オオカミ王子とは犬猿の仲 01
クラウディア・ローゼンハイムは、鏡に映る自分の姿を確かめていた。
淡いプラチナブロンドの髪はハーフアップにアレンジされ、サファイアのついた髪飾りで留められている。華美なアクセサリーは好まないので控え目な大きさのものだが、瞳の色と同じであるところはクラウディアのお気に入りだ。
入念に身なりを整えて、クラウディアは最後に鏡の前で笑顔の練習をした。
今日は約二週間ぶりに、婚約者に会う日だった。自分にできる最高の笑顔を見せたかった。
(よし……!)
高鳴る胸をおさえて、クラウディアは自室を出て応接室へと向かう。
ノックをして入れば、父であるテオドールが既に室内でソファに座っていた。訪ねてくる婚約者を一緒に出迎える予定だった。
「ああ、クラウディア。来たか……」
クラウディアの姿を確かめて、テオドールは表情を強張らせた。いつもとは違うその様子に、クラウディアは思わず足を止める。
「座りなさい」
ぎこちない声色で促され、クラウディアはとりあえず従ったが、父を見ながら思わず首を傾げる。
「……お父様、どうされました?」
尋ねると、テオドールは「あー」とか「えー」とか呟きながら、クラウディアから逃れるように目を泳がせている。
「お父様」
少しばかり非難するように強く言えば、テオドールは観念したように大きなため息をつく。クラウディアの様子を確かめるようにちらりと一度見て、テオドールは短く告げた。
「……アレクシスが、失踪した」
たったその一言を、クラウディアは理解することができなかった。
「……今、何とおっしゃいました?」
クラウディアと視線をあわせないまま、テオドールはしきりにあご髭を触っている。
「……だから、アレクシスが――お前の婚約者が、失踪した」
「…………」
たっぷりと沈黙した後、クラウディアはようやくテオドールの言葉の意味を理解する。と同時に、その顔を青くして体を強張らせた。
「アレクシス様の身に、何があったのですか」
クラウディアの声は震えていた。
婚約者であるアレクシス・キルシュは、この国から与えられた任務で異大陸へと遠征していた。
任務には、危険が伴う。そのことが原因でアレクシスが失踪したというのなら。
(私が、探しに行かなくちゃ)
一瞬でクラウディアはそう決意したのだが、すぐにそれは間違いであると悟る。クラウディアを見つめるテオドールの瞳に、憐憫の光が宿っている。
「……お父様?」
クラウディアは眉根を寄せた。
「遠征先で何かあったとか、そういうわけではない」
「……では、何なのですか」
「…………」
「はっきりおっしゃってください!」
痺れを切らして思わず声を大きくしたクラウディアに、父はもう一度深いため息をついて、信じられない言葉を口にした。
「アレクシスは、女と一緒だ」
「……は?」
「遠征に同行した、大聖堂から派遣された聖女と、そのまま行方をくらました」
「…………」
再び沈黙。しかし次の瞬間、クラウディアはソファから勢いよく立ちあがっていた。
「……はぁ!?」
声を荒げたその瞬間、クラウディアの体から、魔力がエネルギー波となってほとばしっていた。青白い光が、びりびりと音を立てて部屋を振動させる。
「ま、待て、クラウディア! 落ち着きなさい!」
「……それはつまり、世間一般で言うところの、駆け落ち、ということですか」
低い声で問うと、テオドールもソファから腰を上げ、何度も頷きながらクラウディアから距離を取る。
質問が肯定されたのを確認して、クラウディアはうつむいた。拳をぎゅっと握りしめて、高ぶった感情を抑えようとつとめる。
「クラウディア。と、とにかく落ち着きなさい」
テオドールの必死の声もあって、少しの後、クラウディアを包む光が弱まった。
テオドールはほっと息をついて、話を続ける。
「心配するな。婚約は、こちらから破棄することになった」
「…………」
涙がこぼれ落ちそうになるのを、必死で堪えるクラウディアに、テオドールは追い打ちをかけた。
「既に新しい婚約もまとめてきた」
おそらく、テオドールからすれば、良かれと思ってのことなのだ。
クラウディアは顔を上げた。思わず涙も止まる。決して喜んだからではない。驚き過ぎただけのことだ。
「新しい婚約者は、イザークだ。お前も良く知っているだろう?」
良かったな、とでも言いたげにテオドールはにこにこと笑顔をつくっている。
(今、何て? イザーク? イザーク……)
一瞬思考が停止して、その姿が脳裏に浮かんだ瞬間、クラウディアは声を上げていた。
「はぁ!?」
その声色に怒気が含まれているのを察して、テオドールが顔をひきつらせたとき、部屋にノックの音が響いた。
扉が開かれ、使用人が案内してきた人物に喜んだのはテオドールだ。
「テオドール様、ご挨拶にあがりました」
「お、おお。イザーク! 丁度良かった! 今しがたお前の話をしておったのだ! 婚約のことは伝えてあるから、あとはゆっくりお前から話しておいてくれ」
言うが早いか、テオドールは「用事を思い出した」などと白々しいことを言いながら、そそくさと去っていく。
「お父様!」
クラウディアの制止の声にも聞こえないふりをして、テオドールは扉の向こうに消えていた。
「…………」
呆然とするクラウディアに、テオドールの代わりに部屋に入った男は、呆れた声を出した。
「父親怯えさせてどーすんだ」
「…………」
「とりあえず、だだ漏れの魔力を押さえろ」
クラウディアは男――イザーク・ランペルツを睨んだ。
アッシュグレーの髪と、月を思わせる金色の瞳は、オオカミのようだと周囲から言われていた。一重まぶたで切れ長の目は眼光が鋭く、余計にそのような印象になる。
そしてイザークはその印象を裏切らない男と言って良かった。意地悪で、優しくない。少なくとも、クラウディアに対してはいつもそうだ。
「……その雑な言葉遣い、変わっていないのね」
「お前もそのきっつい目つき、変わってないのな。婚約者に対して失礼だとは思わねえ?」
「私の婚約者は、アレクシス様だわ」
「テオドール様から聞いたんだろ。お前とアレクとの婚約は解消。お前の婚約者は、今日からオレ」
「何で、私が、イザークと!」
「おいこら、何でアレクは様付けで、オレは呼び捨てなんだよ」
「アレクシス様は、年上だからよ!」
「オレとアレクは十九で、お前は十七ね。どういうことか分かるよな?」
「ああもう、うるさい! 何なのよ一体! お父様は逃げるし!」
「いや逃げたのはアレクだから」
「…………」
イザークを思い切り睨みつけて、クラウディアは凄んだ。
「馬鹿なこと言ってないで説明して。遠征には一緒に行ったはずでしょう?」
クラウディアはイザークとの距離を詰めると、その胸倉を掴んだ。自分の頭よりも高い位置にあるイザークの瞳の奥に、目を吊り上げた自分が映っている。
「だから落ち着けって。つか魔力押さえろって」
クラウディアの手を取って自分から離してから、イザークはやれやれとため息をつく。
「胸倉掴むとかどんな令嬢だよ。お前本当に可愛くねーよな。アレクが逃げたくなるのもわか――」
言いかけたイザークが、クラウディアを見て青ざめたのがわかった。
「悪かったわねえええ!!」
クラウディアの魔力は暴発し、激しい轟音が、昼下がりのローゼンハイム邸に響き渡った。