13 ドラゴン、洗濯をする
その日の夜、ニナは寝室で、城の本棟へ行ったアスランの帰りを待った。ついに「自分は本当は人間だ」と打ち明けるのだ。
(大丈夫……だよね?)
緊張し過ぎて、のどがかわく。枕元のテーブルに用意しておいた水差しを両手で持って、中身をザザーと口に流し込んだ。
窓の外は真っ暗だ。吸い込まれるような闇を見つめていると不安が増した。アスランの目の前で文字を刻まないときっと信じてもらえないだろうから、同じくテーブルに置いた木板にはまだ何も書いていない。
信じてもらえるだろうか。
そして信じてもらえたとして、今後も今までと変わらない態度で接してもらえるのだろうか。
(……わからない)
全く、わからない。心をえぐるような不安が込み上げてきて強く手を握りしめた時、扉が開きアスランが入ってきた。
「ドラン、まだ起きていたのか?」
深い青色の目が軽く見開いた後で、優しく笑う。寝台の端に腰を下ろし小さく息をついて襟元をゆるめるアスランの仕草に、いつもならドキドキして目をそらしてしまうのに、今は緊張でそれどころではない。
「どうかしたか?」
アスランが心配そうに眉を寄せた。
ニナは黙って木板を取るとアスランの前に置いた。そして大きく深呼吸をして爪で一文字目を刻もうとしたところで――扉がノックされた。
「アスラン様、ちょっとよろしいですか。見て頂きたいものがあります」
顔を出したのは隊長だった。真剣な表情だ。
「すぐに戻るよ」
笑顔で言い残してアスランは再び扉の向こうへと消えた。
残されたニナは拍子抜けしたような安心したような複雑な気持ちで、天井をあおいだ。
(仕切り直しだ)
そして眠い目をこすりつつアスランを待ったが、一向に戻ってこない。頑張って我慢したがいつの間にか眠っていたようで、気がつくと朝だった。
(ええ!?)
急いで寝台を見たがアスランの姿はない。しかしシーツがしわになっていて寝た形跡はあるから、朝早くニナを起こさないようにそっと部屋を出たのだろう。
(今夜、頑張ろう……)
寝過ごしてしまったドラゴンは、窓の外に広がる緑を見て萎えそうになる心を奮い立たせた。
辺りに石けんの匂いが漂い、七色に光る泡がいくつも空中ではじける。
井戸の横で両足を投げ出して座り、ニナは洗濯をしていた。洗濯室から持ってきたたらいの中で、大きなシーツに粉石けんをふりかけて洗濯板でせっせと、こするドラゴン。
アスランや騎士隊員たちの洗濯などは少数の使用人が行っているのだが、彼らは極力ニナと会わないようにしているようで顔も良く知らない。しかしそれはニナのせいなので、せめて手伝えるところは勝手に手伝っているのである。
背中を丸めて無心に洗う。最初のうちは爪で引っかけて布地を破いてしまったものだが、だいぶ力加減もわかってきた。こすっているとシミのついた台拭き布も真っ白になっていく。楽しい。
誰もいないからいいかと、泡だらけになりながら好きなだけニヤニヤしていると
「何だあ?」
と驚いたような声が降ってきた。
(人がいたんだ!)
