葉を吐き出しながら、ぶるぶると震えているとスヴェトの大きな手が俺の顔を包む。
「早く話してあげるべきだった。弟君は生きてる。大丈夫だ、彼はすぐに見つかってお前の捜索を頼んでいたって記録を見つけた。今は治療も落ち着いて、家族で今もお前の捜索を続けてるよ。」
スヴェトはパソコンから取り出した資料を開き、俺に見せた。新聞の記事をコピーした物らしい。難しい漢字が並び、俺の小学生までの読解力では限界はあったが弟が無事というのはなんとか読めた。
そして俺の顔の写真と名前。家族がちゃんと、俺を探してくれてる事実に目に涙が浮かんだ。
涙を毛布の端で拭い、俺はスヴェトに資料を返し、話しの先を促す。
今はどうせ、すぐには家族の元には帰れない。そんなことくらい俺にも分かっている。ちゃんとスヴェトが俺の家族のことを調べてくれていたことにほっとした。お互いに言い出せない事実があったのだと、分かっただけよかったのだ。
今は、スヴェトが話してくれることに耳を傾けるのが優先だ。
子供たちの中でも、ホワイティは出資者からの期待が大きかった。
体を徹底的に調べられることになり、10代の病を持つ少女には考えられないほどの検査による苦痛を与えらえたそうだ。
度重なる検査と実験により徐々に体の機能を無くしていくホワイティは、ある日科学では解明できない能力を覚醒させた。それは俺も覚えている。建物を壊すほどの音の衝撃波。肉体から離れた自由な姿。
しかし、それが実験をエスカレートさせていく結果になった。
俺は脱出するときに助けてくれた少女を思い出す。
あの子がホワイティだったのだ。
人形のようになりながら、肉体を抜け出し、大人たちを圧倒していた。そして俺を助けてくれた、真っ白な少女を思い出す。
少しだけ幽霊姿を思い出し背中に悪寒が走ったが、あの可哀そうな少女であるホワイティを、ちゃんと助けようとした大人がいたことに俺はほっとした。
スヴェトはなんとかホワイティを救おうとしたらしい。
与えられる薬をすり替え、なんとか連れ出そうと画策した。しかし仲間に裏切られ、施設側の人間だった同僚に捕まってしまったそうだ。
当時のことを思い出したのか、ひどく落ち込んだ顔を見せるスヴェトに、俺は休憩し何か飲もうと提案する。 俺にはココアを、スヴェトはホットワインを入れていた。
寂しげで、でもどこか俺を見て笑うスヴェトに少し安心する。スヴェトはちゃんと人間なのだな、と俺は感じた。
捕まってしまったスヴェトは、俺がいた施設とは別の場所に運ばれ、真っ暗な地下の檻の中に入れられたそうだ。
人狼化、という名の変異実験が成果を上げていたらしい。
なんの怪奇小説かオカルトかと思った。でも、俺はその人狼、狼人間に既に遭遇している。人の体を超える大きさの巨大な狼。ファンタジーでも幻でもなく、狼人間はこの世に存在するのだと、知らず鳥肌が立った。
スヴェトはその実験に無理やり参加させられたそうだ。実験とは名ばかりの処刑だ。
人外の能力と力を手に入れることが出来る反面、人狼とは人間らしい姿と人格、理性を失うそれは、ただの野獣化だった。
理性を失った暴力の檻にスヴェトは入れられたのだ。スヴェトはあれほど怖い夜はなかったという。
スヴェトの大きな体も、高い背も、檻の中ではなんの役も立たなかったそうだ。
人狼化させられた被験者たちの檻に無理やり入れられ、全身に食いつかれたスヴェトは一夜にして人狼として生まれ変わったと言っていた。
子供の俺に遠慮した言い方だったが、俺だって狼人間の話しくらい知っていた。
噛みつかれたら狼になるという伝説。
スヴェトは生きながら、きっとあの鋭い歯で体を噛まれたのだろうと、俺は想像した。思い出す、生温かく、臭い息、夜闇に浮かぶたくさんの牙、あれに全身を噛まれるのはどれほど痛かったのだろう。
スヴェトが受けた痛みを思い、胸が裂けそうになる。
