オカルトなんてクソくらえっ! 2
※残酷描写あります。
段々と、靄がかかった意識が晴れていったのは、かなり経ってからだった。
俺の食事に混ぜられていた薬がだんだんと効かなくなっていったのだ。
俺は食事のタイミングを見計らっては脱走を企てた。
その度に何度も掴まり、殴られ、蹴られ、叩きのめされた。時にはほかの子供たちの前で見せしめのように痛めつけられた。しかし、俺はそんなことでめげるほど柔なやつではない。俺に伸びてくる男たちの手に噛みつき、手入れされずに伸びてギザギザの爪を立てて仕返しをする。俺の留飲は極わずかに下がったが、男たちの苛立ちは高まったようで、俺が受ける暴力はさらにひどくなった。
薬が効かなくなり、脱走ばかりし、あまりにも暴れる俺はベッドに拘束されるようになり、食事も満足に与えられず衰弱していった。
意識が朦朧としてきたころ、白衣の男たちが俺の元に集まり、これまで見たこともないほど大きな注射針を俺に刺す夢を見た。刺されてから、あまりにひどい痛みに夢でなかったと知り、縛られているにも関わらず叫び暴れ倒した。
俺はそれから熱を出し、何日たったか分からないくらい寝込み続けた。
息が出来ないほど苦しくて、体は沸騰しているように熱いのに、手足は千切れるかと思うほど冷たくて寒かった。頭は寺の鐘にいたずらしたときのように、ひどい耳鳴りと芯が痺れるような痛みにずっとうめいていた。
全身を刺されているかと思うほど痛みが走り続けて、声が枯れても痛みに叫んだ。
注射針が全身を貫く幻が何度も見えた。
箱に入れられたときよりもひどい状況に、本気で死ぬと何度も思った。
俺は朦朧とした意識の中、幾度となく弟が熱を出す姿を思い出していた。
俺の弟は、寝込む度にこんな苦痛を感じていたのかと思うと、悔しくて、悲しくて、知らずに涙を流した。
両親に介抱されている弟がうらやましくて、何度も妬ましく思っていたことを後悔した。
そして、自分には両親がついていてくれないことが、誰も手を握ってくれない現実が寂しくて、つらくて、ただひたすら人恋しかった。
夢うつつ、いつか弟と再会することが出来たなら、今度はちゃんと優しくしてやろうと、うらやましがったりなんて絶対しないと、何度も心に誓った。
だから生かしてください、死にたくないと、見たことも信じたこともない、誰とも知れない神様に必死で願った。
願いが叶ったのか、俺は死ぬことはなかった。
死にそうな思いは何度もしたが、俺は生きて目を覚ますことができた。
熱が下がり、起き上がれるようになると、繋がれていた点滴の管に気づいた。白衣たちは俺の様子にやや驚いた様子ではあったものの、すぐにそれもいつも通りの態度に戻り、点滴は外され動けるようになれば、腕が自由に動かせなくなるような拘束服を着せられた。
そこまで拘束されてから小さな部屋から出された。
小さな機械を体につけられ、大きな機械に何度も通され、ベッドに括り付けられライトに照らされ、血を抜かれ、何かを注射された。
薬が効かなくなっていた俺は、拘束服がなければ注射が嫌で暴れ倒していたことだろう。白衣を着た男たちは数人がかりで俺を押さえつけてきて、本当に腹が立った。
どんだけこいつらは注射が好きなんだ、それだけ好きなら自分たちに刺せよ、と俺は伝わらない日本語で唯一自由な口でわめき続けた。
熱を出す前と、少しだけ状況が変わった。
元の小さな部屋ではなく、子供たちが何人も入れられている部屋に通されたのだ。
俺は脱獄常習犯なので、拘束服は着せられたままだった。
子供たちは大人しいやつらばかりで、俺は拘束されているからか他の子たちより小さいからか、子供たちからさえも可愛そうな目を向けられた。
子供たちは俺を哀れみつつも、拘束されているせいで動けない俺を気にしてか、小さい俺を思いやってか分からないが、同じ子供の手で甲斐甲斐しく世話をされた。
子供たちの人種はみんなバラバラで、話す言葉もみんな違っていた。
