4 ドラゴン、お風呂に入る
(私、くさいかな?)
ニナは固いうろこだらけのたくましい腕に鼻を近づけて匂いをかいでみた。自分ではよくわからないが、ちょっと獣くさい気がする。夜になればアスランと同じ寝台で――足元に丸まってだけれど――寝るのだし。
(よし。お風呂に入ろう)
ドラゴンはお風呂に入る事にした。
この城の別棟には、人が二十人は入れそうな浴槽のある豪華なお風呂がちゃんとあるのだが、ドラゴンを恐れて使用人たちがほぼいないため、それだけの湯は沸かせない。それに迷惑をかけている身で豪華なお風呂に入るのは気がとがめる。
中庭に、湯を張った大きなたらいを置く事にした。
体を洗う布や石けんを持って中庭へと向かうと、この前の若い騎士二人が向こうから歩いてきた。ニナと同じくらい――十七、八歳ほどの金髪と黒髪のコンビだ。
「うわあ、ドラゴン!」
「何で石けんを持ってるんだよ!?」
驚く騎士コンビを気にせず、石けんと布を置くとニナはいそいそと、たらいの中へ入った。ところがドラゴンの後ろ足は予想外に短かった。うまく縁をまたげず、ニナは頭から湯の中へと落ちてしまった。
「ギャギャー!?」
「おい、ドラゴンが落ちたぞ!」
「そもそもドラゴンって風呂に入るものなのか!?」
慌ててたらいから出て、肩で大きく息をする。危ない。ドラゴンなのに、たらいで死ぬところだった。
仕切り直しだ。ニナはそうっと慎重に縁をまたいだ。今度はうまく入れて「ギシャー」と息をつく。
一番大きなたらいを納屋で見つけて引っ張り出してきたのだが、それでもドラゴンには小さい。手足を縮め背中を丸めて、なんとか肩までつかる事ができた。なかなか、いい湯だ。
生い茂る草や葉に日ざしが降りそそぎ、連なるバラのアーチの中を風が吹き抜けていく。何てきれいな光景なんだろうと思いながら、ニナはしばらくの間ぼうっとなった。
このままずっとドラゴンの姿だったらどうしよう。家族にも会えないし、会ったとしてもニナだとわかってもらえず怖がられるだけだ。元に戻る方法も何もわからない。今はアスランのお情けでここに置いてもらえているけれど、これから先どうなるかはわからないのだ。
考えると不安しかない。平和な風景の中でニナはブルッと体を震わせた。将来が見えない事がこんなにも恐ろしいだなんて知らなかった。
その時、背後から笑いを含んだ声が聞こえた。
「湯加減はどうだ?」
慌てて振り向くと、すぐ近くにアスランが立っていた。反射的に足を閉じ胸を両手で隠してから、そうだったドラゴンの姿だったと気付く。
「きれい好きだな。でも中に風呂場があるだろう。そこに入ればいいのに」
ニナはうつむいた。自分のせいで使用人たちがほぼいなくなってしまった。いるのはアスランをドラゴンから守るため、ニナを目の敵にして警戒する騎士団員たちだけだ。
ニナの心の内を読み取ったらしいアスランが、じっとニナを見つめた後でふわりと笑みを浮かべた。
「洗ってやるよ」
たらいの横に置いた布に石けんをつけて、ニナの背中をこすり始めた。
「ギ、ギシャー!?」
まさか男性に、しかも王子に裸の体を洗ってもらうなんてとんでもない。元から裸の、しかし心は乙女なドラゴンは恥ずかし過ぎて一目散に逃げようとした。しかしアスランの力は意外に強かった。
「遠慮するなって」
もちろんドラゴンなニナが本気を出せば瞬殺だ。一撃で辺りをも灰にできるのだが、なぐさめようとしてくれるアスランの顔がとても優しかったので、ニナはおとなしく洗われる事にした。
アスランは力一杯こすってくれるのだが、ドラゴンの皮膚はうろこにおおわれていて分厚いのだ。くすぐったくてたまらない。
「ギャギャギャ!」
思わず笑いがもれた。泡だらけで目を細め、歯をむき出しにして身もだえするドラゴン。
かなり恐ろしい姿だったらしく、大木のかげからのぞいていた騎士コンビが青ざめた。
「おい、アスラン王子は大丈夫なのか! ドラゴン、何かを我慢してるぞ。食欲か!? 王子を食おうとしてるのか!?」
