1 令嬢、ドラゴンになる
アベーユ子爵の末娘、ニナは良く「お人よし」だと言われる。人が良くて素直。それゆえに要領も悪く、よく外れくじを引いてしまう。
今がまさに、その時だった。
「君との婚約を破棄したい」
婚約者のトビアスにそう言われて、ニナは頭の中が真っ白になった。これは夢だと思いたいのに、テーブルをはさんで座るトビアスの隣にはお腹の大きな女性が寄り添って座っている。
「見てわかると思うが、彼女は妊娠している。僕の子だ。君には悪いと思うが、そういう事だから仕方ない。僕の事を真剣に思ってくれるなら、いさぎよく身を引いてくれ」
何て勝手な言いぐさなんだと心は憤慨しているのに、あまりのショックで言葉が出ない。
伯爵家の子息であるトビアスとニナは幼い頃からの婚約者同士だ。良くも悪くも堅物で真面目なトビアスをずっと信頼していたのに、トビアスは堅物でも真面目でもなかったようだ。
本当に人を見る目がないと情けなくなる。でもそんなトビアスをニナはずっと慕っていたのだ。
「君は親が決めた婚約者だ。容姿も普通で悪くはないし、性格もおとなしくて素直で不満はないが、特に魅力もない。隣にいる彼女を初めて見た時、世界が変わったような気がしたんだ。ものわかりのいい君ならわかってくれるだろう?」
ええ、わかりますとも。ニナは心の中でうなずいた。豊満な体の半分もおおえていない薄い布地の服と、上目づかいをしながらトビアスの体や太ももをベタベタとさわる、そのわざとらしい色気にやられたんですね。
目の前の妊婦は誇らしげにお腹を突き出して
「妊娠百日目なのよ」
とニナに見せつけるようになで回す。
決して納得したくないが、心のどこかで完全な敗北感があった。だって妊娠していたら、もうダメでしょう。
「……わかりました」
涙と屈辱をこらえて、言葉をしぼりだす。きっぱりと言ってやりたいのに、かすれたような声しか出ないのが悔しい。
ニナの心の内がわかったように妊婦がクスッと笑った。優越感しかない「クスッ」に怖ろしいほどの鳥肌がたつ。
震える足で立ち上がった瞬間、ふと気付いた。
「……妊娠百日目と言いましたよね? でも薄月の時期――七十日くらい前から最近まで、トビアス様は隣国に行っていて、この国にいませんでしたよね? その間、一度戻っていらしたのですか?」
「いや、一度も戻ってきていないが」
なぜそんな事を言いだすのかと不審げなトビアスの隣で、笑っていた妊婦がサッと青ざめた。やっぱり。ニナは確信した。
トビアスが不満そうに顔をゆがめた。
「それは関係ない話だろう。彼女は百日前に妊娠したのだから。僕に未練があるのはわかるが、引き留めようとしても無駄だよ、ニナ」
「――出産経験のある私の姉二人に聞いた事があります。妊娠百日目というのは百日前に、その……致して、できた子ではありません。致した日からおよそ十五日後、毎月の血のものがこないとわかった時で妊娠六十日目と数えるのです。これは妊娠した女ならば、お医者に教えられて必ず知っている事実だと」
トビアスは馬鹿にしたように鼻で笑っていたが、妊婦のこわばった顔を見て不安になったらしい。嫌らしい笑いが消えた。
「つまり、その方のお腹にいる子供は、今から五十日前くらいに致してできた子供、という事になります。でもトビアス様はその時期、隣国に行っていて、ここにはいなかったのですよね?」
「嘘だ! 君は嘘をついている! 彼女が僕を裏切るなんてありえない!」
蒼白な顔で、それでもニナに怒りを向けるトビアスに、ニナは何もかも放り出して叫び出したくなった。でも、これだけは言っておかないと。ニナはトビアスを見すえた。
「私の言葉が信じられないというのなら、お医者にでも、あなたのお母様にでも確かめてみたらいかがですか?」
絶句するトビアスに、妊婦が「違うのよ。これは何かの間違いで……」と、すがりついている。
「どういう事だ。僕の子ではないのか!?」
トビアスの大声を背中で聞きながら、ニナはそっと部屋を出た。
妊婦の子供がトビアスの子供ではないにしろ、トビアスが浮気をしたのは事実だ。そしてニナをちっとも愛していなかった事も。
後ろ手に扉を閉めた瞬間、大粒の涙があふれた。
森を抜ける馬車の中で、ニナは大声で泣いた。心の底から悲しい時は本当に心臓が破けそうになるのだな、と思いながら。
どうしよう。両親に何て説明しよう。悪いのはトビアスなのに、まるで自分の価値がなくなったように思われるのが悔しくてたまらない。
その時
「うわああ―!」
御者の悲鳴と、何か大きなものが走って向かってくる重い足音が響き、その何かが勢い良く馬車にぶつかった。
「きゃああ!」
馬車が横倒しになり、はずみで扉が開いてニナは地面に投げ出された。その何かがニナに向かって飛び込んでくる。赤いうろこの生えた大きな体。鋭いキバ。ニナの頭とそれの頭が勢いよくぶつかり、ニナは気を失った。
* * *
気が付くと、ニナはこのロサリオ国城内にある奥庭にいた。国王や王太子といった王族、重臣たちや騎士や魔術師、国中の重鎮たちが顔をそろえている。
彼らが一心に見つめる先には頑丈な檻が置かれていて、ニナはそこに入れられていた。
いや、正確にいうと、中身がニナのレッドドラゴンを、である。
一対の大きな翼と太いしっぽ。短い手足の先には長く鋭い爪。いかつい顔とキバと、見すくめられたら体が震えあがるほど鋭い眼。
背丈はニナの倍くらいだが、数あるドラゴンの中でも特に凶暴と名高いレッドドラゴン。それが今のニナの姿だ。
(どうして、こんな事に……)
森で気を失った事は覚えているが、目が覚めたらドラゴンになっていた。わけがわからない。けれど夢ではない。
冷たい石の床にしょんぼりと座り込み、体を丸めてうつむくニナドラゴン。背中が寂しい。
(私、どうなるんだろう……)
「まさか王都内の森でドラゴンが見つかるとは」
「重大な被害がなかったのが奇跡だ。早く北方の果ての地へと送ってしまおう」
(嘘でしょう!?)
そんなところへ連れられたら二度と戻ってこられない。裏切られて婚約破棄されてドラゴンになって。どうしてこんな悪い事ばかり続くのか。
「ギシャ――!!」
ニナは叫んだ。「助けて」と言いたいのに、ドラゴンの体ではどう猛な鳴き声にしかならない。
檻の中で暴れるニナドラゴンに、彼らが怯えたような非難するような目を向けた。
「おお、怖い。早々に送ってしまえ」
(嫌だ! 助けて!)
「お待ちください」
落ち着いた声がして、ニナは涙にぬれた顔を上げた。
このロサリオ国の第二王子、アスラン・ルイ・フォン・ロサリオだ。二十二歳で、銀色の髪に切れ長の青い目、端正な顔立ちに、細身ながらしなやかな筋肉のついた体。聡明で剣の腕もたつと、国中の若い女性たちから大人気な人である。
アスランがニナに優しい笑みを向けた。
「怯えているのは、そのドラゴンの方みたいですよ。俺が面倒を見ましょう。そのドラゴンを俺にください」