26 ドラゴン、令嬢に戻る
意識を失いそうになったニナは「シャー!」というドラゴン令嬢の叫び声でハッと我に返った。
こめかみを殴られて頭がクラクラするし、目も痛む。しかしだいぶ煙は薄くなってきていて、部屋の中央で人影――無精ひげを生やし薄汚れた服を身にまとった男の腕に、令嬢が噛みついているのが見えた。
「何だ、この女は!?」
うろたえたように男が思いきり腕を振り回し、力ずくで令嬢を床に放り出す。
床に激突し、それでも態勢を立て直して目をらんらんと光らせて男を見すえてくる令嬢に「くそ、何なんだよ……」と男が心から気味悪そうな声を出す。
「ギシャ!」
駆け寄ろうとしたニナだが頭がクラクラしてうまく前へと進めない。背後にいた男の仲間がふらつくニナの背中を蹴り、縄をかけようとした。
「おとなしくしろ! 目当てはお前だけなんだから」
「何をモタモタしている。早くドラゴンを縛って連れ出すぞ!」
なぜ自分を――ドランを狙うのか。
この男たちは先程「王都内の森で逃げられて以来」だと言った。ドランはこの男たちから逃げていたのだ。だから一匹きりで森にいた。その途中でニナとぶつかって体が入れ替わったのだ。
この男たちは逃げたドランを連れ戻しに来たのだ。
「ニナ、大丈夫か! 今、行く!」
扉の外側からアスランたちの声と扉を壊そうとしている激しい音が聞こえる。男たちが焦ったように小型の剣を抜いた。と同時に令嬢が闘争本能むき出しにして男たちに向かって行った。
(ダメだ……!)
ドラゴン令嬢が殺されてしまう。何とかして止めようと、ニナはもがいて縄を体から振り払い、令嬢目がけて全力で走った。
「開いた!」爆音とともに扉が壊され、アスランや騎士隊員たちが室内に飛び込んできた。剣を構えた男たちと、そこに突っ込んでいくニナと令嬢の姿が目に飛び込んできたのだろう、アスランの「待て、行くな!」と悲鳴混じりの大声が響く。
すさまじい形相で突っ込んでいく令嬢の前に、ニナは体勢を崩しながらも間一髪立ちふさがった。そこへ令嬢が飛び込んでくる。
全てがほんのまばたきする一瞬に起こった事なのに、その時の光景はやけにゆっくり動いているように見えた。
すぐ目の前にある令嬢の顔。頬についた一かけらの泥、何重にもシワのよった眉間、燃えるような勢いを秘めた茶色い目。そして、その目の中に映るドラゴンのニナの姿。
(あの時と一緒だ……)
ニナは息を呑んだ。思い出したのだ。王都内の森でぶつかる直前にも、ドランの鋭い目の中に映る自分自身の姿がはっきりと見えた。
ふれ合えるほど令嬢の顔が近付く。頬の毛穴さえ見えるほどだ。そして――。
すさまじい衝撃とともにニナと令嬢の頭がぶつかった。
* * *
「――ナ! ニナ!」
必死で呼びかけてくるアスランの声が聞こえる。ニナはうっすらと目を開けた。ニナが横たわっていたのは応接室の固い床だった。
令嬢と頭同士がぶつかって気を失っていたようだ。
激しく痛む頭を押さえながらゆっくりと上半身を起こすと、部屋のすみに、縛られてふてくされたような顔をしている男たちと、それを取り囲む騎士隊員たちが見えた。
そしてニナのすぐ隣に、こちらに背をむけたアスランがいて「ニナ、大丈夫か!?」と必死に向こう側に呼びかけている。その呼びかけている先には――目を閉じたドランの姿。
(……え?)
頭の中が混乱した。それでも一生懸命ドランに向かって呼びかけるアスランに、それは私じゃない、と伝えようとして
「私じゃない」
言葉が出た。驚いて口元を押さえた手は柔らかかった。続けてさわった頬も。ドラゴンの固いうろこにおおわれた皮膚ではない。
(戻った……の?)
慌てて髪の毛や肩や腰をさわる。見下ろすとスカートのすそから二本の白い足がのぞいていた。
人間だった。元の令嬢の姿だ。
(戻った!)
