だけど誰かに恋をする
私が恋人を作った理由は、右手が空いたままだと寒かったから。それだけだった。
「愛とか恋だとか、分からないよね」
私は同じブレザーを着た親友、由紀にそう告げた。彼女の手には流行のカラフルな配色のティーンズ向け雑誌が開かれている。
「そうかなぁ。本当にドライだよね、美弥は」
「だって目に見えないでしょ? 形に出来ないでしょ? そんなものが、どうして実在するって言えるの?」
その言葉に大きなため息をつく由紀。
「そんなこと言われても……美弥だって彼氏がいるじゃない。雅哉くん。だったら分かるでしょ?」
そう。雅哉はこの冬、私の幼馴染から彼氏へと昇格した。らしい。
「分からないよ。だって、私が雅哉と一緒にいるのは……」
一緒にいるのは空いている手が寒くて、暖めて欲しかったから。それだけだった。
「お疲れ、美弥」
今日も私の高校の前で雅哉が待っていた。わざわざ彼の高校が終わってから来てくれている。
「ほら美弥、早く行きなよ。あたしは一人で帰るから」
由紀に背中をつつかれ、私は一歩踏み出した。
「帰ろっか」
私はそれだけを言うと、雅哉の横を通り過ぎた。後ろを追いかけてくるのが分かった。
「寒いね」
雅哉の声。そこには少しだけ不安な要素が含まれている。
「そうね」
そう言っていつもの通り、左手はポケットに入れたまま右手を差し出した私。その手と雅哉の左手が重なる。大きくて暖かい手。
「今日さ、ウチの英語の授業でさ……」
何かを話しかけてくるが、私はその大半を適当な相槌で受け流す。正直どうでもよかった。
雅哉の家は私の家の向かいにある。おかげで、小学校、中学校と同じだった。小学校も高学年になると子供っぽいクラスメートから冷やかされたりもするけれど、私達はいい友達だったと思う。
それが終わったのは、高校進学のとき。雅哉は私と同じ高校を受けたけど、落ちて併願の私立に行くことになったのだ。そもそも、彼の成績からすると危ない橋だった。
絶対に美弥に追いつくから、という訳の分からない言葉と共に、雅哉の存在は私の中からはフェードアウトしていった。はずだった。
「美弥、俺と付き合ってくれ」
そう告げられたのはつい二ヶ月前。学校を違えた私達を取り持つものはメールくらいしかなかったが、その状態でいきなりそう言われた。徒歩数十秒の距離を乗り越えた彼は玄関のチャイムを押し、私を呼び出してそう告げたのだ。
「ダメだって言ったら?」
「もう付きまとわないよ。きっぱり諦める」
それはつまり、私ともう関わらない、ということだろう。そして、なぜだか私はそれが嫌だった。だったら、答えは一つしかなかった。
「いいよ」
そう口にすると、雅哉の顔は途端に明るくなった。
「ほ、本当に?」
「ええ」
「じゃ、じゃあ、俺、今から美弥の彼氏になれたんだね! 嬉しいよ!」
何をそんなに喜んでいるのだろう。別に格上げって訳でもないだろうに。私が好きだとは一言も言ってないのに、私はただ、縁が切れるのが嫌で選んだだけなのに。
「明日から毎日、美弥を迎えに行くよ!」
そういい残すと雅哉は自分の家へと戻った。私はただ、その場に立ち尽くしていた。
そしてその言葉の通りに、雅哉は翌日から毎日、私の通う高校の前で待つようになった。
「だから別に、彼氏だからって何か変わるわけじゃないと思うのに……」
家のベッドに仰向けに倒れる。そう。変わったのは一緒に帰るか帰らないか。それだけ。
「美弥、ご飯よ」
一階からお母さんの声が聴こえたので、私は自室を出て、階段を下りる。
「今日はビーフシチューよ」
いい匂いがキッチンからリビングまでしていた。
「そう。手伝う」
私は皿を並べたり、ご飯をよそったりする。兄弟のいない私の家は、食卓に着くのは私とお母さんだけ。遥か前には三人だったけど、大喧嘩の末離婚した父はもういない。
その日のシチューは美味しかったはずなのに、どこか味気なかった。
……いや、本当に美味しかった夕食を食べたのはいつだっただろうか……。