言葉は交わしているが意思疎通できている様子はなかった。ほとんどは簡単なジェスチャーでやりとりしているようだった。
日本人というよりアジア系なのは俺だけのようで、みんな何をしゃべっているのか分からなかったが、言葉はお互いがあまりよく分からないらしいということはすぐに分かった。
ただ拘束されているせいでジェスチャーもできない俺は、子供たちに世話をされるがままだった。
部屋の子供たちはみんな、子供にしては俺より背が高く、病的に白く、細かった。男の子も女の子もいて、みんな協力して生活しているようだった。
自分たちでシーツを変えたり、食事を配ったりしていた。配給される服を自分たちで洗濯したり、こっそり手に入れたやすりのような鉄棒で順番に爪を削ったり、冷たい水で励まし合いながら体を拭い合ったりしていた。
俺はみんなの中で本当に一番小さかった。
しかも拘束されていて、同じ子供に世話を焼かれて、俺のちっぽけなプライドがへし折れそうになっていた。
食事もトイレも、人の世話にならないと出来ないので仕方ないとは言え、本来ならもうすぐ思春期に差し掛かるお年ごろな俺は悔しくて、歯がゆくて、いたたまれなかった。
なんとかして拘束服を脱ごうと、錆びついた格子を見つけては必死でこすりつけ、破こうと頑張った。他の子供たちに脱がしてほしいと訴えかけ、服に噛みついてみたり、必死で服の中でみんなと同じようにジェスチャーをしてみた。
その思いが伝わったかどうか分からないが、子供たちは拘束服を引っ張ったり、ほどけはしないか探ってはくれたが、丈夫な生地を破く力を持たない彼らは、最後は悲しそうな顔をして首を振るだけだった。
俺だけは諦めるものかとイラついては必死に暴れてみたが、どうやら監視についている大人たちにうるさがられ、殴られては拘束をきつく縛められることを繰り返して、他の子供たちを不安にさせていた。
結局世話をされる以外、部屋を移される前とさほどなにも変わらなかった。
食事の後、毎回子供はみんなうつろな目になり、列を作って白衣たちが誘導する部屋へと入っていく。
俺は毎度毎度抵抗し、ほかの子供たちにも抵抗するように呼び掛け、体当たりしたり、列を破って逃げたりした。
結局捕まっては殴られて、生傷の絶えない俺を子供たちは朝が来るたび、泣きそうな顔で飲み水として用意された水で傷を洗い、拭ってくれた。
そんな毎日が続いて、俺は子供たちが段々減っていることに気づいた。
気づいたからといって何が出来るわけでもなく、年長の少年にいなくなったベッドを示すと悲しそうな目をして首を振られた。
拘束されている身では、大したことはなにも出来なかった。
昨日まで世話をしてくれた小麦色の肌をした少女がいなくなった日、俺は大声をあげて慟哭した。名前も知らない少女だったが、俺に優しい笑顔をむけ頭を撫でてくれていた。傷を作ったり、拘束を破れなくて憤っている俺を、困った顔をしながらも小さな手で一生懸命世話してくれていた。
確かに体調を崩していたようだが、朝目覚めたらもうベッドにはいなかった。
喪失感と悲しみと、こんな状況に追いやった大人たちへの恨みと憎しみで、ぐちゃぐちゃになった俺は胸の内を吐き出すかのように声を出して泣いた。
子供たちはあまり感情を示すことがなかったが、俺のあげる慟哭につられてすすり泣くようになった。
結局泣いている声がうるさかったのか、怒鳴りこんでくる大人に突進する俺が殴られ、子供たちは聞こえるように泣くことはなくなった。俺は悔しさをぐっとこらえ、歯がゆさを押し込めて耐えるしかなかった。
ここで暮らしを続けていると、子供たちが減ることを知った。
生きて無事に外へ出してもらっているなんて、到底考えられなかった。
それから雪が降った特に寒かった日の朝、子供が三人、ベッドから起きなかったのを見つけてしまった。
目を覚まさなかった子供たちはシーツごと、手荒に大人たちに持ち出され、その後どうなったか分からなかった。
