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29 令嬢、家に帰る

 翌朝ニナが客間を出ると、シーツを抱えた茶色いワンピース姿のメイドと行き会った。


「おはようございます、ニナ様。朝食の用意ができておりますよ」


 ぽかんとしたまま食堂に案内され、言われるがままテーブルにつくと、別のメイドが焼きたてのパンやベーコンなどを運んできた。


 壁一枚へだてた隣の台所からは食器のふれ合う音やメイドたちの話し声が聞こえ、窓の外に広がる中庭では庭師が生い茂る葉を整えている。

 放し飼いだったドラゴンが檻に入ったので使用人たちが戻ってきたのだとわかった。


(良かった。これでアスランや騎士隊員たちに迷惑をかける事もなくなった)


 ホッと安心した一方で、心の底にコツンとあたるものがあった。アスランとの「人間に戻ったら労働力を返す」という約束だ。ニナにできる労働といえば家事仕事くらいで。けれど、こんなにたくさんの使用人たちがいるのならニナが必要になる事などあるのだろうか。


 喜ぶべき事なのに暗い気持ちになってしまった自分を叱るように、ニナはグラスにそそがれた新鮮なオレンジジュースを勢いよく飲み干した。


 朝食を食べ終えて、いつもどおり中庭へと向かう。


(天気がいいから洗濯をしよう)


 ところが、すでに洗濯物は洗って干されていた。大量の洗濯物が青空の下、風に揺れている。


(じゃあ掃除でも)


 しかし何人ものメイドがはたきや雑巾を手に、別棟中を磨いている最中だった。

 それではと奥庭の柵の一部が壊れていた事を思い出し大工道具を片手に向かったが、そこもすでに直された後だ。中庭へと行ってみるも、あれほど茂っていた雑草もきれいに刈り取られている。


(どうしよう。する事がない……)


 焦る気持ちを抱えてドランのところへ行くと、ドランはエサを食べている最中で、檻の前ではドラゴンの保護施設からやって来た職員たちとアスランが話をしていた。


 職員たちはさすがにレッドドラゴンを保護した事はないようだが、ドラゴン自体の扱いは慣れているので、ドランも安心するのか伸び伸びと暮らしている。

 野に戻す訓練はまだ先という事で、今のところニナはドランの体を洗ったり、あごの下をグリグリとなでたりして一緒に遊んでいるだけだ。もっともドランの方がニナに付き合ってやっている、という感じかもしれないけれど。


 ドランの食事の邪魔をしないように、こっそりと戻ろうとしたところ、話を終えたアスランと目が合ってしまった。


 昨日「あなたに会えて本当に良かった」などと、とんでもない事を言ってしまったばかりである。気まずくて思わず目をそらせたニナに、アスランは躊躇ちゅうちょなく近付いてきた。


「使用人たちが来て少しは楽になったか? ルークからニナが一人で働き過ぎだと聞いたから」


 驚いた。使用人たちが戻って来たのはアスランがニナのためにしてくれた事だったのだ。

 これでは約束が守れないとしか考えられなかった自分が情けなくて、ニナは唇をかみしめてうつむいた。


「どうした?」


 心配そうな声が降ってくる。

 ニナは自分の至らなさを噛みしめながら言葉を吐き出した。


「すごく嬉しいです。でも、このままだと『人間に戻ったら労働力を返す』という約束が守れないなと思ってしまったんです。すみません」

「あの約束はそういう意味で言ったんじゃないよ」


 アスランが苦笑する。


「え? じゃあ、どういう意味だったんですか?」


 心底わからず素直に、そして直球で聞くニナに、今度はアスランが困ったように視線をそらせた。


「――ドランと一緒にいるのは、すごく楽しかったしいやされたんだ。疲れが吹き飛んでいくような感じがした。だから――人間の姿に戻っても今までどおり、ここにいてくれると嬉しい。そういう意味かな」