慌ててきょろきょろと見回すと、長い髪を後ろで無造作に一つに結び隊服を着崩した青年が通路の入口に立って、目を丸くしてニナを見つめていた。
確か騎士隊の副隊長、マーセルといったか。西方のギアナ砦からこちらに戻って来たばかりだと騎士コンビが噂をしていた。けだるげな雰囲気をただよわせているのに、どこか品の良さを感じさせる不思議な青年である。
「話には聞いていたが、ドラゴンが本当に洗濯しているとはな」
呆気に取られながらも逃げる気配も敵意を抱く気配も見せない彼を、ニナは不思議に思った。騎士コンビたちからニナの事を聞いていたようだが、凶暴なドラゴン相手に最初から普通に接してくれたのはアスラン以来だからだ。
(いい人かもしれない)
単純にそう思った時、副隊長が隊服のポケットからおもむろに紙袋を取り出した。そして中に入っていたビスケットをニナに向けて軽く左右に振る。何をしているのかと、きょとんとなるニナに
「よーし。来い、来い」
チッチッ、と唇と舌を使って音をたてて呼んできた。
(――前言撤回)
犬と間違えているのではないか。失礼な。凶暴で怖ろしいレッドドラゴンは、そんなビスケット一枚ではつられないのだ。
ぷいと顔を背けて再び洗濯に取りかかると、違ったかという感じで副隊長がしゃがみこんで土を堀り始めた。
「ビスケットは嫌いなのか。じゃあミミズでも取るとするか」
虫嫌いなニナは一瞬で青ざめた。急いで逃げようとした直後
「ほーら、食べるか。おいしいぞ」
うにょうにょとうごめくミミズを投げられかけて、ニナは驚きのあまり手にしていた、すすぎ中のシーツを地面に落としてしまった。
「ギャ!?」
「あ」
せっかく洗ったシーツが無残にも土にまみれる。ショックでぼう然となるドラゴンに、副隊長は特に気にする様子もなく首をかしげた。
「ミミズも嫌いなのか。変なドラゴンだな」
「マーセル、やめろ。ドランは虫が苦手なんだ」
アスランが現れて、副隊長に向かってため息をついた。
「どうも、アスラン殿下」
「久しぶりだな。少し、やせたか?」
「ギアナ砦でこき使われたものですから」
「そりゃ気の毒だ。ギアナ砦の駐隊長に、マーセルがそう言っていたと報告しておいてやろう」
「さすが殿下。ありがたい事をしてくれますね」
屈託なく笑いあう二人。
(仲がいいんだ)
驚くニナにアスランが言った。
「マーセルはグラネルト公爵の次男で、俺の祖父とマーセルの祖母がいとこで遠縁にあたる。年齢も三歳違いで近いから、幼い頃からよく一緒に遊んだ仲なんだ」
副隊長の、軽い印象の中にどこか品の良さを感じるのはそのせいなのだ。
「しかし昔から殿下の事を良く知っている俺でも、ドラゴンを保護したと聞いた時は驚きましたよ。しかも妻にしたとはねえ。城内で噂になっていますよ」
「そうか」
「しかし始めは反対派ばかりだった重鎮たちが、殿下が見事ドラゴンを手なずけていると聞き、さすがアスラン殿下、我が国の大きな力になる、これで隣国アストリアを出し抜けると、ドラゴンの保護に賛成する者も出てきたとか」
「そうか」
アスランが苦笑した。
「反対派が大弱りだそうですよ。特に反対派を率いる――」
「宰相か」
「そうです。ドラゴンが人になつくわけがない。アスラン殿下の安全のためにも今すぐ遠くへやるべきだと息巻いているそうです」
「俺をダシに使うか。相変わらず、かくれみのを使うのが好きな人だ」
薄く笑う。美形の冷たい笑顔は迫力がある。
副隊長がちらりとニナを見て続けた。
「でもまあ宰相に賛同するドラゴン反対派が大半ですよね。この国の重鎮たちは保守的だから。殿下も反抗ばかりしていると危険な立場になりはしませんか」
副隊長にまた意味ありげな視線を送られて、ニナの心がすうっと冷えた。
自分のせいでアスランがつらい立場になっていると、本当はここにいてはいけないのだと、心の片すみでわかっていた。だけど他に行くところがなくて、あえて目を背けていたのだ。優しさに甘えていた。
ニナには何も返せない。ドラゴンとしてアスランになついたとしても、しょせん本物ではない。ニナのために力を尽くしてくれるアスランに何も返すものがない。
無力感と苦い思いが込み上げてきて、両手をぎゅうっと強く握りしめた。
申し訳なさ過ぎてアスランの顔が見られない。
うつむくニナの元へとアスランが近付いてきた。下からゆっくりと見上げてきた青い目が優しく揺れる。
「ずっとここに、いて良い。俺がそう望んでいる」
涙がこぼれてニナは唇をかみしめた。
この笑顔をずっと見ていたい。どんな形でもいい。それだけで充分、幸せでいられる。