片言でも日本語の話せる大人を見つけては必死で食い下がってみたが、運び出された子供の行方を知ることは出来なかった。
ここにいては殺される。
他の子供たちにどれだけ訴えてみても、大人たちに顔の形が歪むまで食いついてみても、どれだけ隙を見て逃げ出そうとしても駄目だった。
それでも俺は諦めなかった。絶対に逃げ出す、生き延びる、故郷に帰る、それだけ考えて続けていた。そう考えていないと、俺自身壊れてしまいそうで嫌だった。
俺の暴れようにさすがに手を焼いたらしい白衣たちは、とうとう子供たちから俺を引き離し、窓もない、狭く、暗い別室の黴臭いベッドにくくりつけた。
部屋から連れていかれる俺を子供たちも悔しそうに見ていた。
俺は彼らの目に諦めの中に、俺に対する期待と、苦しそうな悔しさをにじませた色を見た。あいつらもきっと諦めたいわけじゃない、それに気づけただけ、俺のこの抵抗も無駄じゃなかったのだとうかがい知れた。
なんの希望もなかったが、それでもわずかでも俺の気持ちの救いにはなった。
何か、きっかけさえあれば。
だが、口枷もはめられてしまった。叫んでも無駄だと分かり、俺は拘束された体を必死で動かした。肌が擦り切れて、血がにじんでいるのが見えないのに分かった。自分の体から漂い始めた血の匂いに辟易した。
暴れ疲れた俺がようやく大人しくなってベッドで横になっていると、小さな声が聞こえた。
言葉は分からなかったが、少女の声だった。
俺は俺の前から消えた小麦色の肌のあの少女かと思い、俺は口枷のはめられた口で伝わらないとは思いつつも、必死で話しかけた。もごもごしか言えなかったが、ここに俺がいることが伝わってほしいと必死に呼びかけ続けた。
しかして、俺の声が聞こえたらしい少女の答えるような反応が感じられた。
強く、意思のはっきりした少女の声に俺はうれしくなった。
なんていっているのか言葉は全く分からなかったが、少女の声だけでも感じられるその存在には、俺はとても勇気づけられた。
俺は元の部屋へ戻されなかった。
再び個室に入れられた俺は、少女の細い声だけをただひたすら聞いていた。
意味は分からなかったが、俺たちは声をひたすら掛け合っていた。
俺の声はうーうー、もがもがとしかならなかったはずだが、伝えたい気持ちはここから逃げよう、いつか家に帰るんだ、白衣たちに仕返ししてやる、子供たちも家に帰してやろう、そう伝わるように。俺は少女が聞こえるように口枷を嵌められた口で、大声で呼びかけ続けた。
ベッドに拘束されても、口枷をはめられても叫び暴れ続ける俺に、監視を担当しているらしい白衣を着ていない男が怒鳴りながら現れた。
怒鳴られても黙らなければ動けないのに殴られた。
反抗する意思をへし折ろうとしている男は、俺を殴り続けた。途中男の顔が笑っているのを見て、子供を殴って楽しんでいるのだと気づいた。それからは絶対にへし折れてやるものかと思った。
反抗をやめなければ殴られ続け、全身に渡る痛みと、仕返しも許されない。拘束されたみじめで、無力な自分が悔しくて、暴力を奮う男が憎くて、ただひたすら苦しかった。
それでも、ここでくじけては負けだと信じ、どれだけ怒鳴られようと、殴られようと、腫れて目が開かなくなるまで男を睨みつけ続けた。
気づいたことに、どれだけたくさん殴られても翌日にはけろりとしている自分がいた。
体中に痣や傷が出来ていたが、翌日には痣も傷も薄れ、痛みも消えていた。
代わりに毎日のように男が訪れ、傷の具合に気づいた男は思う存分暴力を振るうようになっていた。
ただのうっぷん晴らしか、男は気晴らしのように振るう暴力に、俺は憎しみを募らせていった。
俺はサンドバックじゃない。どれだけそう思っても、怒鳴ってみても、叫んでみても、動きは拘束されたまま、声も口枷がすべて吸収してしまった。もし、目に力が宿るなら暴力男の顔にはいくつもの穴が開いたことだろう。しかし現実はただ俺が殴られるだけだった。