「いや、あれ、笑ってるんじゃないか? 怖い顔だけど」
「ギシャシャ!」
「「すげー怖い!!」」
ゆるやかな風が木立を揺らす。シャラシャラと葉がこすれ合う音に、泡にまみれたニナは空を見上げて大きく息を吐いた。いつの間にか重苦しかった心の内が軽くなっている。アスランのおかげだ。
アスランをじっと見つめると、深い青色の目が笑い返してきた。
「名前を決めないとな。名前はあるのか?」
「ギシャ」
ニナ、と言ってはみたが、もちろん伝わらない事はわかっている。
「ギシャ―ン?」
ギシャ―ンではない。首を横に振って否定した。
「ギシャク? ギシャロ? あ、ギシャロット?」
ギシャ、から離れて欲しい。それにメスだし。
「違うか。じゃあドラゴンだから――ドランはどうだ?」
ニナは「ドラン」になった。
湯からあがったニナが体を振って水滴を飛ばしていると、ふくよかな体つきの宰相が、武装した兵士たちを引き連れてやって来た。ニナのすぐそばにいるアスランを見て顔色を変える。
「王子、危ないですぞ! なぜドラゴンが檻に入っていない? 護衛の騎士たちはどこに!?」
騎士コンビが慌てたように走ってきた。
「王子をお守りするのが、お前たちの役目だろう! 何をしているか!」
「俺が檻から出しました。ドランは危害を加えませんよ。俺も騎士たちも無事でしょう。なあ?」
アスランに問われた騎士コンビは膝をついたまま、つっかえながら答えた。
「それは……はい。確かに見た目は怖いドラゴンですが、中身は違うというか。まるで人間みたいで……」
「警戒していますが、危険な事は今のところは何もありません。その、野菜を収穫したり、シチューを煮込んだり、たらいに入ったりしかしていないですし……」
「何を馬鹿な事を言っているんだ!」
宰相が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「王子も王子です。凶暴なドラゴンを檻から出すなんて!」
「しかし夫婦ですから」
しれっと答えるアスランに、宰相の怒りが爆発した。
「ふざけないで下さい! 何度も言っておりますが、王子の身に何かあってからでは遅いのです! もう王子の言う事は聞きません! ドラゴンは連れて行って北方の地へと送ります。――おい、連れて行け!」
(嘘! 嫌だ!)
吠えるドラゴンに、宰相が連れてきた兵士たちが剣を突き付ける。ニナは後ずさった。鋭い刃物よりも彼らの表情に敵意しかない事の方がずっと怖い。
アスランがふうっと息を吐いた。
「宰相、レモネ侯爵家の未亡人のところに最近通っていると耳にしましたが?」
「ああ。噂になっているようですな」と宰相が眉を寄せてうなずいた。
「仲良くしておりますよ。しかし向こうは未亡人で、私も三年前に妻を亡くした身。何ら不都合はありませんからな」
文句があるなら言ってみろという感じで得意げに笑う宰相。しかしアスランの落ち着いた表情は変わらない。
「未亡人には息子がいますね。二十六歳の非常に見た目うるわしい青年だそうで。宰相とも、まるで親子のように仲良く寄り添っているとか」
宰相の笑顔が消えた。アスランが笑みを浮かべながら近付いていく。
「いいですよね、親子愛」
未亡人という良い、かくれみのもありますしね――とアスランが宰相の耳元で続けたのが、聴覚の発達したドラゴンには聞こえた。
真っ青な顔でガタガタ震える宰相の前で、アスランは相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。怖い。たらいで死にそうになるドラゴンなどより、よっぽど怖い。
「おい、戻るぞ! ドラゴンはもう、いい! むしろ決して手を出すな!」
戸惑う兵士たちを連れて、宰相が逃げるように去って行った。
「さあ、中に入ろうか」
何でもないという顔で歩いて行くアスランに、ニナと騎士コンビは息を呑んで顔を見合わせた。
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