部屋に戻ると、スマホの着信ランプが点灯していて、手に取るとメールが着ていた。
〈今日は寒かったね。お互いに風邪をひかないようにしよう。また明日〉
雅哉からだ。なんて返信していいかわからない私は、それをベッドに投げ出す。
「……どうしたらいいんだろう」
こんな面倒なことをしなくちゃいけないなら、ずっと友達でよかったのに。幼馴染でよかったのに。……でも、それならなんで告白を断らなかったのだろう。
答えが見えないまま、私はお風呂に入るために着替えをタンスから出した。
「おはよー!」
翌日の朝の教室。既に登校していた由紀が私を見つけると挨拶してくれた。
「おはよう。寒いね」
そう返して、由紀の後ろ……窓際の一番後ろの席にカバンを置く。窓の外の景色は葉が落ちた木で溢れていた。
「美弥はいいじゃん。ラブラブだから寒くないでしょ?」
「寒くはないけど、そんなんじゃないよ」
そうとしか言えなかった。そして、それが何故か少しだけ悲しかった。
その日もつまらない授業が続き、そして終わる。部活に入っていない私は早々に教室を由紀と共に後にした。
「今日は早かったね」
校門の先には今日も雅哉が立っていた。
「雅哉くん、いつも来て大変じゃない?」
今日は由紀が冷やかしてきた。
「大丈夫です。俺はこの学校の生徒じゃないから分からないことも多いけど、美弥のことよろしくお願いします」
雅哉が由紀に深々と頭を下げた。
「本当にいい彼氏じゃん。いいなぁ」
耳打ちしてきた由紀。けれど私にはどんな感情も浮かばなかった。
「じゃあ、帰ろうか」
それだけ伝えると手を差し出した。それを握り返す雅哉。その手はやっぱり、暖かかった。
今日はお母さんはパートに出ていて、暫く戻らない。学生カバンから家の鍵を取り出すと、ドアノブに差し込んで回す。
「美弥、今日は一人なのか?」
気が付けば向かいの自宅に帰ろうとしていた雅哉が振り返っていた。
「そうだよ。よかったら、遊びにでも来る?」
「いいの?」
「別にいいよ」
荷物も置かないまま、雅哉はすぐにウチに来た。
「寒いね」
私の部屋に入って、エアコンをつける。暖房が効くまでには少しだけ時間がかかる。
「暫くぶりに来たよ。美弥の部屋」
「そういえばそうだね。別に変わってないでしょ?」
「いや、なんだか違う気がする」
私はベッドに、雅哉は床に腰掛ける。近いようで遠い。きっとこの距離が私達の距離なんだ。
「美弥、その」
「なに?」
「いや……なんでもない」
私は立ち上がり、雅哉の隣に座った。驚いた顔の雅哉。
「こうしたかったんでしょ? 違うの?」
「いや、そうだけど……」
でもそれきり、私達は動きすらしなかった。ただ隣にいて、呼吸をするだけ。
「キスとか、したい?」
「えっ……?」
「いいよ。しても。彼氏と彼女はするんでしょ?」
雅哉はとても困った顔をした。はじめて見る表情だ。
「したくないって言ったら嘘になる……いや、はっきり言うとしたいよ。だけどなんか今するのは違う気がする……」
「そう」
それきりまた会話も無くなって、無機質なエアコンの駆動音だけが部屋に響いた。
「……美弥、俺のこと、好き?」
誤魔化すことも出来るけど、今は正直に答えるべきだと思った。
「分からない」
「そう……か。そんな気はした」
「うん。ごめん」
雅哉が大きく息を吸って、少し唇を噛むのが分かった。
「なんで、俺と付き合ってくれたの?」
「寒かったから。寒いのは嫌だから。一人になったら寒くなるから」
きっと訳が分からないと思う。だけど彼は頷いた。
「分かった……俺、卑怯だったかもしれない」
本当に分かってくれたのか、そうでないのか、それを知る術は無い。
「逆に訊くよ。雅哉は私のどこがいいの?」
「全部」
驚くぐらい一瞬で回答が返ってきた。
「……そう」
私は私のいいところが分からない。むしろあるのだろうか。
「染めてない長い綺麗な黒い髪も、少し高めの背も、大きな瞳も、小さな唇も、頭いいところも、全部好きだよ」
