9 ドラゴン、マッサージをする
執務室で書類の整理をしているアスランに、ニナはお茶を持って行った。
ノックして入ると、光が差し込む大きな窓を背にしてアスランが机に向かっていた。壁には絵画が飾られ、広い室内の奥には重厚感のある机と書棚、手前には皮張りのソファーとテーブルが置かれている。
「ああ、ドラン」
アスランが微笑んだが、その笑顔には明らかに疲れがにじんでいた。それもそのはず、机には大量の書類が積まれている。
(大丈夫かな?)
顔を曇らせたニナの心配を感じ取ったのか、アスランが目尻を下げた。
「大丈夫だよ。書類を見過ぎて、ちょっと目が疲れただけだ」
目が疲れた時は両方のこめかみを押すと効くとニナは知っていた。
おもむろにアスランの背後へと回り、体を前かがみにして両手をアスランのこめかみに回した。
(わわっ……)
腕が短いので思ったより体が密着して、焦った。しかもドラゴンの厚い胸板にアスランのサラサラの髪の毛がふれるので、くすぐったくて仕方ない。
「ギャッ……ギャッ……」
何とか笑いをこらえるものの閉じた口から変な声がもれた。王子の背後に立ち、なかば白目でプルプルと震えるドラゴンは異様だろうと自分でも思う。
しかしそんなニナに動じる事も警戒する事もなく、アスランはリラックスした様子でされるがままだ。信頼されていると感じて心の中が暖かくなった。
(ようし、頑張るぞ)
ニナは張り切ってアスランのこめかみを爪の背で押した。
ドラゴン的にはごく軽く押したつもりだが、どうやらかなりの力だったらしい。
「……っ!」
声にならない声をあげてアスランが机に突っ伏した。
「ギシャー!?」
えらい事だ。ニナは慌てて助け起こした。疲れを取るための行為なのに逆にダメージを与えてしまった。大変である。
両手でこめかみを押さえながらアスランが振り向いた。顔が少し引きつっている。
「……力を抑えてくれ」
(もちろんです。ごめんなさい……)
ニナは目一杯うなずき、机に頭をぶつけるほど深くペコペコと頭を下げて謝った。
仕切り直しである。
最大限の注意をはらい壊れ物を扱うように、そうっと押した。ドラゴンなのに腰が引けている。
「もう少し強く押してくれ」
ビクビクし過ぎて、あまりにも力を入れなさ過ぎだったようだ。難しい。もう少しだけ力を込めて円を描くように押し回す。
そして、そっとアスランの顔をのぞきこむと、アスランは気持ち良さそうに目を閉じていてニナはホッとした。
室内は静かだ。窓をへだてて鳥の鳴き声が小さく聞こえてくるだけだ。昼下がりの日差しが床にやわらいだ陰影を映し出す。
ドラゴンの姿になったから今アスランと一緒にいられるのだと思うと、ひどく不思議な気分になった。令嬢のままだったら今頃どうしていただろう。トビアスに婚約破棄された事できっと家に居づらくて、でも他に行くところもなくて、せめて家族に迷惑をかけないように、そして小さいと自分で情けなくなるくらいの自尊心のために無理をして笑っていた気がする。そして一人になってから思い詰めたように泣くのだ。
それに比べて今は? ドラゴンにはなったが暖かい部屋の中で暮らせている。食事だってお腹いっぱい食べられる。騎士隊長や他の隊員たちから良く思われてはいないが、そんな事は当たり前で。もしニナがその立場なら凶暴なドラゴンと一緒に暮らすなんて全力で拒否していただろう。置いてもらえるだけで、ありがたいのだ。
かけらでも居場所があって、騎士コンビという親しみを込めて接してくれる人たちがいて、そして何よりアスランがいる。家族に会えないのはつらいけれど、誰も振り向かないようなドラゴンにアスランは無条件に優しくしてくれる。
あの笑顔を向けられるたび、婚約破棄されて失ったと思った自分の価値を返してもらっているような、そんな気になれるのだ。
(感謝しないと)
こんな自分をそばに置いていてくれる事に。
「ドラン?」
振り向いたアスランにニナは笑いかけた。精いっぱい優しく見えるように。
ニナの笑みを受けてアスランも微笑んだ。
が、その前に一瞬だけ真顔になったのをニナは見逃さなかった。
(どう笑おうと怖い顔なんだな)
とニナは悟った。でも角度とかで変わるかもしれないから後で鏡の前で研究しよう。会得すべきは「怖くない、恐れられないドラゴンの笑い方」だ。
「もう充分だ。今度は俺がしてやるよ」
アスランが言ったが、残念な事にドラゴンと眼精疲労は無縁である。
「肩とか、腰とか?」
ドラゴンの体になって日は浅いが体のコリも特に感じない。それでも珍しくアスランの目が子供のように輝いているので、ニナはマッサージをしてもらう事にした。
大股で床に腹ばいで寝るドラゴン。ちょっと情けなくもある。
しかしアスランに背中に乗られて、その密着度合いにニナの心臓の鼓動が高鳴った。
「ここか?」
と頭の近くでささやかれて、さらに心臓の鼓動が早くなった。アスランの手が肩にかかり緊張に体が震える。頬が燃えるように熱くなるのがわかった。
「いくぞ」
気負うアスランの声がかすれていて、いつもと違う。長い指でつかまれた肩が熱を帯びた。鼓動の高鳴りも最高潮だ。
アスランの両手に力がこもった。力強くニナの肩をほぐし――。
「――ギシャー!!」
(痛い、痛い! 痛い!!)
ニナは吠えた。
痛いのだ。ドラゴンもびっくりな程に痛い。どこをどう押したらこんな痛みになるのか図に書いて懇切丁寧に教えてもらいたいくらい痛かった。
「あ、ごめん。痛かったか?」
アスランの心から不思議そうな、でも少し自分が悪いとわかっている口調に答える気力もなくなり、ニナはぐったりとなってしまった。
ニナは知らなかったのだ。美形で聡明で腹黒くて隙のない第二王子はマッサージが驚くほど下手だった。下手過ぎだ。しかし好きなのである。下手の横好きというやつだ。
「そんなに痛かったか? おかしいな。騎士隊長のハンネスにしてやった時はそんな事はなさそうだったが」
まさか人間相手にこれを行っていたとは。
(隊長、かわいそう……)
きっと王子相手に怒る事もできず、騎士隊長の威厳とプライドにかけて必死に耐えたのだろう。想像すると涙がでそうだ。
「おかしいな」
アスランは心底、不思議そうに両手を眺めている。そして
「よし、今度は加減するから、もう一度やろう」
実に爽やかな笑顔を向けてきた。
ニナはお人よしだ。頼みこまれると「断ったら、この人は困るんだろうな」と考えなくていい他人のいく末まで勝手に感じ取ってしまい、断りきれずにバカを見た事もある。
けれどそんなお人よしのニナにもアスランのマッサージはお断りだった。断固として。
見たら、とろけてしまうような笑顔を、おそらく意図的に浮かべてジリジリと包囲してくるアスランから目を離さずに、一瞬の隙をついてニナは必死に逃げ出した。
その日以来、アスランにマッサージしようと近付かれると、ニナは鼻をきかせていち早く逃げる事にしている。
今のところニナは成功しているが、一度だけ両肩を押さえて死人のような顔でヨロヨロと廊下を歩く隊長を見かけた事がある。
(隊長、かわいそう……)
ニナは心の中で手を合わせて、決してばれないように物置のかげから、こっそりと見送った。