スヴェトは、俺が向ける視線に気づいて俺の頭を大きな手で撫でる。
この手で追手の狼を薙ぎ払い、俺を守ってくれたのだと実感した。生きていて、助かってよかったと思う。
スヴェトが言うには、そうやって研究所が危険と判断した人間を処分しているのだそうだ。
人狼化した人間は人格と理性、そして人としての姿を失い、自力で人間に戻ることはできなくなるそうだ。そしてやがて血に飢えたただの獣に成り下がる。
俺を追ってきた四つ足の狼は、そうしてできた人狼の成れの果てなのだそうだ。
檻から離し、血の匂いを追わせて、逃げた子供を処分させようとしたらしい。
そうやって連中は逃げたり、ほかの研究者を脅し、裏切らないように施設の関係者をコントロールしていた。
スヴェトのことも、他の研究者への見せしめにしたのだ。
「ん、でも。スヴェトはさっき口元が変化してたけど、ちゃんと元に戻ってた。今は目も青く戻ってる。スヴェトは人狼じゃなくなったんか?」
スヴェトは困ったような顔をする。
「私も人狼についてすべて分かっているわけじゃない。ただ、私は人狼の中でも少し変わってるらしい。」
スヴェトは普通の人狼とは違っていたらしい。
檻で目を覚ますと、血と牙で汚れてはいたが、ちゃんと人間だったそうだ。
人狼になっても理性を保つこと、人間に戻ることに成功した彼女は、他の人狼から恐れられた。
その夜を限りに、誰もスヴェトを襲うことはなかったらしい。それどころか、人狼たちはスヴェトに怯え、なにもせずともひれ伏したそうだ。スヴェト自身はなにが起きているのか分からなかったが、スヴェトが指示すれば、他の人狼たちは何でもいうことを聞いたのだそうだ。
そしてスヴェトは同じ檻の中にいる人狼たちと話した。スヴェトが働きかければ人狼から人へと戻ることが出来るようになったのだ。スヴェトは彼らが本能のままにスヴェトを襲ったことを許し、そして協力し、脱走を図った。
逃げる途中、スヴェト以外に三人いたのうち二人は殺されてしまったが、なんとかスヴェトと残り一人は逃げ遂せることが出来た。
その一人がさっきの男なのだそうだ。
後で専門家でないスヴェトが調べた人狼の資料で、いくつかのことだけ分かった。
狼は本来高度な社会性を持つ生き物で、強い群れのリーダーをアルファとして群れを構成する。
スヴェトは狼のアルファのような立場の人狼なのだろう。全身に食いつかれた夜に何が起きたのか、スヴェトは詳しく語らなかったが、他の男たち(人狼)が怯え従うほどの力量の差を示したのだろう。
俺はスヴェトが俺を助けてくれた日を思い出す。
理性を失い獣そのままに襲い掛かる四つ足狼に対し、冷静に撃退するスヴェトの力は圧倒的だった。ごくりと息を飲む俺を見て、スヴェトは苦笑する。スヴェトは人狼たちとは決定的に違う何かを持っているのだ。それがなにかははっきりと俺には分からなかったが、スヴェトに助けてもらえてすごく幸運だったと思った。
逃げ遂せた今、もうそんな歪な上下関係は意味なさず、一緒に逃げた男には町で暮らすように指示して別れたらしい。
しかし、先ほどのように時折訪ねてくることがあるそうだ。そうして日用品や食料を届けに来るのだという。
そういえば小屋の周囲しか出歩かないスヴェトが、どうやって食料や日用品を手に入れてくるのか分からなかった。なるほど、さっきの男がここまで運んできていたのかと気づく。
別に友人でも、恋人でもない。同じ檻に入れられていた仲というだけの他人でしかない。スヴェトからしてみれば、自分を人狼に変えた憎い敵でもおかしくはない。
スヴェトはどちらかというと毛嫌いしているようだった。なのに、男はスヴェトから離れようとはせず、食料を運んだりしなくてもいいと、何度伝えても訪ねてくる男に完全に断ることも出来ず、余計なことは何もしないことを約束させ、町で過ごさせているそうだ。
