第116話:ビルド・フォン・カルストと三従士(前編)
それから1週間、割と何事もなく時間は進む。
街での変死事件は、頻度こそ下がったものの無くなってはいない。
それと反比例して仮面を付けた怪しい男の目撃例が、噂になってきている。
クロウニさんだ。
彼には過去にベントレーを唆したクーデル・フォン・エントーヤをはじめとした邪神教の人間達を付けている。
活動する時以外は彼等に匿われているが、それでも街を仮面の男が歩き回るのは怪しさ満点。
この間なんか衛兵の人に職質を受けたらしく、かなり焦ったとのこと。
それでも捜査は難航しているらしく、悪魔が1体ではなく複数いるという事までしか分かっていないらしい。
そんな中、校舎の外で奇妙な集団を見かける。
先日リコたちに絡んでいたビルドを中心とした貴族の集団。
高等科から初等科の子供達まで年齢は様々。
取り巻きは8人くらいか?
一見楽しそうに見えるが、浮かべている笑みに対して目が冷めている。
まるで、笑顔の仮面を被っているかのようだ。
「やあ、マルコ君じゃないか」
「こんにちわビルド先輩。何やら楽しそうですね?」
「分かるかい? こんなにも幅広い友達が増えてね、毎日新しい発見があって楽しくて仕方が無いんだよ! アッハッハッハ!」
「なるほど、それは良い事だと思います」
彼の場合は心底、面白いといったようすの笑みだ。
まるでツボにはまった人間のように、ケタケタと声をあげて笑っている。
この状況に似合わない哄笑が、逆に不気味に見える。
僕の表情を見たビルドが、ピタリと笑い声を止める。
「ふむ……ここは、笑うところでは無かったか。なかなかに難しいものだ」
「えっ?」
「いや、そうだ! 君にも是非仲間に加わってもらいたいんだけど、今度の土曜日とか予定は空いているかな?」
「えっと……その日は、先約がありまして」
「それは残念だ」
嘘だ。
予定なんか入っていないけど、あきらかにこの人とお近づきになるのは宜しくないと脳内で、全力で警鐘が鳴り響いている。
咄嗟についた嘘に対して、表情を変えずに残念というビルドが本当に人なのかすら怪しく思えてくる。
それから不意に顔を近づけてきた。
「君は……平気で嘘を吐く悪い子なんだね」
身構えた僕の耳元で囁かれた言葉……その声はゾッとするほど冷たかった。
思わず距離を取る。
「本当に残念だよ。さっ、皆行こうか? 今日は、これからめいっぱい楽しい事をしよう」
「はいっ!」
それだけ言うと僕の肩をポンポンと叩いて、通り過ぎていくビルド。
その彼に追従するかのように、他の生徒たちが付き従って歩いている姿はまるで王のように見える。
「あの人、本当に人間なのかな?」
その後ろ姿を見て、率直な感想が口から漏れでてしまった。
小さく呟いた声が聞こえるはずはない距離なのに、視線の先の集団がこちらを振り返ってジッと見つめて来た。
感情を灯さない18の瞳に見つめられ、背筋に嫌な汗が流れ思わず息を止める。
すぐに興味を失ったビルドが踵を返すと、全員がその後をついて去っていった。
肺に溜まった空気を一気に吐き出すと、全身が汗でびっしょりと濡れている事に気付く。
あいつは駄目だ……危なすぎる。
直観的に蜂を数匹つけようとして、思いとどまる。
バレたらいかに強化した蜂とはいえ、ただでは済まないかもしれない。
そして、その背後に僕が居る事もバレてしまうだろう。
あいつが何者かで何かを企んでいるか分からないし、そもそも勝手な言い掛かりレベルの憶測でしかない。
ただどうしても、あいつが今回の事件に関わっているような気がしてしかたない。