私の心を見透かせるのだろうか。なんだか少しだけ暖かくなった、気がした。
「でも、一番は……今もそうだけど、悲しそうで、綺麗なその表情が一番好きだ」
雅哉は耳まで真っ赤にしてそう言ってくれた。
「恥ずかしいの?」
「ちょ、ちょっとだけ……」
なら言わなければいいのに。ちょっとじゃないくらいに真っ赤になってるけど、それは言わないでおいた。
「雅哉は愛とか恋とか、信じるんだね」
「そう……だね」
そしてまた、少しだけ困った顔。
「私は分からないんだ。由紀にも言われたけど、おかしいのかな?」
「おかしいなんてことはないよ。人の数だけ考えとか、感じ方はあると思うし」
はっきりとした口調でそう言ってくれて、少しだけ楽になる。
「ありがとう」
昔、本気で悩んだことがある。借りた少女漫画に描いてある事が全く理解できないから。私は、そういうのが欠落しているのだと。欠陥品ではないのかと、思ったことがある。でも今、雅哉はそれを否定してくれた。
「雅哉、左手、出して」
黙って従ってくれた彼の手に、私のそれを重ねる。
「暖かいね」
結局それ以上もそれ以下もなく、私達は一時間ぐらい、隣に座って手を重ねたまま過ごしていた。
「もしかして昨日雅哉くんと何かあったの?」
翌日私が学校に行くと由紀がにやにやと笑いながらそう尋ねてきた。
「なんで?」
「いや、カマかけただけ。ってことは、あったんだ」
失敗。してやられた。
「まぁ、何もなくはなかったかな」
「へぇー……キスとかしちゃったり?」
「してない。手を繋いで、座ってただけ」
「ふぅーん……」
嫌な笑顔のままの由紀。
「いつも帰る時だって手ぐらい繋いでるから別に大したことないでしょ?」
「いやー? でも、大きな進歩じゃない?」
いったい何が進歩だというのだろう。そもそも進んでいるのだろうか。そんなことを思いながら、今日も授業が終わる。
「帰ろう、美弥」
今日も雅哉はそこにいた。昨日あんなことがあったのに、まるで何もなかったかのように。
「ねぇ、なんで雅哉は私なんかにそこまでしてくれるの?」
一瞬だけ面食らった顔をした雅哉は、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「俺がしたいからしてるんだ。あと自分をそんなに卑下しないで」
そして手を繋ぐ。ただそれだけ。それだけなのに暖かい。
「あ、あのさ。明日……土曜日だし、どこか行かない?」
その言葉に私より少し上にある雅哉の顔を見上げると、やはり赤くなっていた。
「いいけど」
「ありがとう。それじゃあ、楽しみにしてるよ」
それきりまた黙ってしまった私達は、家までの道程を黙々と歩く。家の前まであっという間についてしまった。
夜。私は部屋のベッドの上に腰掛けていた。
「明日、どんな服着ていこうかな」
クローゼットの中にはあまり種類は多くないけど、女の子らしい服が並んでいる。由紀のセンスだ。
最後に雅哉と一緒に何処かへ行ったのはいつだったろう。ちょっとだけ嬉しい。
「あれ、もしかして私、明日が楽しみなのかな……?」
だとしたら、なんでだろう。その理由も分からないまま眠りについた。
わたしは小さいこどもだった。
おとうさんとおかあさんが大きなこえでなにかをいっていた。
わたしは、みみをふさいでないていた。
それしか、できなかった。
「……っ!」
窓からの光で目を開けると、目元が濡れているのが分かった。やがてさっきまでの光景が悪い夢だと分かる。
「これは……そんな。……そうだ、私は……」
……私はだから人を好きにならないんだ。
「おはよう。美弥」
「おはよう」
家の前で雅哉が待っていた。私はいつも休日に履いているジーンズと暗い色のコートを着ている。
雅哉が何か言っているけど、あまり耳に入らない。私は無心のまま雅哉についていく。駅。電車。街へと。
お昼ごはんの味がしない。そもそも寒さが分からない。繋いでる手の温度を感じない。
