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紅蓮姫  作者: 西蜜梨瓜
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前編


「お父様はどちらにいらっしゃるの! お父様、お父様!」

 燃え盛る炎のような真っ赤な髪を揺らしながら、アルテアは厳しい顔付きでドレスの裾を掴んで城内の廊下を駆け抜けていた。その後ろを一匹の小さな黒い犬と彼女の侍女が追いかけていた。

「アルテア様、お待ち下さいアルテア様!」

 侍女が真っ青な顔でアルテアを呼び止めるが、息一つ乱さず走るアルテアとは違い、彼女の方は今にも倒れそうなほど息を切らしていた。

「貴女がお父様の居場所を素直に教えれば、止まってあげるわよ!」

「で、ですから、わたくしは何も存じ上げておりませんと……」

「だったらお黙りなさい!」

 とうとう侍女はその場に蹲った。肩で息をしつつ、遠ざかっていくアルテアの背中を見ながら、ぽつりと呟いた。

「も、申し訳ございません、陛下……」

 脱落した侍女を置いてアルテアが向かった先は、このイルトニアフ王国の国王であるベオニートルの執務室であった。

「お父様! どういうことですか!」

 派手な音を立てて開いた扉の先にいたのは、なぜか父ではなく双子の弟たちだった。

「リン、ラス、どうして貴方たちがここにいるの? いえ、そんなことよりもお父様はどこにいらっしゃるの」

 執務室に置かれているソファに座る二人を見下ろし、アルテアは威圧感たっぷりに言った。

「知らないよ。僕達がここに来た時にはもう父様はいなかったよ。ね、ラス」

 双子の兄アフリンザスが澄まし顔で答える。

「うん、いなかったね、リン」

 双子の弟アフラスタイドも似たような顔付きで答えた。アルテアは瓜二つな二人を交互に観察し、ふっと笑った。

「嘘おっしゃい。リン、貴方が嘘をつくときは、右腕を少しだけ揺らす癖があるのよ。それにラス、貴方は小鼻がピクピク震えるのよ」

 ビクリと双子の肩が揺れる。二人は顔を見合わせ、しまったといった風に顔をしかめた。

「さあ、素直に教えなさい。お父様はどこにいるの?」

 アルテアの気迫に押されつつも、なおも双子は口を割らなかった。

 それに業を煮やしたアルテアは、足元で大人しく座っていた飼い犬のクードに命じた。

「クード、お父様を探し出しなさい」

「わぅんっ!」

 小柄な体を震わせ元気に返事をすると、早速クードは室内を嗅ぎまわり始めた。アルテアはそれを満足気に見つめ、双子はそわそわと落ち着きなく見守っていた。

「うぉん、わんっ!」

 結果は直ぐに出た。執務机の側に近寄ると、クードが勢い良く吠え始めたのだ。

 アルテアが机の後ろに回りこむと、机の下に父でもありイルトニアフ王国の国王でもある、ベオニートルが巨体を縮こまらせながら隠れていた。

 吠え立てるクードを宥め、アルテアは呆れたように父を見下ろした。

「お父様、仮にも国王がそのような場所で、何をなさっているのかしら?」

「ははっ、いやいや、机の下にペンを落としたようでな、それを探していたところなんだ」

 のそりと机の下から這い出すと、ベオニートル国王は腰に手を当て背を伸ばした。

「それよりも、いったいぜんたいどうしたのだアルテア。今日はダンスのレッスンがあったはずだったろう?」

「それどころではありません! あれは一体どういうことですかお父様!」

 バンッと机を叩くアルテアに、成り行きを見守っていた双子の弟達がびっくりしてソファから飛び上がった。

 ベオニートル国王はそれでもなお、とぼけた表情で娘を見下ろした。

「あれとは何だったかな。ふむ、いかんいかん、近頃なにかと物忘れが酷くてな。おっと、そう言えば宰相に用事があったのだ、早く行かねばならん」

