4
しゅうしゅうという音が聞こえる。
音に誘われて目を開けようとしたが、瞼から差し込む光が目に痛く、なかなか目を開けられなかった。
懐かしいような木の香りと、わずかに埃の匂いがした。鼻をひくつかせ、いつもの黴臭さを感じないことに違和感を覚える。
嫌な感じはしなかった。
体からわずかなアルコールの香りはしたが、いつも目が覚める度に感じた冷水に漬かるような冷えを感じなかったからだ。ただし全身に痛みはまだあった。
自分がどこにいるのか知りたくなった。
視界がぼやける目をこすりたくて身じろぎした。また拘束されているのかと思ったが、ただ痛みと怠さで動かしづらいだけだった。
持ち上げようとした腕は重く、体がひきつるような感じがしたが、なんとか動かすことが出来た。
拘束されていた期間が長かったこともあり、逆に寝起きに動く手が新鮮だった。
むず痒い目を乱暴にこすり、目が慣れると古い木造の天井が目に入った。
窓から差し込む光は、慣れると思っていたほどさほどまぶしいものではなかった。
見える窓はすべて曇っており、外は白く、入る光はほの白かった。
手には指まで包帯が巻かれており、体も丁寧に治療されていた。アルコールの香りは治療された部位から漂っているだけで、部屋からは木とわずかな埃の香りしかしなかった。
よく見ようと動かす度に、体中の皮膚が突っ張ってはいたが、鈍い痛みだけ残してすぐに突っ張り感は消えていった。
俺の服はもはや普段着になっていた拘束服ではなく、見覚えのないぶかぶかの淡い毛糸のセーターを着させられていた。
下は何もはかされていなかったが、下着などもう長いこと縁がなかったので気にしなかった。
ズボンも、最後に覚えているのは雪と自分が漏らしたもので、冷たく張り付いていたのだ。
もう出来れば同じものを履きたいとは思わなかったので都合がよかった。
治療されている様子からも、俺は助かったのだと思いたかった。
最後に見た巨大な獣たちの戦い、喋る二本足の狼、俺を助けてくれた宙に浮く少女。そして、俺が殺してしまった、男のこと。
ここは、そんなことが現実ではなかったように錯覚させる。
少なくとも獣の匂いはしないし、ずっと体にまとわりついていた血や、薬品臭さ、黴臭さ、悪意や害意をここでは感じなかった。
湯が沸いているような音に誘われて、寝かされていたマットレスから降りる。膝が少し笑ったが、ちゃんと立ち上がることが出来た。
足も包帯でぐるぐる巻きにされていて、ズボンをはいていなくても、肌が見える部分の方が少なかった。そういえばガラスの上を歩き、転がり、森の中を裸足で走ったのだ。今立ち上がれている方がすごいのだが、思うように動かない足に苛立ちしか感じなかった。
しかしこれでとりあえず、なにがあっても逃げ出すことは出来る、と自信を持つ。
窓の外を見ようと、セーターの余った袖で窓の曇りをこすってみたが、窓の半分ほどが雪で覆われていて結局何も見えなかった。
部屋の中は温かく、木の匂いの他にいい匂いがした。知らず腹が鳴り、自分が空腹であることを思い出す。漂う匂いを追って、部屋を見渡す。
置かれている家具は椅子と、机の上に読めない言語で書かれた紙や本が山のように積み重なっているだけだった。
半分開いていた木製の扉を開けると、ふわりと香しい匂いが漂ってきた。
窓から入る白い光とランプの柔らかい光に包まれた部屋で、床には厚い絨毯が敷かれ、古いが大きなソファが置かれていた。
ソファの前には古い薪ストーブが置かれていて、中には半分炭になった薪が煌々と燃えていた。
ストーブの上にはぼこぼこに変形した薬缶が置かれており、湯気を吐いていた。
それを見た俺は喉の渇きを思い出し、裸足で包帯の下からでもチクチクする床を歩き、ヤカンに触れようとした。
「ストフ!アスタナビーティシ!」
突然、冷たい風と雪と冷気とともに、小屋に入ってきた中年の白人女が俺に強い口調で呼びかけた。
驚きで手を止めた俺を見て、女はほっとした様子を見せると入ってきた戸を閉め、雪がついたままの恰好で絨毯を歩き、手袋のままヤカンを取り上げてしまう。
むっとして俺が睨むと、女は困ったように眉を寄せる。