気付けば夕方になって、夜になっていた。これ以上味気ないデートもないだろう。
「美弥、もしかして今日嫌だった?」
街から少し離れて、海の見える場所で、綺麗な夜景を見ながらだった。
「別に嫌じゃなかった」
だけど嬉しくも暖かくもなかった。
「そうか……」
手すりに寄りかかる私達。海風が当たって寒い。
「もうそろそろ、帰ろう?」
私はそう告げる。もう、寒いのは嫌だ。
「待って、その前に」
雅哉は私の右手を取った。
「これ、暖かい?」
「ううん」
私が首を振ると、悲しそうな顔をする。そして、小さく息を吸い込んだ。
「……もう、過去に囚われるのはやめよう」
その言葉は、全てを見透かすかのようで、私の背筋が凍りついた。
「私は別に……」
「強がらなくていい。分かってるから」
私の何が分かるのだろう。
「美弥の家のことは知ってるよ。近所なんだから。でも、もう十年近く前の話だ」
そうだ。もうそんなにも前のことだ。だけど。
「だけど、今でも痛いの」
その言葉が口からこぼれた。
「まだ夢に見る。お父さんはお母さんと喧嘩して出て行って、次の日から私の右手を握ってくれる人はいなくなった」
「今は俺がいる」
そう。だから手が冷たくなくなった。でも。
「だけど、きっとまた私は一人になっちゃうんでしょう?」
いつかはお母さんがいなくなって左手が空く。そうしたら、余計に冷たくなる。その時に雅哉は本当に傍にいてくれるのだろうか? 長い間冷たかった右手。今は雅哉が繋いでくれているけど、それは永遠なのだろうか?
「俺は美弥を一人にしない」
「きっとお父さんもお母さんにそう言った」
「美弥の親父さんと俺は違うよ」
そんなの分かってる。だけど、どうやってそれを証明すればいい?
「……ごめん、私、一人で帰る」
後ろで何か雅哉が言った気がするけど、私は振り返らなかった。
電車に乗って、地元の駅まで戻って。そのまま帰る気になれなかったから本屋に寄って。気付けば一時間も立ち読みしていて。けれど本の中身は全く頭に入らなくって。ただ、寒くて。寒くて仕方なくて。
「私、何やってるんだろう……」
もう深夜とも呼べる時間。お母さんに帰りが遅くなることは伝えているけど、正直、家に帰るのすら辛かった。頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。
本屋からの帰り道。もう右手を繋いでくれる人もいなくなってしまったから、手をコートに入れて帰る。
一人がいい。寒くても、一人でいい。だって、何も期待しなければ、何も失わないで済むから。
家の前に着くと、ドアの前に黒い影があった。誰だろう、と少しだけ身構えて向かうと、それは……。
「まさ、や?」
「おかえり」
そこには雅哉がいた。寒さに震えながら、真っ青な唇で。
「何やってるの? 風邪ひいちゃうよ?」
「いいんだ。俺は別に。あんな顔した美弥を放っておけない」
その言葉を聞いた瞬間、私の中が熱くなる。それは怒りなのか、そうでないのかも分からない、ぐちゃぐちゃの感情。
「ば……バカじゃないの? なんでそこまで……私はたんなる欠陥品なんだよ? 雅哉だったらもっといい女の子、沢山いるでしょう?」
「いないよ」
私の言葉をかき消すように、一瞬で返された。
「仮に欠陥品だったとしても、俺は美弥が好きだ。美弥じゃなきゃダメなんだよ」
「なんでそんな……おかしいよ。私は……わ、私は……」
胸が痛い。ああ、私にもこんな気持ちが残っていたんだ。
「もう、いいじゃないか。右手が空いているなら俺が繋ぐよ。もし左手が空いてしまったら……きっと、新しい家族が繋いでくれる」
「でも、でも……!」
信じたい、という気持ちと信じていいのか、という気持ちが渦を巻く。
「俺のこと、嫌いか?」
首を横に振る。
「好きかは分からないけど……嫌いじゃないよ」
「なら、それでいい。それでいいんだ。理由は後付けでいい。なんなら寒いからでもいい」
