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23 ドラゴン、令嬢を洗う

 翌朝、ニナが洗濯物の入ったかごを運んでいると黒髪トウマに呼ばれた。


「ドラン、一緒に来てくれ。あの令嬢が大変なんだ!」


 急いで駆けつけると、奥庭にある畑の中にドラゴン令嬢が泥だらけで寝転んでいた。あっけにとられるニナの前で、令嬢は楽しそうに泥の中をゴロゴロと転がっている。


「畑の作物に水をやっていたら、突然この令嬢が走ってきて泥の中に飛び込んだんだ。後は見ての通り。俺はこの令嬢の中身がドラゴンだとわかっているからいいけど――」


 言葉をにごしたトウマの視線の先には、気味悪いを通り越して怯えたように顔を引きつらせる他の騎士隊員の姿があった。

 泥の中を嬉々として転げまわる十八歳の令嬢の姿は、確かに恐ろしいかもしれない。


 ニナは泥の中に注意深く足を踏み入れた。


「ギシャシャ!」


 服も髪の毛も泥だらけの令嬢の腕をつかんで立たせようとするが、嫌がった令嬢が「シャー!」とニナの足に噛みついてきた。痛くはない。けれど突然噛みつかれた事でニナは体のバランスを崩してしまった。


「ギャギャー!?」

「わあ、ドラン!」


 朝の平和な風景の中、ドラゴンと人間の叫び声が響く。

 ニナは両手をバタバタさせて必死で持ちこたえようとしたが、健闘むなしく万歳の恰好で泥の中に突っ込んだ。



 風呂場の洗い場でざっと泥を洗い流した後、湯を張った広い浴槽にニナとドラゴン令嬢は並んで、つかった。

 壁にも湯船にも小さく砕いた宝石が埋め込まれている。ニナだけなら外に置くたらいで充分だけれど、さすがに令嬢は無理だ。


 ぬるめの湯がたっぷりと入った浴槽の中で、令嬢はあごが隠れるくらい深くつかり、気持ち良さそうに目を閉じている。水が苦手ではないらしい。

 ニナはその姿をじっと見つめた。


 令嬢の着替えなどはニナが行っているが、何しろすぐ逃げ出そうとするので手早く着替えさせなければならない。ゆえに元の自分の裸をまじまじと見るのも久しぶりだ。


(少し、やせた気がする)


 お腹や太ももなどが以前よりも引き締まっている。常にじっとしていないドラゴン令嬢の動きのたまものか、それともそこら辺に生えている草や何やを食べてお腹を壊すからなのか。そう考えると、あまり嬉しくない。


 そして日焼けした顔や腕。足についた細かな傷は気付くと靴をはかせてはいるが窮屈きゅうくつなようで、すぐに脱いでしまうからだ。

 仕方ないか、とニナはあきらめの息を吐いた。


 洗い場でまずは自分の体を洗ってから令嬢を呼ぶと、令嬢はニナの手にある石けんを見て、ぷいと顔を背けた。そのまま湯船の中を泳いで逃げようとしている。石けんは嫌いらしい。


 ニナは力ずくで令嬢を捕らえると、石けんを泡立てて令嬢を洗い始めた。「シャー! シャー!」と激しく暴れるが容赦はしない。力の強さが違うのだ。

 絡まった髪の毛の間に入り込んでいる泥を丁寧に洗っていると、やがて観念したのか令嬢がおとなしくなった。


 ふとここへ来たばかりの頃、中庭でお風呂代わりのたらいに初めて入った時の事を思い出した。

 どうして自分がドラゴンの姿になってしまったのか見当もつかず、周りはニナを敵視する人たちばかりで、とても不安だった。そこへアスランが来て体を洗ってくれたのだ。


 知っている人は誰もいない、味方もいない、孤独で将来も見えなかった状況で、アスランが向けてくれたあの優しい笑顔は唯一の救いだった。


(このドラゴン令嬢はどうなんだろう?)