俺は行き場を無くした男が、スヴェトに罪を償うために必死に縋り付いている様子が浮かんだ。
あの男も人狼なのだ。スヴェトと同じように、他の人狼に食いつかれて獣に成り下がっていたのだ。
もしスヴェトと出会わなければ、理性を失ったまま檻の中で生きるしかなかっただろう。スヴェトはあの男の救世主でもあり、被害者でもあるのだ。
スヴェトはここで研究施設を見張り、子供たちを救出するタイミングを見計らっていた。通信を使って助けてくれそうな人物を探し、準備を整えていたそうだ。
ここで一人監視を続けるスヴェトに、あの男は力になろうとしていたのだ。
俺もあんな風に怯えて逃げることはなかったと少しだけ後悔した。
スヴェトは施設に突入する準備が整ったあの日、思いがけず子供たちが自ら脱走してきたことで、外で待機していた仲間たちが無事にみんなを回収したことを教えてくれた。
今は信頼出来る孤児院で、長いこと薬漬けだった子供たちを治療しながら生活させているという。親がいる子供には治療を終え次第、説明と謝罪をしながら返しているといった。
ではなぜ俺はここにいるのかというと、雪に閉ざされていて動けないというのも理由の一つだが、俺の特徴からほかの子供と一緒にさせることをためらったそうだ。
アジア系の子供は俺だけ。それから他にも気になる点があり、俺は他の子供と一緒には出来ないらしい。
明らかに違法な手段で誘拐してきた子供と一目で分かる俺は、うかつに外には出せないそうだ。
今では政府の介入が入り、研究施設も押さえられ調べられているため、元はそこの研究者であるスヴェト自身もうかつに接触は出来ないらしい。
今は特別な通信で、信頼できる相手に外の様子をやりとりしているそうだ。
俺はスヴェトとここに、お互いが匿われているのだとようやく理解することが出来た。
「なぁ、その、ホワイティも、ちゃんと助かった?」
俺は気になっていたことを聞いてみた。
痛ましそうな顔を浮かべるスヴェトに、俺は嫌な予感がした。
「あの子も、無事に保護された。でも、一度も目を覚まさないらしい。あの日までずっと念話で会話していたのに、あの夜から一度も声が聞こえないんだ。」
俺たちは言葉を無くし、室内に再び沈黙が落ちた。
沈黙を破ったのは戸を叩く音だった。
スヴェトがため息をつき、戸へ向かう。外にいたのは先ほど雪の向こうに消えた男だった。手には少し雪を被った大きなボストンバックを持っていた。
スヴェトと男が言葉を交わす。
早口過ぎて俺には聞き取れなかったが、男はスヴェトの後ろに隠れるようにして立つ俺に手を伸ばし、髪が伸びたぼさぼさ頭を乱暴にかき混ぜた。
むっとして手を振り払うと、酷薄だった顔をわずかに歪めていた。
じっと見て初めて気づいたが、口角が僅かに上がっている様子から男が笑っているのだとようやく理解できた。なのに目は落ち窪み、泣きそうなほど悲しそうだった。
スヴェトは俺たちを見て、静かにボストンバックを受け取り中身を見て男に感謝を告げる。
男は何も言わず手を上げ、さっさと元来た道らしい雪道を戻っていった。
「やつの名はアーロンだ。施設にはやつの息子もいたんだ。研究者たちの横暴を知り、息子を救おうとして人狼にされてしまった。」
子供たちがみんな救出されて助かったなら、あの男アーロンはここにはいないはずだ。
アーロンが持ってきたボストンバックには、俺にはわずかに大きい程度の子供服が入っていた。あとはチョコレートや飴などの菓子、読めないがコミックが数冊が入っていた。
どれも使われていた痕跡と少しだけ古びていて、アーロンの息子のものだと分かった。
「あいつの息子は?」
スヴェトは首を振っていた。
俺は、雪が解けても小屋を離れないことにした。
俺が日本を離れて3年ちょっと経っていた。
帰るにも保護されるにも、俺自身に問題があるとはっきりと分かったからだった。
俺の成長は3年前から完全に止まっていた。