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3/13

 

 気づけば、廊下を大勢が走ってくる足音の響きを感じていた。



 このままじゃ逃げられない、と自分を奮い立たせた。


 ボロボロで、傷だらけで、服も体も血まみれだった。憎い男を倒して、息を吐いたら全身に痛みと脱力感が襲っていた。男は自業自得だ、俺は絶対に生き延びて、ここから逃げるんだと必死に拳に力を入れて立ち上がった。

 足はがくがくする上、眩暈がした。何度もタックルを受けた肩や背中、ガラスの破片が刺さった手足、鳩尾も動く度にナイフが差し込まれているかのように痛みが走った。

 血は止まっていたが、倒した男に負けないくらい血塗れで、傷だらけだった。

 歪む視界とふらつく足で、倒れまいとぐっと奥歯を噛みしめて立ち上がる。


 逃げる、逃げる、どうやって、どこから、それから、と考えて思い出す。ここにはもう一人子供がいた。



 俺はベッドの少女をどうにか出来ないか、このふらふらな自分の体で俺と少女を、どうにかダクトに突っ込めないかどうか考えながら振り返ると、少女はそこにいた。


 今度こそ息が止まるかと思うほど驚いた。


 人形かもしれないと思っていたから。死体かもしれないとも思っていた。



 彼女はじっと黙って俺を見ていた。半透明の姿で宙に浮いて。

 体はちゃんとベッドの上にあった。


 俺は間抜けな顔をしていたと思う。


 少女は白く、向こう側が透けていた。ゆらゆらと宙に浮き、絵本で見た幽霊そのものだった。


 喉から細い悲鳴が漏れる。


 俺はお化けが怖かった。

 声といっしょに少し漏らしてしまったかもしれない。


 少女は視線を、俺の股間をちらりと見てクスリと笑う。

 笑われたことにかっと顔に火が昇るが、冷たい股間は笑われても仕方がないかもしれない。

 恥ずかしさと悔しさからじっと見てしまった少女の笑った顔は、お化けにしてはなかなか生気のある顔をしていた。


「あんたが、俺に、話かけてきてたやつ?」


 にこにこ笑う少女は笑う度、明滅するかのように感情の揺らぎと同じくらいその姿も揺れた。少しだけ恐怖は遠のいたが、たくさんの足音と大人たちの荒々しい声が近づいてきた。 


 バアーン、と部屋の扉が開き、白衣たちが大勢入ってきた。痛みと少女に気が取られて近づいていている気配にすぐに動けなかった。全身が痛む体とふらつく足ではうまく身を隠すことも出来ず、俺は少女の眠るベッドの方へ後じさるしか出来なかった。

 警棒のような武器を手に持つ警備員のような男たちもいて、血まみれになっている俺と大量の血を流し倒れている男、そして宙に浮く半透明の少女を見て、それぞれの顔色が変わった。


 男たちが意味の分からない言葉でそれぞれわめき、青い顔をした男たちが手の武器を構えると、前へ迎え出た少女がきっと顔を歪ませた。辛そうな目を一瞬だけ俺に視線を向ける。

 俺はまったく彼女の言葉が分からなかったはずなのに、何をしたいのか不思議と分かり、耳を押さえた。


 宙に浮いた少女は声帯を持たないはず口から、すさまじい奇声を上げた。



 耳をつんざく悲鳴のような音の衝撃波は男たちを吹き飛ばし、元々罅が入っていた壁さえ吹き飛ばし崩してしまった。

 耳を抑えた俺に少女は目の前に降りてきて、必死に逃げるようにジェスチャーを繰り返す少女は指をさし、男たちの向こうの崩れた壁の外へ行けと促してくる。

 少女の言っていることに気が付いた俺は聞こえているか、伝わるかも分からないのに少女に話しかけた。


「逃げろって、それなら、お前もいっしょに行こう!」


 俺は少女の眠るベッドにしがみつくが、たくさんの機械とつながれているベッドは硬く固定されている。 しかも周囲の機械や崩れた壁でベッドなんて動かせる余地はなかった。そもそも俺の体では動かせられるはずなどなかった。それでもベッドを少しでも動かそうと踏ん張る俺に、半透明の顔が迫り、ゆっくりと首を振られた。