今までみたことのある誰よりも背の高い女だ。堀の深い顔と青い瞳、灰色で艶のない髪を乱雑にくくっている。目じりに深い皺を刻む女は、どこか野性的な雰囲気はあったが、俺をいたわる様子が見て取れた。
前にいたところで、こんな風に慈愛に満ちた目を向けられたことなどない。
こいつは俺を害することはない、となぜか不思議とそう感じた。
大女は俺に何度か声をかけようとして、なんと言うか迷っているようだった。しばらく俺を見下ろした後、迷うようにこういった。
「……ユー、ユ?オンセン?タッチ、ノー、アブナイ、イタイ。ダメ。」
はぁ?と頭の中にクエスチョンマークがいっぱい出来た俺は、言われたことを一生懸命考える。大女も、俺が分かっていない様子に焦っている様子が見て取れた。日本語は得意ではないらしい。必死で単語を並べているが、よく分からない。
ユー、ユ、湯?お湯?オンセン、おんせん、温泉?、なんで?風呂に入れってこと?確かに長いこと入ってないが、傷だらけで入りたくない。沁みるかもしれないし。
なんで今?そりゃ痛いだろう。入りたくはない。
考えていると女はヤカンを持って奥の部屋に行ってしまう。
大女がなにをするのか追いかけようとするが、すぐに奥から戻ってきた女はコートやマフラー、手袋を外しに出てくる。
俺が来ているセーターを中に来ており、大女の服を俺が借りているのだと気が付いた。女性物を着ていることに顔をしかめるが、拘束服などよりはるかにましであると納得する。
大女は奥の部屋に再び入り、手に小さめのカップを持って戻ってきた。
温泉ってどういうことなんだろうと考えていた俺に、女は急にカップを差し出してきて思わず受け取ってしまう。
手に取ったカップは熱く、中からは甘い香りがしていた。
懐かしい香りに涙があふれてくる。もう二度と飲むことなんてないと思っていた。
中にはココアが入っていて、分かった途端自分の欲求に耐えられず、長い間薬を盛られていたことも忘れてカップに飛びつく。
熱い飲み物にすっかり縁遠くなっていたため思いっ切り舌を火傷し苦しんでいると、女が俺をじっと観察していて、オンセン…と再びつぶやいた。
「……オンセンって、お湯のことかっ!ちげぇよ!」
俺は久しぶりに声をあげて笑った。ココアは少し薄かったが、涙とついでに鼻水が出るほど甘くておいしかった。
熱いココアをふーふーと吹き覚まし、必死で飲み干すと、柔らかい表情を見せた大女はストーブの前に俺を促し座らせた。手や足を見て、血が滲んだりした部分をめくり、イタイ、イタイ、と聞いてくる。
「そりゃいてぇよ。なぁこれ、あんたが手当てしてくれたんだろ?ありがとうな。」
俺の感謝は伝わったようで、目を細め、目じりの皺を深くする。笑っているようだった。
それから自分に指を向けてスヴェトラーナ、と名乗った。
俺は最初はよく聞き取れず、何度か練習しても結局あまり発音もうまくできず、俺はスヴェトと呼ぶことで落ち着いた。
大人たちが俺にちゃんと名乗ってくれることなど初めてだったから、なんだか気恥ずかしかった。
それでも何度も名前を連呼する俺を、スヴェトは目じりの皺をよせたなんとも言えない顔で俺を眺めていた。
そんなスヴェトの眼差しは、俺にはどこかむず痒かった。
「俺は、佐藤弾児。ダンジ、だ。」
今度は向こうがサトゥ、サツー、と繰り返す。
確か海外ではファーストネームが先に来るのだと、今はもう遠くなってしまった学校の授業の記憶を必死で思い出し、俺は弾児、ダンジ、と繰り返した。
結局スヴェトも俺の弾児という発音に慣れず、ダン、と呼ぶことで落ち着いた。
スヴェトの日本語は分かりにくいが、片言でもゆっくりときちんと説明してくれる。
おかげで俺は、無理やり連れてこられた遠い異国の地で、初めて誰かとまともに意思疎通を図ることが出来た。
スヴェトはそれからスープをふるまってくれた。ちょっぴりしょっぱいスープは、それでも温かくて、具もたくさん入っていて、また少しだけ泣いてしまった。スヴェトが何者なのか、とか、どうしてどうやって俺を助けてくれたのか、まだ何も分かっていなかったのに、俺の張り詰めていた緊張はこの小屋の温かさで完全に切れてしまっていた。