文字通り尻尾を出すまで、大人しく警戒するしか出来そうにない。
――――――
「ふふふ、良い表情だ……何か感じていてくれているようで嬉しいですね」
「良かったのですか? あのまま放っておいて」
「構いませんよ、どうせ大した力もありそうに無いですし。ただ、両手はちょっと興味深いオーラを纏っていましたが……それだけですね。人としては凡庸な人間です」
「ベルモントですよ?」
「まあ、それでも彼自身は普通でしたね」
とくに目的があるわけでもなく、それでいてしっかりとした足取りで進むビルドに対して取り巻きの1人がマルコに対して警戒を促していたが彼はそれを聞くつもりはないらしい。
「いまは、障害になりえませんよ……そうですね? ここは敢えて猫の尾を踏んでみるのも面白いかな……あんなのが、あの方の良い人だなんて信じられませんし」
「あの方?」
「フフフ、貴方達が知る必要はありません」
「申し訳ありません。出過ぎた真似を」
「構いませんよ」
すでにビルドの目には取り巻きの姿は映っていない。
退屈な日々に、そろそろ刺激が欲しいくらいに思っている。
そのために、マルコで遊んでみるのも悪くない。
そんな事を考えて、目を閉じて顎に手を当てて首を捻り……しばらくして、笑みを浮かべる。
「そうですね、リコと言いましたっけ? あの子、なかなか使えそうですね」
「リコですか?」
「ええ、彼女とマルコ君は仲があまり宜しく無さそうですからね。リコさんに色々と動いて貰いましょうか」
――――――
「マルコ!」
「カール?」
その2日後、教室を出ると焦った表情のカールが立っていた。
「どうしたんだい?」
「リコが! ビルド先輩に連れていかれた」
「えっ? 何の用事で?」
「分からないけど、僕だけあの人の取り巻きに引き離されて、気が付いたらリコとビルド先輩が一緒に歩いて行って」
色々と分からない。
リコがビルド先輩と一緒に行ったことで、なにをカールが焦っているのかが分からない。
そして、それをなんで僕に伝えに来たのかも。
「リコの表情……怯えてた」
「なんで、すぐに追いかけなかったの?」
「ずっと捕まえられてて……放されてすぐに追いかけたけどもう姿が」
「先生たちは何をしてたんだ!」
「何故か、その時に限って誰も通りかからなくて」
どうやら念入りに準備をして、リコを連れて行ったのだろう。
予想より動きが早すぎる。
いや、でもカールが僕に伝えにくるのなんて不確定要素だし。
ということは、純粋にリコに用事があっただけ?
情報が少なすぎて、分からない。
「で、その話をなんで僕に?」
「ソフィアお姉さま達が言ってた……クラスメイトに何かあると必ず駆け付けて助けてくれるって」
「そんな大した力は持ってないよ」
「確かに俺達はお前に意地悪したけど……でも、お前ならリコを助けられるんだろ?」
不安そうな瞳が涙を浮かべて、揺れている。
色々と残念な子供ではあるが、双子の片割れを思う気持ちは本物だ。
助けてあげても良い。
けど、本当に助けが必要ならという事になるんだけどね。
「なんでリコを助けにいかないといけないの?」
「うっ……」
「あー、勘違いしないで? 今のカールの話だけじゃ、リコを助けにいく理由が分からないんだ。別に殴られたりしたわけじゃないんでしょ? それに話の内容を聞いていた訳でもないよね?」
「あー……うん」
「早とちりとかってことは? 君を足止めにしてリコにだけ話したい内容に心当たりは?」
「無い……けどリコが俺にくるなって手を振ってた」
うん、うん?