 言いにくそうに、しかし真剣に言葉をつむいでいくアスランを、ニナは信じられない気持ちでまじまじと見つめた。

 ドラゴンの姿でなくても、これからもずっとアスランのそばにいられるのか。


 ドランだった時の事が次々と頭に浮かんだ。アスランにしてもらった事や言ってもらった事、その記憶はいつだって色あざやかで光り輝いていて、そしてとても優しい。


「ありがとうございます」


 震える小さな声に、アスランが目を見開く。青い目がまばたきもせずに一心にニナを見つめている。

 この目だ。この強くて優しい目に何度も救われた。


「訳もわからずドラゴンになって、皆が怖がって近づかない中、アスラン殿下だけが私を信じてくれて優しくしてくれて、本当に嬉しかったんです」


 ずっと信じ続けてくれた。それが、どれほど心強かったか。ありがたかったか。本当に――。


 「あなたは本当に大事な人です」


 またもやドランだった時のクセが抜けず、心の声が口に出ていたようだ。

 その事に気付いたのは、アスランがこらえきれないといったように片手で顔をおおい、その場にしゃがみこんだ後だった。


 アスランはそのまま、もう片方の手で銀髪をグシャグシャにかき回している。まるで込み上げてきた想いをうまく発散できないというように。


「あの……」


 恥ずかしさよりも、ずっと髪をかき回し続けているアスランの見た事もない姿の方が心配で、ニナも同じようにしゃがみこんだ。

 そして目線を会わせて――やっと気付いた。


 実にめずらしい事に、アスランは耳まで真っ赤に染まっていた。

 顔をかくしているので表情はわからないが、おそらく顔も真っ赤になっていて、ニナが、いや他の誰もが今まで見た事もないような表情をしているのだろうとわかった。


 呆気あっけにとられるニナの前で、アスランが心の内をなぞるように口を開いた。


「――俺は普段から、どちらかと言うと落ち着いている方だと思うんだ。元々の性格もあるが、そうあろうと思っているし、実際そうしている」


 何の話だ。訳がわからないが、それでもその通りなのでニナは「はい」とうなずいた。


「だから、その、こんなに焦った事は、ここ最近、いや、けっこう前からないわけで」

「はい」

「だから、何が言いたいかというと、君はどうしてこんなにも俺の余裕をなくすのかって事で」

「……すみません」

「いや、謝る必要はない。そういう意味ではなく――」


 言葉を切ったアスランがようやく顔から手を離してニナを見つめた。

 何を言われるのかと目をぱちぱちさせるニナに以前のドランが重なったようで、アスランは思わずといった感じでふき出した。


 緊張の糸がとけた二人の間を、風がゆるやかに吹き抜けていく。

 アスランが微笑んだ。


「俺も大事だよ。ドランだった時も、そして今のニナも、とても大切に思っている」



 * * *


 馬車が城の別棟に近付くにつれて、ニナはワクワクする気持ちを抑えきれずに何度も窓の外を見た。


 しばらく実家に里帰りして、心配してくれた家族に、元に戻った姿を見せに行ってきたのだ。けれどドラゴンと入れ替わった事は秘密にした。娘ではなくドラゴンの世話をしていたのだと知ったら、せっかく体調が戻った母親もまた倒れかねない。


 アスランが持たせてくれた大量のお土産と一緒に、ニナが笑顔で家の中に入ると、家族も使用人たちも泣き崩れんばかりに喜んだ。

 事前に元のニナに戻ったと手紙を出しておいたせいか、母親はすっかり元気になり、父親もなくなってしまった髪の毛は元通りにはならなかったようだが、半分になっていた体は元通り丸まるとしていた。


 しばらくのんびりと実家で過ごし、再び城に戻るニナを見送りながら父親が微笑んだ。


「アスラン殿下には本当に感謝しかないよ。心の底から笑って帰ってくる娘に『おかえり』が言えて、また心の底からの笑顔の娘を送り出せるなんて、親としてこんなに嬉しい事はない」



 ニナを乗せた馬車が別棟の前庭へと到着した。アスランと隊長、副隊長、そして騎士コンビが並んで出迎えてくれている。


「ご家族は喜んでいたか?」


 おだやかな笑みを浮かべた隊長に「はい、とても」とニナも笑顔で答える。

 金髪ルークがニナをじっと見つめた。


「本当にニナさん……だよな? 戻ってくる途中に、またどこかのドラゴンとぶつかって中身が入れ替わったりしてないよな?」

「お前は何を言ってるんだ」


 呆れた顔をする黒髪トウマにルークがつっかかる。


「だって、わかんないだろ!」

「いや、わかるだろ!」


「大丈夫だよ」とニナは笑った。その隣で、おもむろに隊服のポケットを探りだした副隊長に


「入れ替わっていませんから」


 と先制すると、副隊長は残念そうな顔で取り出した紙袋を再びしまった。


「仕方ない。本物のドランにやるか」

「そうしてください」


 ドランには戻ってきたら揚げ鶏を作ってあげると約束してある。きっとニナの帰りを待ちわびている事だろう。

 そして


「ニナ」


 アスランが微笑んだ。

 ドラゴンだった時からずっと見てきた、ずっと元気づけられてきた、あの優しい笑みで。


「おかえり」


 おだやかな声音が心に染み入るように届く。一番、聞きたかった言葉だ。


「ただいま」


 あふれるほどの幸福な気持ちが込み上げてきて、ニナは心の底からの笑顔を向けた。


 少し顔を上げると緑の中にたたずむ別棟が見える。草木の生い茂る中庭、清潔な台所、大きな寝台がえられた寝室。そこには騎士隊員たちがいて、ドランがいて、そしてアスランがいる。

 温かな場所にいる、温かな人たち。


 ここ以上の場所はどこにもない。

 ドラゴンだった時から変わらず、今もこれからも、とても大切な場所だ。

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