スヴェトは安心できる。これほどの大女なら、あれほど大きな狼が来ても怖くない。不思議と、スヴェトなら俺を守ってくれる、とそうなぜか信じることが出来た。まだ、彼女が何者なのかここがどこか知りもしないというのに。
食事を終えると同時に俺は突っ伏してまた眠ってしまった。それから何度も目が覚めてはスヴェトに食事を与えられ、少し話しては眠り、時折包帯を巻き直される。消毒に悲鳴を上げる、そんな日々がしばらく続いた。
小屋の周囲は森と雪に囲まれているらしく、しかも雪が続いていて外に出られなかった。
俺はこの小屋の近くで見つかり、保護したとスヴェトは言った。
治療は、医療に明るいスヴェトがすべて行ったらしい。
巨大な体に似合わず丁寧で細やかな治療の痕、包帯に隠されて最初は気づかなかったが、縫われた後がたくさんあった。抜糸は唇を噛んで耐えた。
俺は、スヴェトの世話になりながら共に小屋でしばらく過ごしていた。感情も落ち着いて、冷静になり、俺はスヴェトの正体を探ろうとあれこれと質問攻めにした。
そんな俺に、スヴェトは拙い日本語で一生懸命説明してくれた。どこかそれが不思議だった。
スヴェトはこの地域の森を管理している人間で、遭難者を保護することのだという。
俺はすぐ嘘だと思った。あんなことがあった施設の近くなのだ。こんなところに立つ小屋で寝泊まりしているのはおかしい。子供の俺が夜通しかけたとはいえ、それほどの距離しか離れていないだろう。
そして狼が徘徊する森だ。
おそらく、スヴェトはあの施設を脱走する者を監視する者ではないかと俺は睨んでいた。だが、外は雪とはいえ、なぜすぐに俺を連れ戻そうとせず、これほど丁寧に治療し、食事を与え、質問に答えてくれるのか分からなかった。
そしてスヴェトがつく嘘。いくら聞いても狼のことははぐらかされてしまう。
ここはスヴェトが任されている小屋の一つで、森の向こうには個人の私有地が広がっているそうだ。きっとそこが俺がいた施設だろうと推測した。
雪がやめば俺をあの施設へ連れ戻すのかと思った。
しかし、雪が止んでも、傷が治っても、スヴェトが俺を施設に連れていこうとなんてまったくしなかった。それどころか、どこかに連絡は取っているようだったが、助けを呼ぶでもなく、ただ静かに俺の質問に答えるだけで、穏やかに小屋で過ごしているだけだった。
ただ、スヴェトは俺を知っていたようだった。
そうでなければアジア系にしか見えない俺が、日本人だなんて一目で分かるはずがないのだ。俺の通っていた学校には中国人もいた。ぱっと見だけでは、俺が日本人などと判断などつくはずがないのだと、俺は知っている。
血塗れで傷だらけで、雪のある森で見つかった正体不明のアジア系の子供。それが俺のはずだ。
あの施設は最後の時、ひどく騒がしかった。大きな爆発音もしたはずだ。今頃大騒ぎになっているはずだ。
なのに俺は丁寧に治療を施され、この小屋で寝かされていた。スヴェトがなにも知らないはずがない。
でも、悪意を感じない生活も、優しい大人も久しぶりで、スヴェトはすべて語ってくれるわけではないがどうしてか信用できた。傷が癒えたとはいえ、まだ元通りに動けない俺は大人しくここで過ごそうと決めた。
スヴェトは雪がどれだけ吹雪いていようとも、一日に何度も外で出かけて行った。最初は置いて行かれるのではと焦った。もしくはなにかスヴェトがするのかもしれない。もしかすると、いない間に俺をあの施設へ連れ戻すやつらが来るのかもしれない、とそう思っていた。だが、セーターしか着ていない俺には戸口より外にはどうしてもついていけなかった。
しかも、たびたび屋根に上がっているのと、雪が落ちる音がして、雪かきをしているのだけなのだとすぐ気づいた。
雪国とは縁遠い場所で育った俺には、たったそれだけのことが初めてで、新鮮だった。
好奇心が抑えられない俺も戸口まで追いかけてみたが、あまりの冷たさと風の強さに、防寒具のない俺はすぐさま心が折れた。
外には出られない。
しかし雪が止むまでは誰もここまで来れない。
ようやく安心できる場所を手に入れたのだと、俺はほっとした。
俺は大人しく、スヴェトとともに小屋で過ごす。