「リコは本当はとても臆病で怖がりなんだ」
「そうは、見えないけど」
「だから、その気持ちがバレないようにいつも強がって、思ってもいないことばかり口にするんだよ」
なんて面倒くさい……いや、子供なんてそんなものか。
ある意味でカールと一緒の子供らしさともいえる。
「マルコの事だって本当は嫌いじゃないんだけど……ソフィアお姉さまと仲の良いマルコとあいつだって仲良くしたいんだよ」
「もう一度いうけど、そうは見えないけど?」
「うう……だから、友達もあまりいないし、俺や小さい頃から相手をしてくれていたソフィアお姉さまと、その親友のエマお姉さまくらいにしか素直じゃないし……そのくせ、寂しがり屋で」
そう言ってカールの目から大粒の涙がポロポロと溢れ始める。
「頼むよ……探してくれるだけで良いから……きっと今頃、怖い思いしてるはず」
「ふう……」
「リコがくるなって俺に手を振ったってことは、来てってことなんだ……でも、俺じゃ見つけられなくて……今までのこと謝るから、リコの分も謝るから……ごべんなざい……おねがい……リコをだずげてよぉ……」
「本当に心配なんだね? 分かったよ……じゃあ取り敢えず、どんなお話をしているかちょっと聞いてみようかな?」
とうとうその場に座り込んで、僕のズボンにすがりつくカールを見て何故か心が痛む。
リコを心配するカールを見て、僕の心にも不安と焦燥、そしてイライラが募ってくる。
ビルドが何をしているか分からないし、普通に会話をしているだけかもしれない。
でも、強引な方法でカールやリコに不安な思いを抱かせた事は面白くないな。
カールの頭をポンポンと優しく撫でると、その場から駆け出す。
思い当たる場所は全くないけど。
蜂達や蟻達に命令する。
「リコを探して! 全力でお願い!」
「はっ!」
一匹の蜂が返事をすると、一斉に虫達が動き出すのを感じる。
さてと、カールの早とちりだったらちょっとだけ釘を刺さないと。
でも、先輩に対して生意気だとか思われたり。
「主! ビルドはリコを連れて外れにある廃屋の1つに向かったようです、明らかにこれは主を誘った罠だと思われますが」
「そうか、ありがとう!」
「主? マサキ様に報告しなくても?」
「良い、どうせ何かあったらバレるし、僕が助ける!」
そう言って、マルコは足に目いっぱい力を込めて地面を踏み抜くと、学校の門に飛び乗りそこから建物の屋根に飛び移る。
右手で狐の仮面を取り出すと、顔につける。
それから、ローブを羽織って屋根伝いに移動する。
目的地に向かって一直線に。
――――――
「何をしてるのですか、そんなところで?」
時を同じくして、人気の無い路地で陰に向かって話しかけるジャッカス。
「えっ? いえ、何も……何かあっしに用ですかい?」
「貴方じゃありませんよ、それよりも死にたくなかったら早く逃げた方が良いですよ?」
「はえっ?」
たまたまそこに居た浮浪者がジャッカスの問いかけに慌てて手を顔の前で振っているが、ジャッカスが見ているのはその男のさらに背後。
壁に向かって突き刺さるように鋭い視線を送る。
「見つかっちゃったかあ……なかなか、人間にも優秀な人が居るんだね」
「えっ? うわっ! わああああ! 悪魔!」
「うるさいなあ……あれ?」
そこから現れた少年ほどの背丈しかない人物を見て、浮浪者が声を上げて尻もちをつく。
現れた人物は3本の角を持ち、全身が真黒だ。
金色の瞳と、真っ赤な口を持つ……一言でいえばまさに悪魔と呼ばれるに相応しい様相。
叫び声をあげてもがく浮浪者の様子を五月蠅そうに見つめると、不意に悪魔の右手が動く。
浮浪者に向かって爪を伸ばしながら放たれる突き。
だがその手が浮浪者に届くより一瞬早く、長いものがジャッカスの手から伸びて浮浪者を回収し後ろに放り投げる。
鞘を着けたままの、彼の剣だ。
「早く、逃げなさい」
「わっ……分かった! 助けを呼んでくる!」
「余計な事はしなくても良いですよ、逃げるだけで十分です?」
「えっ? あっ、分かったよ……そうさせてもらう」
目の前の悪魔から視線を一切外すことなく、浮浪者に逃げるように促す。
一瞬悪魔の目が怪しく光る。
直後背後から、ジャッカスが不穏な動きを感じる。
