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短編集

我が牢に在りて(新釈・チェーホフの『賭』)

作者: 孫 遼


「この世には、金より尊いものがあるですって? そんなのは金持ちの欺瞞だ」


 その若者は、銀行家を睨み付けると、挑戦的な態度で言葉を続けた。


「金こそすべて。それはこの社会における紛れもない真実です。あなたは十分に金を持っているから、そのようなことが言えるのだ」


 それを聞いた、銀行家はテーブルを叩いて激高した。


「無知な若者が何を言う。金と自由を天秤にかけることになったなら、君は五年とたたずに自由を選択することになるだろう」


 銀行家の挑発。それに若者は果敢に反論する。


「五年なんて大した年数ではありません。今この貧乏から脱出する為なら、十年でも、十五年でも、不自由に耐えてみせますよ」


「はっ。お聞きですか皆さん」


 銀行家は大げさに手を広げ、周囲を見渡して言った。


「この若者は金の為なら、十五年でも耐えると豪語している。ならば、賭けだ。若者よ」


 銀行家は、その若者を指さした。


「私が用意する一室で、十五年間一歩も外に出ることなく幽閉生活に耐え切ることができたなら、二百万ルーブルを君にやろう。その金を手にすれば一生遊んで暮らせる額だ。どうだ、この賭けに乗るか」


「望むところです。私は自由を賭け、あなたはお金を賭ける」


 こうして、その『賭』は始まった。


 銀行家は自らが持つ富を投じて、彼のための離れを用意した。


 若者は、その部屋の中で、一切の社会的つながりを断ち切られた。ほんの少しでも、部屋の外へ出ようと試みたり、他人と接触した場合には、その時点で若者は受け取るべき金を失うことになる、という契約書が取り交わされた。


 最初の一年、若者は孤独にさいなまれ、退屈しているかのように見えた。


 その一室からは狂ったように彼が所望したピアノの音が鳴り響き、ワインと煙草を欲する手紙が届けられた。


 ピアノの音がやむと、今度は知への渇望が待っていた。彼は書物を求めた。


 その差し入れを要求する異常なほどの書物のリストに目を通しながら、銀行家は内心で快哉を叫んでいた。


 ――いい気味だ。外界とのつながりを絶たれた若き人間が、正常に精神を保つことなどできるはずがない。


 しかし銀行家の意に反し若者は耐えた。


 六百冊以上もの脈絡のない本を読み漁り、独学で言語を会得したらしき彼は、自ら書いた手紙を小窓から外界に届けさせ、その内容に不備がないことを確認させた。


『この手紙は六つの言語で書かれています。これを専門家に見せて、一つの間違いもなければ、庭で銃を発砲してください』


 その日、銀行家の命令によって、二発の銃が庭で発砲された。


 それは、彼が複数の言語と書物の探究によって知り得た真理が、ひとつの高みに到達したことを示していた。


 十年目を迎えた年、彼は一切の書物を求めることをやめ、ただ聖書だけを読むことに没頭した。


 一年後、その書物は神学や宗教学に置き換わりはしたが、若者はひたすら読書の海を泳ぎ続けた。


 やがて銀行家は考えるようになった。


 ――彼は知の探究の果てに何を思うのだろう。


 それは若者がかつて彼に指摘する通り、金だけで人生を渡ってきた彼に芽生えた初めての人への関心だった。


 やがて賭の終了まで残り一年というときになって、彼は自分の内なる心の声に気づく。


 ――かの若者に会いたい。


 かつて彼の前に立ちふさがった、若々しく、そして前途多望な才気あふれる若者を、あの部屋から『今』連れ出し、彼と言葉を交わすことが可能ならば、これまで彼が手腕で稼いできた富をすべて投じても構わないと彼は思った。


 しかし銀行家が希望を胸に、若者の幽閉された部屋の前に立ったとき、彼はなすすべなくその場に凍り付いた。


 おそらくこちらに背を向けながら読書にふけっているであろう、若者の姿を想像した時彼は思い出したのだ。


 ――この賭けにおいては、誰とも接触を試みてはならない。


 自ら若者に課したルールによって、銀行家の望みは絶たれた。


 当然その場で負けを宣言し、彼のことを部屋から強制的に引きずりだすこともできた。しかし彼の個人的な理由で、この賭けを放棄したと知った若者はどんな顔をすることだろう。


 ――彼は私を軽蔑しながら金を受け取り、この場を去るに違いない。


 銀行家はそのことを思うと、その部屋を開ける勇気を持てなかった。


 せめて若者が読んできた書籍の足跡を追いながら、彼の思想を少しでも知ろうとしたが、彼の読んだ書物たちに、その解を求めることはできなかった。


 そして再会の日まで残り一日と迫ったその日、彼は自分の欲望に負けた。


 ――今こそ、語り合おう。十五年もの間、君が何を思い、何を成そうとしたのかを。


 それは彼にとって敗北を意味した。


 ――もしそれが叶わないのならば、私は……


 彼は金庫から封印されていた鍵を取り出し、十五年間、一度も開くことのなかった扉の前に立つと高鳴る鼓動を抑えながら小窓を覗いた。


 ろうそくの明かりがちらちらと灯り、浮かび上がったテーブルに座った姿勢の男はぴくりとも動かない。


 銀行家は手に持っていた鍵で扉の封印を開き、中に押し進んだ。


 その若者は深く眠っていたが、彼の容姿は十五年の時を経て年齢をはるかに上回る老人のように変化していた。


 さらに卓上には彼のものらしき一枚のメモが置かれていた。


「私は二百万ルーブルを受け取る自らの権利を放棄します」


 それを見た銀行家はその紙を卓上に戻すと、目の前の男の皺だらけの額に口づけた。


 十五年の時を経て、銀行家には二百万ルーブルを支払う資産は残されていなかったのだ。


 若者、いや、すでに若者とは呼べないほどに歳をとった彼は、そのことを知りえるはずもない。



 彼らはその後、どうなったのか。


 この『賭』のゆくえを知るものは、誰もいない。


 ただそこにあるのは、若者が知性の高みに達したあの日と同じ二発の銃声が、庭にとどろいたという事実だけである。

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