薪が焚かれるストーブのそば、絨毯の上が俺の定位置となった。
だが、安穏とすると思い出すのはダストから逃がした子供たちだ。安否が気になった。
最初のころはうまく眠れていたのに、俺が殺した男の夢を何度も見るようにもなっていた。
さらに気がかりなのは、最後幽体離脱していた白い少女だ。思い出すだけで背筋に悪寒が走る。漏らしていないか股間を思わず握ってしまう。
それでも俺を助けてくれたのだということが理解できるので、あれからどうなったのか知りたかった。
俺は、俺自身がここでどういう立ち立場にいるのかよく分からなかった。完全に俺は被害者だが、今はもう人一人殺してしまった犯罪者だ。男の夢を見る度、なにかに追われる焦燥と不安で胸が押しつぶされそうになる。
スヴェトはうなされる俺を心配して、何度か枕元にいるのを見かけた。俺がなんの夢を見ているのかは知らない。話していいのか分からなかった。なんといえばいいのかも分からなかった。どうしようもなく、ここから離れたくなくなっていた。
故郷に帰りたい、が人を殺してしまった俺が、もう帰っていいのか分からない。
きっとここはまだ数キロくらいしかあの場所から離れていないはずだ。
あの状態の自分が移動してきた距離を思うと、さほど離れていない。そう思うと、俺はまだあの施設に囚われているのだと思うと悔しくて、悲しくて、自分がみじめだった。
スヴェトに話すべきか、聞くべきかも分からず、ただただ、スヴェトに言葉を教えてもらいながら雪が消えるまで過ごすしかなかった。
考えれば考えるほど、こんな場所に住むスヴェトが、あの場所と関係のない人間かどうか、はっきりとは分からなかった。
スヴェトも俺を見て、時折苦しそうにしている。それが、どういう理由なのか、俺には分からなかった。ただ俺を心配し、もう消えてしまいない傷があった場所をさすり、悪夢を見て苦しむ俺をなだめてくれるスヴェとしか、俺は分からなかった。
暖かな寝床と食事を与えられ、優しい視線をくれるスヴェトを俺は疑いたくなかった。慣れない日本語を、辞書を見ながら一生懸命説明してくれるスヴェトを俺は信頼したくなっていた。
無理やり連れてこられた知らない国で、冷たい牢獄のような場所にいれられて、長く拘束されて、何度もひどい暴力を受けた。
ひどい目に合わされ続けていたのだ。
自分でも知らなかったが、すごく優しさに飢えていた。
拙いとは言え意味の分かる言葉を考え、俺に伝わるように語るスヴェトが心の底から頼もしかった。
それから、あの日俺を助けてくれた二本足で歩く灰色狼が、拙い日本語、灰色の髪、野性的な視線、どこか重なる、似ている気がする。
スヴェトなら信頼出来る気がしていた。
雪のせいで小屋に閉じ込められ、たくさんスヴェトと話すうちに俺の方がスヴェトの国の言葉を理解した。元より白衣たちの言葉で耳が慣れていたのだろう。簡単な会話が出来るようになる方が、雪が解けるより早かった。
どれだけ俺がスヴェトに話しかけていたかがよくわかる。
「なあ、スヴェト。あんた狼知らない?」
何度も問いかけた質問を、俺は繰り返す。この質問を初めて問いかけたとき、スヴェトはピクリと珍しい反応を示したからだ。俺はあの場所から逃げた経緯と、あの日にあったことを何度もスヴェトに打ち明けて相談していた。俺が人を殺したことだけは避けて。
スヴェトはきっとあの施設と無関係ではない。それは確信に近かった。ただ、施設の人間ではないんじゃないかと俺は思っていた。
それに他の子供たちがどうなったのか、気になって仕方がなかった。少しでも手がかりを手に入れたかった。
俺を襲ってきた狼のことも気になっていた。
外に出られるスヴェトに、何度も確認してもらえないか聞いてみていた。
「オオカミ。ヴォールクのことか。…もうこの辺りにはいない、安心しろ。」
スヴェトは答えてはくれるが、そんなことが聞きたいんじゃない。
命からがら逃げだしてきたあの日、おそらくこの小屋があの日俺が目指した光だ。
あの場所から近くにいるなら決して安全なはずがない。他にも追手がいるかもしれない。
今は雪に閉ざされているからといっても、いつまでも雪が続くわけじゃない。