「あんたを殺してからな!」
後ろにかばった浮浪者からのまさかの不意打ち。
さっきまで怯えていた浮浪者は、その表情を消し青白い顔をしたまま笑みを張り付けてナイフを向けて突っ込んでくる。
通常の冒険者であれば確実にそちらの対応に追われ、悪魔から一瞬とはいえ目を逸らすだろう。
だが、ジャッカスは違う。
彼は振り返ることなく左手の手甲でナイフを弾き、男を吹き飛ばす。
壁に激しく打ち付けられた男が、そのまま地面にへたりこむ。
意識は完全に失っているようだ。
「へえ……よく分かったね」
「恐怖に囚われた人間を操るなんて、悪魔にとっては他愛もないことでは?」
「良く知ってるね。それにしても罪の無い人間を簡単に殴るとか、君も案外悪だね?」
そう言いながらニヤニヤと笑みを浮かべる悪魔に対して、ジャッカスは表情を変えることなく後ろに向かって剣を振るう。
目の前の悪魔が驚愕の表情を浮かべた直後、顔を苦痛に歪めジャッカスを睨み付ける。
「グッ! キサマ!」
「喋りながら不意打ちを仕掛けるような人には言われたくないですね。そもそも悪とは貴方達、悪魔の専売特許でしょうに」
見ると目の前の悪魔の尻尾が、地面に落とされた影の中に沈み込んでいる。
そして、ジャッカスの後ろではピチピチと地面を叩く切り落とされた尻尾。
正面から対峙して自分の尻尾を隠し、その実、尻尾の先だけ影の中を移動して背後からの不意打ち。
だがジャッカスの目は2つじゃない。
両手にも2つずつ、さらにあちこちに飛び交う蜂達という目がある。
彼に不意打ちを仕掛けるのは、ほぼほぼ不可能に近い。
そもそも、彼の手甲は自動迎撃まで兼ね備えているのだ。
加えて、本人も攻撃の際の空気の揺らぎや、殺気といった気配に敏感になっている。
失われた尻尾の先を見つめていた悪魔が、ジャッカスを睨み付ける。
「ジャッカスです……」
「あん?」
「あなたを殺す者の名ですよ。冥途の土産にどうぞ」
「チッ!」
ジャッカスの振るった剣にただならぬ殺気を感じた悪魔が思わず後ろに跳び退る。
「えっ?」
そして感じる違和感。
着地と同時に足がまるで、虎ばさみにでも挟まれたかのような痛み。
そして灼熱の炎に焼かれるような激痛が彼に襲いかかる。
「なっ! 何が!」
痛みが下からゆっくりと、徐々に上って来る。
その場から離れようとするも、足枷がはめられたかのように動かすことが出来ない。
そして、下に向けた視線の先には真っ白な蟻が自分の下半身に群がっている。
「なっ! なんだ! お前ら! はっ、離せ! ギャアアアア! 熱い! あづいいいいいいい!」
腹を食い破られ、下半身を消滅させられ胸から上だけが、その場にポトリと落ちる。
羽も食いちぎられ、飛んで逃げる事も敵わない。
「くそがぁっ! 汚いぞ!」
「おやおや、どの口が言うのですか? それに……さっきまではそのつもりだったんですよ? ただ、物欲しそうな彼等を見て気が変わっただけですよ」
「グウウウ」
「まあ、騙される悪魔が間抜けなんですよ……人を騙す事は得意そうですけどね? 取りあえず情報を収集したいところですが他も始まったようですし、このまま拘束させてもらいましょうか」
蟻達が悪魔を取り囲んで、結界を張る。
逃げ出さないように聖属性で。
そして……そのまま地面の石畳を顎で砕いて持ち上げると、人目のつかないところへと運び始める。
「中々に奇妙な絵ですね」
結界に閉じ込められて床ごと運びだされる、上半身だけの悪魔。
きっと目撃した人が居たらならば、悲鳴をあげることは間違い無いだろう。
――――――
「私は戦いは得意じゃないのですがね」
「なにが、得意じゃねーだ! これでも俺はアークデーモンだぞ!」
「ふむ……ようは悪魔でしょ?」
同じころクロウニも、他の悪魔と対峙していた。
結局クロウニの剣はそこまで成長することは無かった。
があくまでベルモント基準。
彼自身も自分より遥かに強い存在に囲まれて、自分の成長を分かって無かった。
悪魔の突きをどうにか剣で防いでいる。
そう、どうにか剣で防げているのだ。
強靭な肉体と、驚異的なスピードを誇り、魔力を乗せた一撃を放ってくる上位の悪魔。
アークデーモンの攻撃を。