俺だってただやられるわけではない。男が何度も大人の腕力で暴力を奮うせいで、ガタが来たベッドに気づいた。わずかな変化だったが、気づいてからは男に狙わせようとわざと怯えを見せたりしてみた。
誰も来ない時間に何度も体を揺らしてベッドに負荷をかけてみた。肩の関節が外れてしまいそうなほど痛んだ。それでも涙も声も我慢して耐えてそれを続けた。
どこからともなく聞こえる少女の声がなければ、途中諦めてしまいそうなほどつらい作業だったが、とうとう腕が拘束されているベッドヘッドが外れるほどベッドが揺れた。
伸びあがり、外れたベッドヘッドに手かけ、必死の思いで押し上げると、やっとの思いで手の拘束が外れた。俺は歓喜する胸の内を抑え込み、しばらく動かしていなかった腕をもみこみ、その時に備えた。
男が訪れそうな時間帯を見計らい、入ってくるタイミングで懇親の力を込めて扉にぶつかる。空いた隙間から男の足を扉に挟み、油断した隙に金的を食らわせ、出来うる限り仕返してやった。
男に対する憎しみに頭が熱くなってしまい、結局脱走できず、その倍くらい痛い目に負わされた。それでもわずかでもし返してやれたことに、してやられた男の顔に俺の憎しみは、ほんのわずか癒された。
結局再度受ける暴力に比例するように憎しみは大きくなっていったが。
少女の心配するような声だけが俺の正気を保たせてくれている気がしていた。
ある夜、大きな花火が打ちあがったときのような音と、全身を打ち付けるような衝撃が体を襲った。
どこか近くで爆発が起こったようで、片側の壁以外が崩れていた。
剥き出しになったギザギザの鉄骨がベッドの上、俺のギリギリのところに天井から落ちてきて刺さる。ベッドからずり落ちた俺は拘束された腕を鉄骨に必死でこすりつけ、拘束を破いた。
久しぶりに自由になった痺れた両手で、ベッドから身を起こし、わずかにふらつく足元を必死で立たせ、崩れた壁の隙間から体を滑り込ませ、壁の外へ抜け出す。
壁から抜けても部屋だった。ただし扉に鍵はかかっておらず、奥の部屋には大きな機械に囲まれ、たくさんのチューブに繋がれた人間が小さなベッドに横たわっているのを発見した。
それはあの日いなくなった小麦色の肌をした少女ではなく、真っ白な肌と髪をした、人形のような少女だった。
部屋を移されてから俺と話していたのは彼女だったのだと、俺は直感した。
少女は今まで見た中で最も白く、棒切れのように細かった。
目は開いているのに、本当に人形のガラス玉であるかのように動かない。
口からもチューブは伸びていて、しゃべれるような状況になかった。
本当に俺に話しかけ続けていた少女なのか、直感は彼女だと示すのに、少女が本当に生きているのか俺は分からなかった。
「お前が、俺に話しかけていたのか?」
俺は幽霊とでも話していたような気分になった。
それくらい、少女に生を感じなかった。俺は何も答えない少女をとりあえずおいて、部屋の中をあさることにした。
俺でも使えそうな武器を探した。見つけたのは太く長い針と、よく切れるメスだった。
手に取ると、何度も刺された記憶が俺の体を刺す。別に今は針など体に刺さってなどいないのに、幻の痛みが俺を襲うが、俺は歯を噛みしめて針を握りこんだ。メスも、拘束具として余っている紐で体に括り付けた。針は服のすそに縫い留めた。
いつもは見張りや、白衣が出入りしているはずの廊下もそっと覗いてみたが、今日は誰も見かけなかった。おそらく先ほどの爆発の原因を探っているのだろう、遠いが大人たちが騒いでる声がわずかに聞こえた。
俺は少女を一度見やり、ほかの子供たちを助けるために廊下をかけ出した。
走っていた廊下でずっと脱出の目星をつけていたダクトから子供たちを逃がす。混乱し、戸惑う様子が子供らに見られたが、必死で手を引き、全身で逃げるようにアピールした。先ほどの爆発で皆も今がチャンスだと気づいていたらしい。年長の子供は俺を見て覚悟を決めたようで、怖がる子を抱き上げては俺についてきてくれた。置いてかれるのが嫌でついてくる子や、何が起きているのか分かっていない子もいたが、誰も残さずついてきていた。