「……一緒に、行けないんか?」


 少女は悲し気に笑って、何やら口を動かすと一呼吸の合間で掻き消える、たばこの煙のように姿を消した。






 外はまぶしいほどのライトがあちこち照らされていた。大きな車が何台も周囲を囲んでいた。俺が子供たちを逃がしていたダクトの方からは、大勢の人間たちの気配があり甲高い悲鳴や怒声、何かの発砲音が絶えず響いており、逃がした子らの無事を確認に戻ることすら出来なくて、俺は人の気配が消えた一瞬の隙をついて建物から逃げ出した。


 もう体はボロボロで、体力は限界だったが、もう誰にもつかまりたくはなかった。

 ダクトに押し込んだ子供たちの顔が頭を過ぎったが、もう俺にはどうすることも出来なかった。



 俺は雪が残る森の中を素足で駆ける。 


 頭や背中からも血を流し、血が止まっていたはずの手足には新しい傷を作り、それでも走り続けていた。

 

 もうどこに逃げているのか分からない。

 

 ただひたすら少女が示した方角を意識して走っていた。そっちが正しいのかも分からないまま。

 気づいたら頬が異様に冷たくて、血だと思い拭ってみたら涙が流れていたと気付いた。


 自分が泣いていたことにびっくりした。どれだけ殴られたって泣かなかったのに。

 

 自分でも久しぶりの自由が嬉しかったのか、それとも外の世界が寒すぎたせいのか、助けてくれた少女を置いてきたことが悔しいなのか、最後まで子供たちが救えなかったことが悲しいのかも分からず、ただ泣いて、鼻をすすりながら重い体を、足を必死で動かしていた。



 森の中は、身を割くような冷たい風が吹き付けくる。流れた涙を凍らせ、血が流れる度に冷えていき、小さな体から熱を奪い去っていった。徐々に動かしづらくなる体を焦る気持ちでただ前に動かしていた。


 しかも気づいたことに、施設の敷地から逃れた俺の後ろを、誰かが追ってきている。

 

 自分のものではない足音に、獣のようなうなり声が響きわたり、俺は絵本に出てくる狼を想像した。

 牙をむき出しにした、目が血走った、飢えた狼。きっと俺はかっこうの餌に見えることだろう。


 森が傾斜になっても、俺は足を止めなかった。止めることが出来なかった。


 足だけでは傾斜を登れなくて、もう両手も使って必死に進んでいた。ハッ、ハッ、という荒い息にもうダメかもしれないと、絶望しかけた。

 

 その時だった。

 

 前方にわずかに光が見えた。


 本当に小さくて、真っ暗な闇の中でなければ見つけることなど出来ない、それほど小さな光だった。


 それは懐中電灯でも、街灯の光でもなさそうだった。それでも、夜中に森の奥でほんのわずかに見えた光は俺の絶望しかけた心に差した、わずかの希望となった。

 


 しかし、うなり声はあっという間にすぐ近くまで近づいてきている。


 傾斜はさらにきつくなり、必死で動かなくなる足を叱咤し、雪の冷たさのせいで感覚のない指で地面を掻き、光を目指す。


 振り返る手間すら惜しくて必死で目の前を遮る老木にしがみつき、歯を食いしばって傾斜を昇る。


 ガサ、パキ、という枝を踏みつける、自分以外が出す不気味な音。


 はっはっはっは、という荒い息遣いがまじかに聞こえ、俺は生きた心地がしなかった。寒さとは違う震えが走る。

 あそこまで行けば助かる、救われると、なんの光か知りもしないのに、救われる保証などなにもないのに、俺はバカみたいにそう信じて、信じるしかなくて俺はもう力も入らない体で這って進んでいた。

 


 追手のなにかが、一気に俺を飛び越えた。





 視線を上げると暗い影の中、正面に浮かび上がる黄色く、鋭い牙が並ぶ巨大な口が見えた。顔に吹きかける息は生温かく、生臭い。濃い獣臭がした。

 

 月が指した一瞬の光の中、巨大な四本足の獣が俺の前に立っているのを見てしまった。

 

 ひっと息を飲む。


 俺よりもずっと大きな黒い狼が、俺の進路を遮るようにして立ちふさがる。雪の温度よりも冷たい光る眼は残酷な色を宿して俺を睥睨していた。俺をどうやって食い殺してやろうか考えている目だと思った。

 

 臓腑を噛まれるような恐怖と、熱や力を奪う雪の冷たさに負けないように、狼を刺激しないよう出来るだけそっと懐に震える手を伸ばす。

 残しておいたはずの針は、どこかで落としてしまったらしい。手の震えは体の震えとなった。

 