悪魔である彼自身、人の頭など簡単に吹き飛ばすくらいの自信はある。
人間にぶつければ、防御しても吹き飛んでいくだろう。
そう思っていた。
が目の前の男は地面に足が沈むくらいに強く踏み込んで、両手とはいえその一撃を受け止めて……顔を歪める程度。
その身体は、揺るぎもしない。
なんの冗談だというのだ。
そのうえ、当の本人は自分が戦いが苦手などとほざいている。
いや、本気でそう思っているのが分かる。
もし、目の前の男が人間の中では本当に戦いが苦手な部類なら、本職が出てきたら自分なんて簡単に倒されてしまう。
今まで、そんな異常なことはない。
冷や汗をかく事もあったが、決して危機感を覚える事は無かった。
だが、今回は違う。
戦いが長引くほどに、得体のしれない恐怖がジワジワと沸き上がって来る。
攻めているのは自分だ。
相手は防ぐだけで精いっぱい。
疲労だって溜まっているはず。
だというのに、攻撃が当たらない。
魔法に到っては、放った瞬間にどこからか飛んでくる魔法に相殺される。
「何が……なんで、まだ立ってられるんだよ! クソがっ!」
「さあ? もしかして貴方……そんなに強くないんじゃないでしょうか?」
「んなわけあるか! 俺は……俺はただの悪魔じゃ無いんだぞ! 恐怖をバラまくアークデーモンなんだぞ! こんな馬鹿な事が」
顔が真っ赤になっているかのような錯覚すら受ける。
が、次の瞬間に悪魔が表情を消す。
このまま相手のペースに乗せられる事が、いかに危ういかに思い至ったのだろう。
故に、強引に冷静さを取り戻した。
自身の拳を、血が出るほどに強く握り。
その表情にもはや弱者を見下す嘲りや、油断は微塵もない。
悪戯に災厄を生むものが、本気で挑む気構えをようやく持つ。
「フフフ……そうだな。お前は強い」
「いえ、私は弱いですよ? 少なくとも私が住む場所では最弱です」
「……」
身も蓋も無い。
だが、クロウニの言葉に嘘偽りはない。
嘘に対して敏感な悪魔だからこそ、その事実に戦慄が走る。
そして何がおかしいのか、悪魔が大声で笑い始める。
「ハッハッハ! お前が住んでるところは地獄か何かか?」
「いえ、天国に最も近い場所かと」
「へっ、まさか人間如きにこれを使うことになるとはな」
「そういうのは、最初に使うものですよ?」
「口の減らねー野郎だっ」
瞬間、目の前の悪魔の口に魔力とは違った力の奔流を感じる。
「なっ!」
そして放たれる闇の一閃。
真っすぐと放たれたそれが、クロウニの腹部に直撃し……孔を穿つ。
「ぐっ……」
遅れて自分の腹部に視線を送り、目を見開くクロウニ。
「ゴホッ」
口から溢れ出る大量の吐血。
ゴポゴポと口の中の血だまりから、息が泡となって湧きたつ。
「ざまーねーな! 手こずらせやがって! だが、油断しす……ぎ?」
そこまで言ったところで、悪魔が固まる。
プルプルと身を震わせ、クロウニを指さして口をアワアワと動かす。
「なんだよそれ……きたねーぞ」
数匹の蝶がクロウニの周りを取り囲んだかと思うと、彼は何事も無かったかのように完全に穴が塞がっているお腹を軽くさする。
「なかなかに素敵な一撃ですね。あっ、私の師匠方はかなり厳しくてですね」
「くそが、もう一度くらいやがれ!」
油断ならない悪魔から、口上中に再度放たれたそれ。
上位悪魔の固有スキルの1つ【闇の咆哮】。
闇の力を集中させ、一点にぶつけることでそこにある存在を抹消する一撃。
点での攻撃であるため、致命打を与えるのは難しいが。
破壊という1点においては、驚異的な威力を誇る。
「ぐっ」
それを横っ飛びに躱すが、またも脇腹に穴が開く。
そこから血が溢れ出るが、今回は口からの吐血は無い。
そして、すぐに治療が施される。
「ふざけるな! ズルいじゃねーか」
「そう思いますか? いえ、まあ細かい事は気にせずどんどん撃ってきてください! ここと、ここに当てれば回復する間も無いと思いますし」
そう言いながら頭と心臓を指で順番に刺すクロウニ。
わけのわからない状況に陥ったことで、悪魔が恐怖を覚える。
恐怖を与えるはずの上級悪魔が矮小な存在である人に。
「望み通り殺してやるぜ!」
そして焦ったように放たれるイビルロアを、軽く躱して見せるクロウニ。
それも当然だろう。