何度も脱走を図る度に、窓から外に繋がるダクトを確認してきた。ゴミを回収するのだろう、車が入ってくるところも見た。外に繋がる道があるはずだ。ダクトは小さく、細い子供たちしか通れない。大人たちの騒ぐ声は遠く、こちらの建物とは違う場所で叫んでいるようだった。逃げるには今しかない。
なんの爆発なのか知らないが混乱している今ならと思い、最後の少年をダクトに押し込むと、廊下の向こうに毎日俺に暴力を奮ったあの男の姿が見えた。暗い廊下にライトを照らす男のシルエットしか見えなかったが、俺は何度もそいつを食らい部屋で穴が開くほど睨みつけてきたのだ。見誤るはずがなかった。
ギラギラした目をする男と目が合うと、男は俺に向かって何事かを叫び、突進してきた。
俺も覚悟を決める。
俺はダクトには入らず、そのまま男に突き飛ばされた俺は、敗れた拘束服に止めておいた針を引き抜き、男の首元に突き立てた。本当はメスの方がよかったのだが、うまくつかめなった。
夜で暗く、青白い光の中で浮かび上がる男の形相に、さしもの俺も肝が冷えた。手汗で湿る手がメスを引き抜けず、それでも針がつかめたのは行幸だった。
衝撃に身構えていた俺は、男の生臭い息が吐き出される喉に突進の勢いを使って思い切り突き立ててやることに成功した。それでも俺の何倍もある男の体当たりは、トラックで轢かれたような衝撃が体を襲った。
体当たりを受けて転がる俺をそのまま追いかけてきては、追い打ちとばかりに蹴りを入れてくる。だが、俺も苦しい中迫ってくる男の足が見え、今度こそ掴んだメスを男の脛へと突き立ててやる。
男のくぐもった悲鳴に、自分でも知らずに口角が上がるがダメージは自分の方がずっときつい。もうこの体では、これ以上の反撃は出来ないと悟った。
針は既に抜いたのか首から溢れる血をだらだらと流し、メスが刺さった足を抱え痛みに悶える男から必死で距離を取る。
ダメージの一番強い腹部を押さえながら少女のいた部屋に転がり込み、慌てて鍵をかけるが追ってきた男に扉を体当たりされ、勢いよく開いた扉に壁まで俺は吹っ飛ばされてしまった。
壁に並んでいた瓶が割れ、ガラスが散らばる。背中や手足に刺さるガラスと、衝撃に痛む肩や背中が動かすのももうつらい。しかし襲い掛かってくる男が視界に入り、飛びそうになる意識を踏ん地張って耐え、手の中にあった割れたガラスを掴む。
拘束服を掴み上げられ、笑う男が視界に入った。針で血濡れになった体と、血で汚れた拳を振り上げるのが見えた。
この男はいつもこうやってつかみ上げて殴る。
俺は待った。このパターンはもう覚えている。
拳におびえる振りをする。男が俺の怖がる顔を見たくて手前に引き寄せる。俺の頭とそう変わらない拳が俺に届く前に、引き寄せられた男の喉に手に握ったガラスを突き上げてやる。皮膚を突き破る感触、意外に硬い喉の肉。
自分の手にもガラスが深く突き刺さるが、俺はもう痛みには慣れていた。
汚い悲鳴を上げ拳をほどいた男は、俺を叩きつけて刺さったガラスを抜こうとした。
男はガラスを引き抜き、大量の血を間欠的に吹きこぼす。床にうずくまる俺のすぐそばに、男が流した血が醜い模様を作る。鉄臭いその匂いを浴びるのが嫌でガラスの上を転がった。
男は俺を睨みながら喉を押さえ、口を動かす。何を言っているのか分からないはずなのに、恨み言を吐き出していると分かる。メスが刺さった足から崩れていくのを、床に這いつくばったまま俺は眺めていた。
肩をいつの間にか脱臼していたらしい俺は、体を引きづるようにしながら男に近寄り、確かに死んだことを確認してから息を吐いた。
人を殺してしまった事実が胸を突き刺す。
体の痛みよりも、ずっと痛い気がした。
けれども、男に対する恨みが、憎しみが、決して晴れたわけでもなく、どうしようもない感情が、まだ痛む腹の中で渦を巻いているように感じた。