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18 ドラゴン、暴れそうになる

 トビアスを見た瞬間、全身の血液がサッと引いたような、そんな感じがした。心臓の鼓動が耳の近くで聞こえるほど激しくなる。

 婚約破棄された日の事を思い出すと、心の柔らかい部分を素手で容赦なく捕まれたように震えが走った。


 トビアスが馬車から降りてきた。変わっていない。真面目そうに見える身のこなしも、正直そうに見える薄っぺらい笑顔も。


 ドラゴン令嬢は馬車の車輪が地面を蹴る大きな音に驚いたようで、固まったように止まっている。しかしトビアスは自分の制止で逃げるのをやめたと勘違いしたようだ。もともと細い目がさらに満足げに細くなった。


「そうだよ、ニナ。逃げる必要はない。何度も言っているが、あの女と浮気をしたのは間違いだった。僕はどうかしていたんだ。生まれてきた子供は肌も目も真っ黒な明らかに異国の子供だった。君が言っていたとおり僕の子ではなかったよ。あの嘘つき女は赤ん坊ともども追い出した。泣いてすがってきたが僕をだましたんだ。いい気味だよ」


 善人にしか見えない顔で、気持ち良さそうに笑う。

 自分がだまされていた事には強い憤りを感じるのに、自分がニナをだましていた事は何とも思っていないのか。


 トビアスがゆっくりとドラゴン令嬢に近付いていく。小さな子供の機嫌をとるような、まるで、わがままを聞いてやっているのだと言わんばかりの表情で。


「もう、いいだろう? 君が僕の気を引こうと、おかしくなったふりをしているのはわかっている。もう、いいんだ。僕にふさわしいのは、やはり君だ。元通り婚約者として過ごしていこう」


 何を言っているんだ。そんな都合のいい話があるかと、全身の血が沸騰したかのように煮えたった。


 トビアスは自分がニナをだましたと、傷つけたとわかっているのだ。わかっていて許してもらえると思っている。もしかしたら許してもらう必要なんてないとさえ思っているかもしれない。

 ニナがお人よしだから。トビアスの言う事をおとなしく聞くと思っているから。ニナ自身の意見なんてなくて、あったとしてもひどくちっぽけなものだと、そう思っているから。


 なめられている。そうわかった瞬間、激しい怒りと体を引き裂かれるような強い悔しさが込み上げた。


 トビアスに婚約破棄を告げられた時、怒れば良かったのだろうか。泣いて、わめいて、殴りでもすれば良かったのか。

 そうしていれば何か変わったとでもいうのか。


 夢見ていた、あるべきはずの未来を粉々に壊されてニナはひどく傷ついたというのに、どうして更に傷つけられないといけないのだろう――。


「さあ、ニナ」


 花壇のわきに咲くタンポポをむしり取ってモシャモシャと食べているドラゴン令嬢の腕を、トビアスがつかもうとする。


(嫌だ。さわらないで!)


「娘から離れなさい!」


 ニナの気持ちを代弁したように、戸口で金切り声をあげたのはニナの母親だった。心労のあまり寝込んでいたのか寝巻姿で髪もぼさぼさだ。化粧けのない青ざめた顔は、質素ながらいつも身ぎれいにしていた母親とはまるで別人だ。


「誰のせいで娘がこんな風になったと思っているの! あなたのご両親が誠心誠意、謝ってくれたから今まで黙っていたけれど、もう我慢の限界ですよ。恥を知りなさい!」


 子爵夫人にあるまじき格好で、それでも玄関先に仁王立ちして髪を振り乱し叫ぶ姿は、貴族の外聞よりも娘のためを思う母親そのものだった。

 ニナはぐっと唇をかみしめた。そうでないと泣いてしまいそうだったから。


 しかしトビアスはそんな母親や父親を見て、あろう事か馬鹿にしたように鼻で笑った。


「勘違いをしているようですが、僕の父は伯爵で、あなたは子爵です。チェスが趣味という事で友人になったと聞いていますが、そもそもの爵位が違いますよね。父は友人だからと、あまり気にしていないようですが、僕はそこはきちんとしておくべきだと思います。まあ簡単に言えば身の程を知れ、という事ですね」


 あまりな言葉に両親がサッと青ざめた。兄も真っ赤な顔で体を震わせている。悔しいのだ。心底、悔しくてたまらないのに事実なのだ。言い返す事ができない。


「ギシャ――!!」


 ニナは茂みのかげから勢いよく飛び出した。薄笑いを浮かべるトビアス目がけて走る。

 どうかしようとまでは考えていなかった。ただ今すぐトビアスの口を閉じさせたかった。ニナだけならいざ知らず、大事な家族をこれ以上傷つけたくない。


「うわああ! ドラゴン!?」


 怒りの形相で現れたドラゴンに、トビアスもニナの家族も使用人たちも悲鳴をあげた。一斉に逃げ惑うが、腰が抜けて座り込み泣き叫ぶ者もいる。ただでさえ怖ろしいドラゴンが殺気をふりまいて襲ってくるのだ。


 後から思い返すと、とんでもない事をしたなと背筋がゾクリとするが、この時は家族を守りたいとそれだけしか考えられなかった。


 顔をゆがめて立ちすくむトビアスが目の前に迫り、ニナは鋭い爪を振り上げた。トビアスののど元から、か細い悲鳴がもれる。


(私、何をしてるの!?)


 ハッと我に返ったが、振り上げた手はすでに勢いがついていて止まらない。


(だめだ……!)