 ドラゴンはある程度体が大きくなるまでは母親がそばを離れず面倒を見ると聞く。このドラゴンはまだ成長途中なのに母親は一緒ではなかった。王都内の森で他の、しかも大きなドラゴンが発見されたら話題になるだろうから、元々一人――一匹ぼっちだったのだろう。


 突然ドラゴンの姿になってニナもずいぶん戸惑ったけれど、ドラゴン令嬢もニナの家族に面倒は見てもらえても、知らない場所で知らない人たちに囲まれて心細かったのかもしれない。


 もう一人の自分を見ているようで、愛しいような切ないような気持ちが込み上げてきた。ニナはそっと令嬢の頭に手を伸ばした。

 なでようとしたのだが、途端に令嬢が「シャー!」と威嚇いかくしてきた。


 考えた後、ニナは令嬢のあごの下へと手を伸ばした。親戚が飼っていた犬は、あごの下あたりをなでられると気持ちよさそうに目を細めていたものだ。もちろんドラゴンが一緒かはわからないけれど。


 爪を手のひらの中に丸め込んでケガをさせないように、令嬢の柔らかいあごの下をゆっくりとなでる。令嬢は目を見開きピクッと震えて、そして大人しくなった。

 気持ち良さそうというよりは困惑のあまり静かになっただけとも考えられるが、少なくとも嫌がってはいない。


 ニナは爪で傷つけないように気をつけながら、そろそろとなで続けた。


 あの時、アスランがニナに笑いかけてくれて心底嬉しかったように。せめて今、ドラゴン令嬢の気持ちがほんの少しでも楽になればいい。そう願いながら。


 ゆるやかな静けさの中、天井から湯面にピチャンと水滴が落ちる音がくっきりと響いた。



 湯からあがり、令嬢に服を着せてから丁寧に髪をクシでとかす。令嬢は吠えも暴れもせず、おとなしくしている。ニナは微笑んだ。


(静かだとかわいいな。……自分の姿で何だけど)


 その時クシが令嬢の絡まった毛先に引っかかった。何とかして、とかそうと頑張るが、絡まった髪になかなかクシが通らない。


「シャー!」


 髪を引っ張られて痛かったようで、怒った令嬢がニナの腕に噛みついてきた。


(はかない、かわいさだったわ……)


 ドラゴンの筋肉質の腕にガジガジと噛みつく令嬢から目をそらし、ニナは遠い目で窓の外に広がる緑を見つめた。




「アスラン殿下がお待ちです。どうぞ」


 太陽が頭の真上まで登った頃、白いひげを生やした魔術師がニナたちの待つ応接室へとやって来た。


 昨日と同じくニナとアスランが並んで座り、令嬢は室内をウロウロと歩き回っている。魔術師はドラゴンが縄で縛られてもおらず、なおかつソファーに行儀良く座っている姿に衝撃を受けた様子だったが、アスランの説明が終わる頃には平然とした表情を取り戻していた。

 むしろ、どこか達観しているような余裕ある態度に、元に戻す魔術を知っているのかもしれないとニナの期待は高まる。

 しかし


「そんな魔術はありません」


 きっぱりと言われて、身を乗り出していたニナはそのまま床に倒れそうになった。


「私はずっと魔術を研究しております。このロサリオ国だけでなく近隣国に伝わる様々な魔術にも通じているつもりですが、そんな魔術は聞いた事がありません。そもそも医術や祭司事に関わらず、そんな術が存在するのなら私はとっくに殿下のような美男子と入れ替わって、何人もの美女をはべらせておりますよ」


 冗談とは思えない真剣な口調に、アスランが返事に困っている。


(存在しないんだ……)


 ニナは目の前が真っ暗になった。

 自分たちが入れ替わったのは本当に偶然の産物だったのか。


(元に戻れないかもしれない……)


 両手で顔をおおう。希望の糸がちぎれて、どこかに飛んでいってしまったような気がした。


 魔術師が口を開いた。


「失礼ですが、殿下は令嬢とドラゴンの中身が入れ替わったなどと本気で信じておられるのですか?」


 王族相手とは思えない口調の鋭さに、ニナははじかれたように顔を上げた。

 魔術師は視線をそらす事なくアスランを見つめている。まるで「正気か?」と問うているようだ。


 緊迫した空気が流れた。

 息を呑むニナの隣で、アスランもまた魔術師から視線をそらす事なく、きっぱりと答えた。


「もちろんだ。信じている」


 途端に大きな音をたてて魔術師が席を立った。


「まさか聡明と名高いアスラン殿下が、そんな突拍子もない事を言いだすとは思っておりませんでした。……残念です」


 隠す事なく侮蔑を頬ににじませて、魔術師は大股で部屋を出て行く。


(どうしよう。私のせいでアスランの信用がなくなってしまう……)


 焦るニナにアスランが微笑んだ。


「俺なら大丈夫だよ。心配ない。それより他の方法を考えないと――ハンネス、何か意見はあるか?」


 扉の前に立っていた隊長は首をひねって考え込んだ後、自信なさげに言った。


「そうですね。素人の考えですが……頭がぶつかって中身が入れ替わったのなら、もう一度全力で頭をぶつけてみたらどうですか?」

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