32 令嬢、ドラゴンに戻る夢を見る
誰もいない獣舎にニナは足を踏み入れた。振り返るとドランが丸まって寝ているのではないかという錯覚にとらわれたが、わらの寝床はからっぽだった。
(そりゃ、そうだよね)
寂しさを胸の内に無理やり押し隠す。
ドランをガザル地方まで送って行った職員たちも、すでに元いた保護施設へと戻って行った。彼らが言っていた。
「ドランは最初は不安そうだったけど、海の向こうから仲間の匂いがしたんだろうね。迷いなく北方の大陸へと飛んでいったよ。立派な姿だった」
後はドランの無事と幸せを祈るのみだ。それくらいしか出来ない。色々と心配は尽きないけれど。
ニナも明後日には実家へと戻る。ドランの世話係という役目も終え、一年後の咲花の時期にアスランとの結婚式が決まったのだ。結婚後はとりあえずこの別棟で暮らす事が決まっているが、それまでの間は実家に帰って家族と過ごす。
諸々の準備のため城へ来ることはあるが、思い出深い獣舎をもう一度きちんと見ておきたかった。
ドランと別れたニナを元気づけようと、最近のアスランは今まで以上に気を遣ってくれている。それは素直に嬉しいけれど心の底に沈む寂しさはどうしても消えない。
少し前までそこでドランがあくびをしていたのに。奥へ向かって歩いていると敷かれたワラの水にぬれた箇所で足がすべった。
「……!」
悲鳴をあげる間もなく、後ろ向きに壁に思いきり頭をぶつけて目の前が真っ暗になった。
ニナが目を覚ますと、そこは見慣れた城の別棟ではなかった。
石灰岩の台地と生い茂る低木、青い空と遠くにかすむ稜線。吹く風は冷たく、ところどころにわき出た泉の湿り気を含んだ水の匂いがする。見回しても人の姿はおろか家や農地など人間の生活の類が何も見あたらない。
ぽかんとしたまま辺りを見回し、ここはどこ? とつぶやいた言葉は
「ギシャ?」
だった。
(ええ!?)
恐る恐る見下ろした自分の両手は赤いうろこでおおわれていて鋭い爪が生えていた。太いしっぽと、たくましい後ろ足、そして首元にはニナがかけたドランの母親の赤い指。
(えええ!?)
信じたくない。信じたくはないが以前の経験からわかった。
これはドランだ。ニナはまたドランの体になってしまったのだと。
「ギシャー!!」
どうして!? と両手で頬を押さえて焦ったように叫びまくるニナドラゴン。
(どうなってるの! どうして、またドランの体に!?)
そこで、ようやく思い至った。
(そうか。これは夢なんだ)
そうだ、夢だ。驚いた。そうだよね。納得した途端、一気に心が軽くなり、以前よりだいぶ体の大きくなったドラゴンは歯をむき出しにして「ギシャシャ」と笑った。
ドランがどうしているか心配でずっと考えていたから、こんな夢を見るのだろう。
安心して、とりあえず太陽の出ている方向へ歩いてみる事にした。石ころの転がる乾いた大地を踏みしめて、ノシノシと歩く。ドラゴンの体は久しぶりだ。
(これが夢で私がドランになっているというのなら、ここは北方の地かな)
しばらく歩くと草木が茂る中に大きな泉が見えた。地下水が地表にしみだしているのだろう。実際の北方の地も寒く、石灰岩の台地と地下水が湧く泉があちらこちらにあると聞く。まるで同じだ。
(……いやいや、これは夢だから)
わきあがってきた不安な気持ちを無理やり押し込めて、ニナは泉へと近付いた。水は透明で透きとおっている。水面に映し出された顔は、なつかしいドランのものだった。いかつい顔にするどい角。「ギシャ」と笑ってみると、アスランや騎士コンビに怖がられたあの顔だった。むしろ成長したせいか、ますます怖くなった気がする。
(本物のドランも、こうして泉をのぞきこむ事があるのかな)
遠い北方の地で。
胸が苦しくなるほどの切なさとなつかしさが込み上げてきて、ニナは唇を噛みしめた。
その時、重い地響きがした。どんどん近づいてくる。大木の後ろから姿を見せたのは同じレッドドラゴンだった。
「ギシャー!?」
自分もドラゴンだという事を忘れて、驚いて両手をあげて叫んでしまった。
うろこだらけの顔に鋭い眼光。自分と同じ姿なのだが目の前で見ると怖い。大きさはドランより少し大きいくらいか。
(えっと、逃げるべき? それとも、あいさつすべき? ドラゴン式「初めまして」はどんなふうにするんだろう?)