 そう言っていそいそと部屋を出ていこうとする父の前に、アルテアはすっと立ちはだかった。

「誤魔化さないでくださいお父様。今朝、私の部屋に何故か花嫁衣装としか思えないドレスが届いたのですけれど、どういう事なのですか?」

「ううん? それは奇妙なことだ。しかし、せっかくだからそれを着るために、そろそろ結婚を考えても――」

「やっぱり! お父様、何を企んでらっしゃるのですか!」

 ギラギラと娘に睨みつけられ、国王はその巨体を情けなくも小さくさせた。

「い、いや、だってな、お前ときたら、いつまで経っても結婚したがらないし、こうなったら無理にでも……」

「無理に? 無理にということは、すでに相手は決まっているということですか?」

 ますます怒りを露わにするアルテアに、気付けば国王は壁際にまで追いやられていた。

「う、うむ……」

 ついに肯定した国王に、アルテアの怒りが爆発する。

「なぜ私に何の相談もなく、そのような勝手なことをなさるのですか!」

 怒りに任せてアルテアが国王の脇の壁に手を着くと、余りにもの勢いと彼女の怪力のせいで、壁に亀裂が走る。国王は背中に冷や汗をかきながら、必死に言い訳を募った。

「仕方ないだろう! お前の言うような男を待ち続けていたら、お前が年寄りになっても見つからんぞ!」

「それの何が悪いのです! 私が望む条件はたった一つです。その一つさえクリアできれば、他はなにも望まないと何度も申し上げているはずです」

「その一つが難しいと言っているのだ! お前に勝てるような未婚の男など、すでにこの国にはおらぬと何度言えば分かるのだ!」

 そうなのだ、アルテアがなかなか結婚しない理由。それは自分よりも強い男と結婚したい、ただそれだけの理由だった。だがそれはとてつもなく難易度の高い条件だった。

 そもそもここイルトニアフ王国では、昔から武を重んじる国民性で知られている。老若男女問わずに、己を鍛え上げることを第一とする国民性であり、戦いに勝利することが何よりも名誉とされる国柄であった。

 その中でも、ロゼア王家の第一王女であるアルテアは、戦いの女神と謳われるほどの強さを誇り、毎年開かれる武術大会では常に優勝という、負け知らずの強さを見せつけていた。

 そんな彼女が望む婚姻の条件、それが自分よりも強い男という、あまりにも高すぎる理想を掲げてきたせいで、気付けばすでに同年代の女性ならば結婚して子供を設けているような年齢になっていたのだった。

「私のたった一つの、ささやかな願いも聞いては下さらないのですね、お父様」

「どこがささやかだ、どこが! お前の理想は山よりも高過ぎるのだ!」

 父親として、決して娘の幸せを願わないわけではない。だが、このまま放っておいたら、自分が死んだ後も独り身でいそうな勢いの娘を見過ごすわけにはいかないのだ。

「とにかく、すでにこれは決まったことだ。相手方からも了承の意をもらっている」

「なんですって? この私と結婚したいという、怖いもの知らずな男性がいらっしゃると?」

 大きな紅い瞳を驚いたように見開くアルテアに、国王は思わず溜息を吐いた。

「自分で言うなアルテアよ。相手にも失礼だ」

「それで、そのお相手とはどこのどなたです?」

 挑発的な瞳で問い返すアルテアに、国王は重々しく告げた。

「ケラビノス王国の第一王太子、ヴァンゲリオス王太子だ」

 アルテアの片眉が大きく跳ね上がった。

「ケラビノス王国とは、あの侵略不可能と言われる北の大地にある、ケラビノス王国のことですか?」

「そうだ、そのケラビノス王国だ」

 ケラビノス王国には謎が多い。切り立った山々に囲まれ、ほぼ一年中雪に覆われた大地にあるその国は、不毛な土地であるはずなのに侵略戦争などを殆ど行わず、他国との国交もあまりない。そこに住む人々も、外へ出ることがあまり無いのか、どういった人々が住んでいるのかもよく分かっていない。