嬉しいような信じられないような様々な感情が一度に込み上げてきて息がつけない。
(待って。私が戻ったという事はドランも――)
床に片膝をついたアスランが見下ろす先でドランがぴくりと身動きし、うっすらと目を開けた。
外見は凶暴なレッドドラゴン。そして中身は――。
「良かった、ニナ!」
心底ホッとしたように笑顔になるアスランをドランが見すえた。ふれたら切れるような凄みが赤い両目に宿っている。
「ニナ? どうかしたのか?」とアスランが、いぶかしげな顔をしながらも手を伸ばした。その瞬間
「シャ――!!」
腹にズシンと響く咆哮をあげたドランが噛みつこうと大きく口を開けた。
「ドラン、だめ! やめて!」
ニナはありったけの大声を出して、アスランとドランの間に立ちふさがった。ドランの赤い口内と鋭い歯が間近に迫り、生暖かい息が顔にかかる。全身の毛穴がぶわっと開いた気がした。
(噛まれる!)
恐ろしくて冷や汗が滝のように流れてくる。それでも、ここをどく気はない。アスランを守るのだ。ニナは覚悟を決めて目を閉じ顔をそむけた。
けれど覚悟していた、鳥肌がたつほどの痛みも衝撃もこなかった。
「……?」
恐る恐るニナが目を開けると、ドランがフンフンとニナの顔や体の匂いをかいでいた。ニナの髪の毛にドランは鼻をくっつけて不思議そうに首をかしげる。続いてニナの胸やお腹の匂いをかぎ、再び不思議そうに、きょとんとした顔でニナを見つめた。
前にもこれと同じような事があった。
(さっきまで自分の体だったから、私の匂いを覚えているんだ)
同じ匂いのする仲間、といったところだろうか。ドランがニナの隣でおとなしく体を丸めた。
(良かった。本当に死ぬかと思った……)
安堵のあまり膝から力が抜けて座り込んでしまったニナの背後から、アスランのぼう然とした声が聞こえた。
「もしかして元に戻った……のか?」
振り返り、目が合う。
ああ、アスランだ。無事で良かった。ニナは泣き笑いの表情で「うん、うん」と何度もうなずいた。
アスランが目を見開き、まじまじとニナの顔を見つめて、そして、こらえきれないといったように笑い出した。
「――すまない。ドランの時と笑い方が同じだから」
どういう事だ。歯をむき出しにして笑ってなどいない。言われた意味が分からず目をぱちぱちさせるニナを見て「やっぱり同じだ」とアスランがつぶやいて笑いをこらえている。
何なのだ。元に戻ったというのにドラゴンの時と同じとは納得いかない。
やがて笑いのおさまったアスランがニナを見つめた。これまで見てきたドランをニナの中に確認するように。深い青い目がゆっくりと微笑む。
「良かったな」
短い言葉だが込められた思いは深い。
ニナは何度もうなずき「ありがとう」と笑った。
「おい、これは何だ?」
副隊長の鋭い声が飛んだ。振り返ると、捕らえた男の上着のポケットに入っていた物を、副隊長が見つけたところだった。
手のひらくらいの大きさの赤い物で先端に穴を開けて麻ひもを通してある。一見するとお守りのようだが違う。何かわかった瞬間、ニナは息を呑んだ。
第一関節から切り落とされた爪のついたドラゴンの指先だった。ドランの指よりかなり大きいから、大人のドラゴンのものだろう。ドランと同じく皮膚が赤い。まさか――。
剣呑な顔つきになる副隊長たちに男たちは焦ったのか、顔をゆがめてわめいた。
「違う! それは確かにそこのドラゴンの母親のものだが、俺たちが殺したんじゃない! フエル山のふもとで偶然その母子を見つけた時は、母親はすでに死んでいたんだ。嘘じゃない。だいたい母親が生きていたら、とてもじゃないが子供のドラゴンなんてさらってこられない。凶暴なレッドドラゴンなんだぞ!」
口角から泡を飛ばしながら必死に話す様子は、嘘をついているとは思えない。
「本当だよ! 病気か事故かは知らないが母親はすでに死んでいた。そのドラゴンが鳴きながら死んでいる母親にすがりついていたんだ。――子供のレッドドラゴンなんて滅多に手に入るものじゃない。裏で高値をつける買い手はいくらでもいる。しがない盗賊の俺たちにもようやく運が向いてきたと思って――」
「どこかに売るためにドランをさらったのか。母親の指先を切り取ったのは記念のためか?」
副隊長が吐き捨てるように言って、再び男たちを見すえた。