困ったニナがとりあえずペコペコと頭を下げてみると、相手のドラゴンは不思議そうに首をかしげた。そして首を下げて地面にあごを付けると、口に含んでいたものを一斉に吐き出した。仕留めたウサギや数種類の果物など、色々な食料が地面に転がり出る。
そして「食え」と言うように、それらの食料を顔を使ってニナの方へと寄せてきた。
友達――なのだろうか。「シャー」と目を細めるドラゴンを前に、ほんのりと温かい気持ちになったニナは「ギシャ」と笑った。
すると相手のドラゴンが「忘れていた」というように再び口の中からペッと何かを吐き出した。それがニナの鼻先に当たり、軽い音をたてて地面に落ちた。まじまじと見ると
「ギシャ――!!」
カエルだった。
全身に鳥肌がたったように感じられて背筋が一気に寒くなった。
目の前がだんだんと暗くなり、目をまん丸にして驚いたようにのぞきこんでくる相手のドラゴンの姿が薄れていく。
(良かった。これで夢から覚められる。食べ物をありがとう……カエルは勘弁して欲しかったけど)
安心して再び目を覚ますと、そこは見慣れた別棟――ではなく、やはり草木の茂る泉のほとりだった。かたわらには先程のドラゴンがいて心配そうにニナをのぞきこんでいる。
「ギシャ!?」
青ざめて見下ろすもニナはやはりドランの体だ。
(どうして? 夢じゃなかったの!?)
顔の横には先程のカエルも落ちている。
(嘘でしょう!? 嫌だ!)
パニックになり「ギシャギシャー!」と叫びまくるニナを鎮めようとするかのように、相手のドラゴンがグルグルとニナの周りを走り出した。そして声を聞きつけたのか他のレッドドラゴンたちもやって来て「シャー!」と同じように周りを走り出す。
グルグルと連なって走るドラゴンたちと、その中心で頭を抱えて叫ぶニナドラゴン。おかしな図である。
(誰か、これは嘘だと言って! お願い、元に戻して!)
「――ナ! ニナ!?」
泣き叫びながら目を開けば、そこは城の別棟、今はニナの寝室となっている元客間だった。鶏の鳴く声が小さく聞こえ、窓から見える空はうっすらと夜が明けたところだ。
寝台に布団をかぶって寝ていたニナを、アスランとメイドたちが心配そうにのぞきこんでいる。焦って布団をはねのけると、ドラゴンではなくちゃんと人間の体だった。
(良かった。夢だった……)
深い安堵感が胸を満たす。
(でも、どこからが夢だったんだろう?)
ドランと別れて職員たちが保護施設へと戻っていったのも事実だし、結婚式が決まって明後日には実家に帰るのも事実だ。という事は、どうやら獣舎へ行って頭をぶつけたところからが夢の中だったらしい。
「大丈夫か? 寝室で眠ったままニナがうなされていて、何度呼びかけても起きないとメイドたちが俺を呼びに来たんだ。ずっと変な声でうめいていると」
「変な声?」
「ああ。――『ギシャギシャ』とうなっていると」
「……ドラゴンに戻った夢を見たの」
途端にアスランが何とも言えない複雑そうな顔になった。ニナがドラゴンの姿になっている間どれほど苦労したか、アスランは良く知ってくれている。
「それは――大変だったな」
つぶやくアスランの後ろで、訳が分からないといった様子で顔を見合わせるメイドたち。
ニナは上体を起こしてアスランを見つめた。心から心配してくれる顔と、夢の中でニナドラゴンをのぞきこんでいたドラゴンの姿がかぶる。
(そうか……)
「夢の中でドランになって、北方の地にいたの。友達がいた。食べ物をくれて、不安がる私を心配してくれた」
ちょうど今のニナと、アスランのように。
「ただの夢だし、現実は違うとわかってるけど、でもきっとドランは元気でいる」
遠い北方の地で良い仲間に囲まれて、きっと幸せにやっている。
「心配しなくても大丈夫なんだ。ドランは新しい地でちゃんと頑張れるドラゴンだって事を私は良く知っているもの」
心配ないと笑顔になるニナに、アスランがやわらかく微笑んだ。