スヴェトがあの場所と関係のある身でも、俺の事情には巻き込みたくはなかった。
子供の体で、この雪で、俺に何が出来るわけでもなかったが、俺なりの意地があった。
「俺、雪が止んだらここ、出てくよ。家、帰る。」
毎日そういうと、スヴェトはどこか痛ましそうな顔をしていた。
毎回一言、そうかと言ってスヴェトは今日も雪の中、薪を取りに外へと出かけて行った。
彼女は小屋では通信が可能なパソコンを持っており、さすがに俺には読めない言葉で、毎日なにかを打ち込みをしていた。俺も勝手に触ってみようとしたが、使い方はさっぱり分からなかった上に、叱られるどころかスヴェトにバレて苦笑されると、恥ずかしくて二度と触るものかと思ってしまった。
でも一応パソコンの起動の仕方と文字を教えてくれた。まだスヴェトの打ち込む言葉は難しすぎて読めないが。
スヴェトはずっと資料や本を読み、何かを書きつけている。
監視をしていると言っていたが、本当のところは実際になにをしている人間なのか、俺にはまったく分からなかった。
もくもくとパソコンに向かう姿は、白衣を着ていなくてもどこか研究者を思わせた。
だが、スヴェトはけして俺をあの白衣の連中のような目でみることは決してなかった。
だから、知らずに俺はもう既に、本当にスヴェトのことを信じていたのだ。
スヴェトがいつものように出かけてすぐ雪が止み、珍しく窓の隙間からまぶしい光が差し込み始めた。
晴れた、と思い顔を上げた。
俺はスヴェトが作った文字の練習帳から、窓に目を向け久しぶりの日差しを見ていると、戸口の外に気配を感じた。
スヴェトがずいぶんと早く帰ってきたのだと思ったのだ。
開いた戸口に立っていたのは、見知らぬ男だった。
男の姿を確認して、俺は固まった。すぐに握っていた鉛筆を握りしめた。体に緊張を走らせ、全力で男を観察した。
冷たい顔をした大男だった。面長で細い目は酷薄な色を浮かべていた。知らない男、大きく、冷たい目をした男はまっすぐ俺を見ていた。
何度も暴力を奮われた記憶が蘇り、怒りと恐怖が沸き上がる。
あの時の男は確かに死んだことを確認したし、男があの場所の関係者だとは限らない。それでも俺は警戒心をむき出しにして男を睨みつけた。
男の顔には傷痕と、首から延びる入れ墨がちらりと見えた。
俺は初めて見たその男を、勝手に暴力を生業とするヤクザ者と判断し、すぐに寝床として与えられている部屋へ飛び込んだ。
スヴェトを呼ぶような男の声がしたが、雪も止んだことで寝床の窓から外へそっと逃げ出す決心をした。今思えば突然の来訪者に、怖い男に、入れ墨に、パニックを起こしていたのだろう。
高くなっている窓から飛び降りると、雪に体が埋まる。
全身を貫くような冷たさに、一気に手足どころか全身が冷えていき、感覚が麻痺していく。セーターは雪で濡れ、全身に張り付く。
もがくようにして必死で雪から這い出すと、俺の逃亡に気づいて小屋を回ってきたらしい男にすぐに見つかり、目が合ってしまった。
自分のみじめな恰好と後ろめたい感情は自覚していたが、酷薄な顔に浮かぶひきつった男の笑みは既に冷たい背筋をさらに凍らせるに足るものだった。
雪に手足を取られてうまく逃げ出せない俺は、あっさり男に掴まった。
スヴェトに負けない体格の巨漢は、悠々と俺を抱え上げる。
嫌がる俺の抵抗などなにも通用しなかった。握っていた鉛筆もあっさり取り上げられる。
必死で暴れ、情けなくもスヴェトの名を呼んでいると、スヴェトが脇に薪を抱えていた。
呆れた顔をしているスヴェトは、男に俺を離すようにいい、男はあっさりと俺を離す。
雪に再び落とされた俺は、体が雪に埋まらないように大股で男から離れる。
慌ててスヴェトに駆け寄ると、スヴェトはいつもの安心する顔を見せた。
スヴェトは男を見やり、ここへは来るなと言っているようだった。
男もなにか言っていたが口調が早い上、少し訛っているのか俺には聞き取れなかった。
厚い雲間から差し込んでいた日は再び陰り、俺は寒さを思い出し震え出した。
スヴェトは俺に小屋に戻るよう勧め、男と向かい合っていた。
背を見せるその横顔がちらりと見えた俺は、スヴェトの頬が割け、犬歯がむき出しになった顔を見てしまった。