「そしてドランを運んでいる途中、王都の森付近で逃がしてしまったと。そういう事か?」
「そうです」と、うなだれる男たち。
「そしてアスラン殿下がドランを保護したと聞いて、連れ戻すためにあの魔術師を脅して城内に入り込んだと」
蒼白な顔で壁際に立ち尽くしていた若い魔術師がビクッと体を震わせた。「申し訳ありません!」と床に頭がつきそうなくらい頭を下げる。
ひたすら頭を下げ続ける魔術師をじっと見ていたアスランだが、やがて視線を外して「その男たちを連れて行け」と騎士隊員たちに命じた。「城の衛兵に引き渡せ」
縄で縛られ、のろのろと立ち上がる男たちが、ちらりとドランを見た。悔しさと未練が入り混じったような目だ。彼らにとってドランは高値がつく、ただの商品なのだ。
引き連れられていく男たちにアスランが微笑んだ。ニナがドラゴンより怖いと何度も思った、あの優雅な微笑みだ。
「ドラン」とアスランが呼んだ。もちろんドランは反応しない。それでも構わずアスランはドランに向かって話し続けた。
「お前は頭のいいドラゴンだ。人間にもなつくし、言葉も理解する。この男たちがお前をさらってきた。顔をよく覚えておけ。いつでも彼らの元に行けるように」
何を言っているのだとニナは呆気にとられた。ドランは人の言葉なんて理解しない。しかしそんな事を知らない男たちは震えあがった。
そうか。ニナは理解した。彼らは噂どおりドランがアスランになついていると思っているのだ。
ニナは隣にいるドランの首筋をそっと押した。するとドランが身じろぎし、ゆっくりと顔を上げた。
彼らには、それだけで充分のようだった。凶暴なレッドドラゴンが自分たちの顔を覚えたと、青ざめた顔にも揺れる目にもはっきりと恐怖の色が浮かんでいる。
「ああ、もう覚えたのか。さすがだな、ドラン。これで彼らが牢に入ろうが、どこかの孤島に流されようが追いかけられる。すぐに体も大きくなるしな」
たたみかけるアスランはとても楽しそうだ。
男たちが何とか顔をかくそうとするが両手が縛られているため、うまくかくせない。冷や汗をかきながら必死に体ごとそむける彼らの顔を、隊長と副隊長が後ろから無理やりドランに向けて固定するので、彼らは悲鳴まじりのわめき声をあげた。
引きずるように男たちが連れて行かれた後で、副隊長から渡されたドラゴン母の指先をアスランがドランの前にそっと置いた。
ドランはむくりと起き上がり、床に転がった指先に鼻を近づけた。途端に勢いよく鼻をくっつけて匂いをかぎ出した。切り取られてからだいぶ日数が経っている。母親の匂いが残っていたとしても、かすかだろう。それでも、かけらでもいいから懐かしい匂いをかぎたいというように、必死に鼻を動かす。
そして「シャー……」と小さく鳴いた。
「シャー……シャー……」
いつもの激しい鳴き声とは全く違う、胸を締め付けられるような悲しげで切ない響きだった。母親を恋しがって泣く子供そのものだ。
ドランは一匹ぼっちなのだ。母親を失った時から、今もずっと。
たまらなくなってニナはドランを抱きしめた。途端に「シャー!」とドランがキバをむく。なつかしい母親の事で頭が一杯で、ニナの事が抜け落ちてしまったかのようだ。けれど。
ニナはゆっくりとドランのあごの下部分をなでた。ドラゴンだった時は爪をたてないように、そろりそろりとなでたものだが、今は違う。ぐりぐりと分厚い皮膚を強く押すようになでた。
ここにいる。ここにいるよ、と教え込むように。
ドランがゆっくりと口を閉じた。ゆっくりとまばたきをしてニナをのぞきこむ。きょとんとした顔は、目の前にいるニナがさっきまで自分の姿だった事に気付いているのかまではわからない。
それでもニナは笑った。涙のたまった目で笑って、ドランの太い首を強く抱きしめた。
「一緒にいよう。お母さんにはなれないけど、仲間になって、友達になって、ずっと一緒にいよう。『体を分け合った』仲間だもの。またお風呂で体を洗ってあげる。揚げ鶏だっていっぱい作ってあげる。今度は体が大きいから、もっとたくさん作るよ。おかわりもね」
言葉が通じたとは思えない。それでもドランは応えるように、かすかに目を細めて「シャー」と鳴いた。
それだけで充分だった。ニナはもう一度、ドランの首をぎゅうっと強く抱きしめた。