狙わせる場所を限定させたのだ。
あとは技の出始めさえ予測出来れば、躱すことは難しくない。
そして敢えてそう行動させることで、技が放たれる予兆から瞬間までじっくりと観察することが出来た。
その後はどこを狙われても簡単に躱していくクロウニ。
「他に奥の手は無いのですか?」
「……ねえ」
「そうですか……なら、真っ向勝負ですね」
そう言って、初めて自ら攻め込むクロウニ。
ここまでの行動で、相手の分析は終わっている。
今ならたとえ至近距離でイビルロアを放たれても、躱す自信はある。
そして決着。
立っていたのは悪魔で、地に伏しているのはクロウニ。
「手こずらせやがって……てまたかよ」
次の瞬間、蝶が飛んできてクロウニを回復させる。
と同時に闇の魔力が悪魔にも与えられる。
少なくない傷を負っていた悪魔が、訝しげな表情を浮かべる。
「なんで、俺まで?」
「言ったでしょう、師匠方は厳しい方々だと」
「これも訓練の一環だってのかよ! ふざけやがって!」
2回、3回と繰り返すうちに絶対に勝てない戦いに、悪魔が手を抜き始める。
が……
「くっ……」
肌が粟立つ。
まるで、心臓部に槍の切っ先を優しく当てられたような。
ちょっと力を籠めるだけで、簡単に貫かれてしまいそうな圧倒的な力差を見せつけられるような幻影。
そこに突っ込んで来たクロウニに対して、思わず尻尾で本気で殴り飛ばす。
口から出た血を拭って、笑みを浮かべるクロウニ。
自分の命を脅かしていた気配が消える。
(手は抜くなってか? くそっ!)
内心で悪態をつきつつも、クロウニの様子を見る。
すでに治療は終えたようだ。
「まだまだ、差がありますか」
さらに数度繰り返すと、立場が逆転しはじめる。
4回に1回はクロウニが良い攻撃を入れて、勝ちを拾う事が出始める。
徐々にその割合は増えていく。
3回に1回。
2回に1回。
そして10回に9回は勝てるように。
「もう……勘弁してくれ」
「ということみたいですが?」
角を折られ、翼をもがれ地面に倒れ込む悪魔を闇の属性を纏った蛾が、クロウニを蝶が癒す。
だが悪魔は立ち上がらない。
「もう無理だろ……お前の方が強い……もう俺は消えるから」
「駄目みたいですよ? 無傷で勝てないと満足してもらえないみたいです」
「そんなバカな話が……冗談抜きで俺は人間が1人でどうこうできるような雑魚じゃねーぞ! それに単独で勝っておいてまだ不満があるとか、お前の師匠本当に人間かよ!」
「まあ……大半が人じゃありませんが。それよりも早く構えてください! こんなこと、私の修行では当たり前のように行われている事ですから」
あたかも何気ない日常の1コマの事のように言って苦笑いを浮かべて手を差し伸べてくるクロウニ。
「俺は……お前の師匠に弟子入りしたつもりはねー」
「分かってませんね。貴方に対して私があてがわれた時点で、貴方は生かされているだけですからね?」
「どういう意味だ?」
あまりに、あんまりな言葉に唖然とした表情の悪魔。
「最初から師匠方が出てきていたら」
クロウニがそう言った瞬間に悪魔の四肢が切り飛ばされ、角がへし折られる。
カチカチという音を立てながら、感情の籠っていない目で悪魔を見つめる蟻達。
「一瞬で消されているのですから」
「……」
「貴方は私を鍛えるためだけに、生かされているのですよ? 1秒でも長く生きながらえたいなら……構えてください」
その言葉に悪魔はスッと腰を落として正座するように座ると、両掌を上に向けて空を見上げる。
完全なる無抵抗の証。
「殺してくれ……」
そしてポツリとそう漏らしたのだった。
「あっ、それは駄目ですよ? ほらっ、師匠方が満足してないので意地でも戦わされますよ?」
しかしクロウニも虫達も容赦が無かった。
蹲って地面にしがみついて、イヤイヤと首を振るう悪魔を引きずり起こして構えるまで噛み付く蟻達。
泣きながら殴りかかって来る悪魔。
精彩を欠いた攻撃にこれ以上の訓練は無駄だと判断されたのは、そこからさらに10戦程行われた後だった。
「仕方ない、主に頼んでやる気を出させてもらいましょうか」
「まだ上が居るのか……もうヤダ……」
悪魔の虚しい呟きが、誰も居ない城壁の外に小さく響いた。