 トビアスの顔の肉をえぐる直前、ニナの体に何重にも太い縄がかかった。そのまま勢いよく引っ張られ、重い地響きとともにニナは頭から後ろに倒れた。


「間に合った……」


 息を切らせて、うめくようにつぶやいたのはアスランだった。

 そして、その背後には第二王子付きの騎士隊員たち。


「大丈夫か? 手荒な事をしてすまない。――でも良かった。人に危害を加えたら、もう俺の力では手元に置いておけなくなる……」


 心底ホッとしたように、アスランが片手で口元をおおう。その手が細かく震えていた。

「良かった」と確認するように小さな声で何度も繰り返すアスランに、ニナの全身から力が抜けた。


 心配してくれたのだ。ずっと本気で心配してくれていたのだ。


 ニナは地面にあおむけに倒れたまま「ギシャー……」と泣いた。

 トビアスに選ばれなかった自分が情けなくて、そう思う必要なんてないと頭ではわかっていても心がついていかなかった。


 でも、そんな情けない自分でも心底、心配して駆けつけてくれる人がいる。思いやってくれる人がいる。

 こんな幸せな事ってない。


 ニナのごつごつした頬に流れる涙を、アスランが優しくぬぐう。


「寝室で木板を見つけたよ。最初は半信半疑だったが、隊長のハンネスがこれはドランの字だ、ドランがこうして文字を刻むのを実際に見た事があると言った。それでアベーユ子爵の屋敷を探したんだ。ドランが来ているだろうと思って」


 縄の先端を持った隊長が、相変わらずのしかめ面でうなずいた。さっき暴走したニナを止める時は容赦なかったが、今はニナの体を締め付け過ぎないように縄をゆるくしてくれている。


 その隣で複雑そうな顔を向けてくる副隊長を見て、ニナは慌てて「ギャギャギャ!」と指さした。副隊長は宰相と組んでアスランの敵になっていたのだ。

 焦るあまり文字で伝えようと、とっさに考えつかず、ニナは顔と両手と、しっぽまでブンブン振り回して「あの人、裏切り者ですよ」を伝えようとした。


「違うのに」と副隊長がボソッとつぶやいた。ちょっと寂しそうだ。

 アスランもニナの意図がわかったようで苦笑しながら言った。


「誤解だよ。副隊長のマーセルは俺の味方だ。宰相と組むふりをしていただけだよ」

「ギャ?」



 ――今回の事件は隣国アストリアが仕掛けた事だった。

 アスランがドランを手懐けたと聞き、脅威に感じた隣国はドランを奪おうと企んだのだ。


 その実行犯として当たりをつけたのがレモネ侯爵家だ。レモネ前侯爵の未亡人は隣国の出身で、なおかつ息子のダニエルはロサリオ国の宰相の恋人だった。利用すれば情報も引き出せるし、城内にも容易にもぐりこめる。


 アスランがドランを決して城の別棟から出さないため、ダニエルは別棟内でドランに子供を襲わせ、北方の地へと移送される過程で奪おうとした。


 しかし失敗に終わり、焦ったダニエルは隣国側のパイプ役の者たちと、別棟内に乗り込む事にしたのだ。

 レモネ侯爵家内で舞踏会を開き、アスランとお付きの騎士隊員たちを未亡人が引きとめている間に、ドランを気絶させて運び出す計画だった。


「宰相は隣国と直接は関与していないが、ダニエルが何をしようとしているか薄々、感づいていただろう。それでもダニエルをかばうために、背格好が似ている副隊長のマーセルを、かくれみのにしようとした。いざとなったらマーセルに罪をかぶせるつもりでいたんだろうな」


 良くも悪くも、宰相は恋人ダニエルを愛していたのだ。


 アスランは隊長の子供たちの事件の後で真相に気付いた。

 そしてダニエルたちを油断させようと、副隊長に宰相と仲間になったふりをさせた。

 そして当日、別棟内を手薄に見せかけるため、ほとんどの騎士隊員たちを連れて舞踏会へと出かけた。しかし実際は武装した兵士たちを張り込ませておいたのだ。


 計画はうまくいった。だが、ただ一つの誤算はニナが副隊長が裏切ったと勘違いして逃げてしまった事だ。

 アスランたちは焦った。行方を示唆する木板を見つけるまでは――。




「犯人たちは城の衛兵に引き渡した。隣国アストリアはあくまで彼らとの関係を否定するだろうが。トカゲのしっぽ切りだよ。しかし牽制にはなる。うちのサディストな外交大臣が喜んでいたよ。これで優位に外交を進められる。隣国が何か言ってきたらネチネチといびってやるとな」


(そうだったんだ……)


 アスランは全てわかっていたのだ。わかって、前もって罠を仕掛けていた。


(私の早とちりだったんだ)


 アスランたちの手をわずらわせてしまった事が申し訳なくて、ニナは体を縮めた。

 そして副隊長に向かってペコペコと何度も頭を下げた。縄に絡まれたドラゴンの精一杯の「誤解してしまって、ごめんなさい」だ。


「ドラン――いや、ニナ?」


 不意にアスランに名を呼ばれて、ニナは飛び上がるくらい驚いた。


「本当はニナ・アベーユなんだろう? 木板に書いてあった」


 うつむいて両手を強く握りしめる。アスランの言葉の続きを聞くのが怖くてたまらない。

 嫌われたら、疎まれたら、どうしよう。想像すると心が張り裂けそうだ。自分の中でアスランがとても大きな存在になっていた事を改めて思い知った。


 二人の間を沈黙が流れる。


 やがてその沈黙に耐え切れずニナが顔を上げると、アスランの深い青い目がニナをとらえて微笑んだ。


「これからもどうぞよろしく、ニナ」


 優しい笑顔は以前と何一つ変わらなかった。ニナの中身が人間だと知る前と、これっぽっちも。


 涙で視界がかすむ。

 ドラゴンになって出会えたのがこの人で本当に良かったと、そう思った。

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