 武器がない落胆を悟られぬように、狼から目をそらさず地面に落ちている枝を握りしめた。

 体の震えは枝先にまで現れ、自分の恐怖を自分の目で見て気づく。


 俺はこんな狼よりも、大きく恐ろしい男を殺したのだ。

 こんな獣程度に怯えるなんて馬鹿馬鹿しい。


「あ、ああ、あああああああああ!」

 

 

 俺は心の限り強く大きく叫んだ。出来るだけ狼がひるむように、横をすり抜けて光を目指せるように。


 こんなところで、死ねるか!絶対に俺は生き残るんだ!


 狼は、俺の背丈より巨大だった。それこそ、大人と同じくらいの巨躯。

 俺の頭より大きな口は、牙を剥き出しにして腹の底に響くようなうなり声。


 闇夜に光る眼は、底冷えしそうなほど冷たかった。うなり声により体が固まってしまい、その目に射抜かれて腰が抜けてしまう。気合で負けてしまった。体力も気力も先ほどの大声が限界だったのだ。

 

 もう、自分が死ぬ未来しか見えなかった。


 食い殺される未来に、鋭い牙が自分の体を貫く痛みにこらえるため、ぐっと目を閉じた。




 今にも俺に襲い掛かりそうだった狼が、唐突に横へ吹っ飛ぶ。顔を叩く風圧と、顔のそばで肉を強く叩きつける、激しい衝撃音が俺の目を開けさせる。


 目を開くと狼が坂を転げ落ちていき、途中木に何度も衝突していた。


 俺は唖然とその様子を眺めていた。すると白い影が視界に入り、びくりとする。

 



 助けてくれたのは人間、ではなかった。


 またしても巨躯の狼がそこにいた。しかし今度は二本足で立っていた。


 先ほどと違い灰色の姿は暗い森の中でもしっかりと浮かびあがり、輪郭がはっきりと見て取れた。

 全身を毛皮で覆われた人間、のようにも見えたが熱を吐き出すように白い煙を吐く口は、作りものではない獣のリアルさを示していた。


 目はやはり俺を熱のない視線で見下ろしており、俺は新手の敵の出現に息を飲み、強く枝を握りこむ。


 もうなんなんこの森、狼多すぎる!狼って、二本足で歩くんかっ!

 内心パニックを起こした俺は、自分の不運と、初めてみる狼以上の怪物の出現にもういっぱいいっぱいになってしまていた。


 二本足の灰狼は俺から視線をそらし、体制を整え再度向かってきた四本足の狼に向かい合う。

 

 高く跳躍して灰狼に飛び掛かる四本足の狼だったが、灰狼が正面から鋭い爪を持つ、人に似た長い爪の生えた手で狼の横っ面を張り手で吹っ飛ばす。

 吹っ飛んでいった狼は、キャインというなんとも哀れげな悲鳴を上げ、雪を跳ね上げて転がっていき、木に衝突して木に積もっていた雪がその姿を埋める。


 あっけにとられて見ていると、二本足の灰狼は振り切った腕の勢いそのままに走っていき、雪に埋まった狼に飛びつき鋭い牙を突き立てていた。

 狼の悲痛な悲鳴が長く喉からこぼれ、小さくなって、消えた。


 再び立ち上がった二本足の狼は、血に濡れた口をそのままに俺に向けた。


 動くことも出来ず、寒さと恐怖に震えながらも固唾を飲んで見ていた俺も後じさり、背後にあった木の根元に縮こまっていた。

 俺は灰狼を見つめる。


 自分も、四本足の狼と同じように、真っ赤な血に濡れるのを幻視した。



 灰狼に二本の足で近寄ってこられて、俺はさらに後じさる。

 木に退路を阻まれ、俺は重い腕を持ち上げて、握りしめた枝を狼に向けた。


 二本足の狼は立ち止まり、じっと俺を見つめてきた。そして首をわずかに傾け、まさかの話しかけてきた。



「…フー、ジャパニーズ。フー、コトバ、ワカルカ。ヘルプ、。…タスケ、アゲル。」


 風が狭い隙間を抜けるような、かすれた聞き取りにくい声だったが、確かに片言の日本語だった。

 

 確かに、助け、とこの狼は言った。



「…しゃべった。」


 俺はそれだけ言うと、力が全身から抜けて崩れ落ち、そのまま気を失った。


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