忘れてしまおう
青春劇「十七歳は御多忙申し上げます」(章「魅惑の夜」参照)、「魅惑の夜Ⅱ ~side A・side B」と併せて、ご覧下さい。
高校二年生の年が明けた。
一月二日。
私は、お気に入りの黒地に紅い小紋柄のウールの着物を着て、一人で「藤咲八幡宮」に初詣に着ていた。
境内は家族連れやカップルなどすごい人出で、ごった返している。
その人混みに押されながら、やっと私は鈴と賽銭箱の前まで来た。
神様にお願いすることは、決めていた。
”神様……
どうか、守屋君のことが忘れられますように……”
私は、心からそう祈った。
その帰り道、沿道で綿飴を舐める。
沿道は、ひよこ売りや、射的、林檎飴、私の大好物の鯛焼きなど、様々な屋台が出ている。
私は、時々、屋台に立ち寄りながら歩いていた。
しかし、ふと。
あの夜の守屋君との初めての口づけのことを思い出した。
それは、空の雲のようにふうわりとした綿飴の如く、淡く儚い口づけだった。
あれが、私の初めての口づけ……
決して忘れることは出来ない口づけ
彼は何度も私の口唇を塞いだ。
私達は長いこと口づけていた。
しかし──────
彼は、口づけの後、私に触れようとはしなかった。
じっと、何かに堪えるようなまなざしをしていた。
きっと。
「玲美」さんのことを想っていたに違いない。
あの長いさらさらの茶色の髪を持つ守屋君の彼女。
”あなたなんて「玲美」の身代わりなんだから!”
期せずして偶然に再会したあの時。
彼女は、私の目を見てはっきりとそう叫んだ。
「玲美」……?!
何のことかその時はわからなかった。
でも。
「身代わり」……
守屋君は、何らかの理由で、その「玲美」さんという女性と私の存在を重ねているに違いない。
それは、女の勘というしかない。
理由なんてない。
しかしそれは、確信に近い思いだった。
あの後、彼は私の肩を抱き、翠道町の大通りまで出ると、一台の車を停めた。
私達は、そのタクシーに乗った。
彼が私の家の場所を確かめると、行き先を告げた。
彼は、そのまま私の肩を抱いていた。
私は、彼に抱かれている左肩を思い切り意識し、彼の節太く、細長い指を見つめていた。
あの秋の夜、ディスコ「HEVEN」で彼に肩を抱かれ、彼の胸に顔を伏せていた時。
彼の指。
彼の胸。
それは、何とも言えず心地よく、暖かかった。
しかし、その車内では……
彼の躰はまるで氷のようだった。
私達は、全く無言だった。
形容し難い沈黙……
その空間は、言いようのない重い空気に支配されていた。
家までは僅か十五分ほどの短い距離だったのに、それはまるで「永遠」のように長く思える時間だった。
私の自宅の前に車が止まった。
私はやはり無言で車を降りた。
一瞬の視線の交錯の後、
”じゃあな”
彼は、その一言だけを残し、車は去っていく。
私は、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
冬の夜風が身を刺した。
それよりも。
私には彼の取った態度の方が痛かった……
自分の部屋に戻ると、後から後から、涙が流れた。
私は、浩太郎君に失恋したあのクリスマスの日、一生分の涙を流し尽くしたように思っていたが、それは違うことを初めて知った。
泣いても、泣いても、涙は尽きなかった。
自分が「玲美さんの身代わり」になっているということ。
その事実が私の心に重くのしかかる。
そうかと思えば、彼とのあの口づけの感触が不意に蘇る。
自分の紅い口唇にそっと触れる。
確かに、この口唇に彼の口唇が、触れた。
確かに、私達は口づけた……
けれど。
彼の心は私にはない。
彼の心は玲美さんにある。
「玲美」さんという女性が、彼にとってどんな存在なのか。
どういう意味で、私は「身代わり」なのか。
彼は、本当に、玲美さんと口づけるように、私に口づけたのか。
あの打ち上げの「HEVEN」で見せた彼の真の顔。
あの秋の日の放課後の彼の優しさ。
それもこれも皆、嘘だったのか……
口づけの前の抱擁の時──────
「男」の気を彼は、感じさせた。
そして。
私は、生まれて初めて自分が「女」であることを認識した。
守屋君……
彼の心が欲しかった。
私はその夜、一晩中、朝まで泣き明かした。
この三日の間、私は自室に籠もり、妄想と狂気に苛まされていた。
彼を想う以外、何も手につかない。
あの夜の口づけが忘れられない……
そんな自分に私は、恐怖した。
彼への愛に完全に目醒めてしまうことは、そのまま破滅を意味するような気がしてならかった。
そして──────
何もかも忘れてしまおうと、私は心に決めたのだ。