雅哉は私の前に立つと、左手を伸ばしてくれた。
「だから、よかったら、俺の手でいいなら掴んでくれ」
私はおずおずと手を伸ばし……そして、手と手が触れ合う。寒空の中でずっと私を待っていた雅哉の手は、とても冷たかった。
「今は俺の手の方が冷たいだろ。そういうものなんじゃないのかな。寒いから温めあうんだ。片方がもう片方を。そしてその逆も」
「そう……なの?」
「ああ。きっと」
私は雅哉の手を掴んだまま、自分の頬に寄せる。手はとても冷たくて、そして大きかった。
「冷たいけど、嫌じゃない」
「そうか。よかった」
微笑む雅哉の顔を見ていたら、何故か目じりが熱くなった。
「あ、あれ、私、泣きそう」
「いいよ。泣きたいときは泣けば」
その言葉が引き金になって、私の頬に涙が伝う。体が熱くなる。右手が空いたあの日から幼心に消し去った感情が、飛び出してくる。
「私、大切なものを忘れてた……」
「大丈夫。思い出していけばいい。少しずつ。ゆっくりでいいから」
雅哉が優しく頭を撫でてくれる。
「……胸、借りていい?」
「どうぞ」
私は雅哉の腕の中で小さく目を閉じた。小さい頃は私の方が背が高かったのに、いつからこんなに大きくなったのだろう。そこはとても安心できる場所だった。
人は許されないことをいっぱいして生きていく。エゴを押し付け合い、理解されないと喚きたて、お前なんか嫌いだと残し去っていく。
だけど誰かに恋をする。全く違う二人が一緒に生きていく。その瞬間だけは、きっと罪が償われる。きっと。
「雅哉、ありがとう。私を愛してくれて、ありがとう」
「美弥、応えてくれてありがとう」
胸元から少し顔を出すと、雅哉と目が合った。きっと今の私の顔はひどいと思う。泣いたから目は赤くて、ぐちゃぐちゃだと思う。
二人で少し笑うと、私は目を閉じた。
「美弥……」
小さく彼が呟くのが聴こえた。そして唇に暖かいものが触れる。それは時間にしたら一瞬だったけど、私には永遠に感じられた。
「好き」
そう言ったのは私だったのか雅哉だったのか。どちらでもよかったし、どうでもよかった。
「おはよう、由紀」
私が教室で彼女に声をかける。驚いて振り向く由紀。
「え? ああ、おはよ。美弥。なんか目赤いけど……」
「ああ。大丈夫。ちょっと寝不足で」
大嘘だった。というか、一日経ってもまだ分かるのだろうか。
「ならいいけど。でもなんか今日の美弥、なんだか元気だね。そっちから挨拶してくれたし。なにかいいことあった?」
言われて、私は顔を真っ赤にする。一昨日の夜のことを思い出してしまったから。
「まさか雅哉くんと何かあった?」
楽しそうに訊いてくる由紀。だけど、今くらいはいいかな。
「そうだね。雅哉が彼氏になったよ」
「もとから彼氏彼女でしょ?」
怪訝そうな顔を浮かべる。
「そういう意味じゃないんだけど……でも」
一息ついて続けた。
「確かにいい事はあったよ。もう、右手が寒くなくなった。多分これからずっと」
「よく分からないんだけど……」
「ちょっとした秘密かな」
そう言って、微笑む。
「由紀、ありがとう。雅哉はいい彼氏だよ」
「何それ……ノロケ? どうしちゃったの?」
尚も色々聞きたがる由紀を制しつつ、窓の外を見ると、突き抜けるような青空だった。
これから色々あるんだろうな。喧嘩しちゃったりもするんだろうな。後悔したりもするかもしれない。
恋は人を弱くする。こんなに弱くなってしまうくらいなら、最初から好きにならなければよかったと思うくらいに。
恋は人を愚かにさせる。とても簡単な問いに答えられなくなってしまうくらいに。でも。だけど。
……だけど誰かに恋をする。
それが素晴らしいものだと、知っているから。
(了)
読んでくださりありがとうございます。
賞に出した小説の加筆・修正版となっております。
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二色