 そんな謎に包まれた王国と、父であるベオニートル国王が、いったいどうして婚姻を結ぶという重要な話しが出来たのか、アルテアには甚だ疑問であった。

「お父様、そのような謎多き国と、いったいどうのようにして繋がりを持たれたのですか?」

「ふふん、それは教えられん。まぁ、私もやるときはやるといったところだな」

 自慢気に胸を反らす父親を、アルテアは胡散臭そうに見上げた。

「ですが……いえ、でしたら尚更このお話しは、お受けできませんわ。強いのか弱いのかも分からぬような、そんな国の王子と結婚なんて、とんでもありません」

 アルテアは再びキッと目尻を吊り上げた。

「我が儘を言うなアルテア。この婚姻はお前一人の話しに収まるものではないのだ。彼の国と国交を結ぶ重要な機会となるやもしれんのだからな」

 そんなことは重々承知である。だが、自分より弱い男と生涯を共にするなどと、考えただけでもアルテアは背筋がぞっとするのだ。

「よいか、これは既に決まったことだ。お前も王族としての勤めを果たすのだ」

 先程までの情けなさはどこへ行ったのか、決然と命を下されれば、さすがのアルテアも言い返すことができなかった。

「よかった、姉上がようやく結婚できそうで」

「そうだね、このままヨボヨボのお婆ちゃんになっても城にいるのかと思ってたよ」

 ことの成り行きを黙って見ていた双子たちが、ひそひそと姉を揶揄した。アルテアはそんな弟達をきつく睨み上げると、父である国王に一礼してから、足音も荒く部屋を出て行った。その後を、彼女の飼い犬クードがちょこちょこと付いて行ったのだった。




「納得なんか、できるかってのー!」

 ぐだぐだとくだを巻きながら、城下にある酒場でアルテアは呑んだくれていた。

 彼女はしばしば町娘の格好をしては城を抜け出し、街を歩きまわったり馬で遠乗りなどをしているのだが、アルテア本人は全くばれていないと信じ込んでいる。だが実際は、彼女の特徴的な赤い髪と瞳で直ぐにばれてしまうのだが、長年彼女を見守り続けてきた街の人達は、知らぬ顔をしてくれているのだった。

「なんだい、アリー。今日はえらく荒れてるねぇ」

「荒れるに決まってるじゃないのよぉ。なによ、この歳で結婚してないのが、そんなにダメだって言うのぉ!」

「おや、結婚するのかい、アリー」

 酒場の店主が驚いた顔をする。回りにいた常連客たちも、一様に同じ反応を見せた。

「したくないの。したくないけどぉ、しなきゃいけないのぉ……」

 グズグズと鼻を鳴らす町娘アリーことアルテアに、皆が仕方ないな慰めていると、彼女の隣に薄汚れたマントを羽織った男が座った。

「いらっしゃい、注文はなんにする?」

 店主がアルテアの隣りに座った男に向かって声をかける。男は鼻を真っ赤にさせて麦酒を飲むアルテアを眺め、自分にも同じものをと注文した。

「このお嬢さんと同じものを……どうしたんだ、お嬢さん。そんなに泣いてちゃあ、折角の美人が台無しだぜ?」

 気障ったらしい台詞にアルテアが伏せていた顔を上げた。そして隣に座る男を不躾なまでに眺め回した。

「あなた、旅の人?」

「あぁ、そんなところだな」

 アルテアは酔いどれながらも、男の腰に下げられている剣を目ざとく見つけ、その使い込まれた得物の様子に、この男はなかなか腕が立つと目星をつけた。男は座っていても分かるほどに体が大きく、なにより目を引くのはその小麦色の肌と黒髪だった。この国の民が持たない色を持つ男を、アルテアは興味深そうに見つめた。

「そうなんだ。この国はどう? あなたが巡ってきた国と比べて」

「そうだな、まずは活気があるのが良いな。どの民もみな、生き生きとしているのが印象的だな。きっと良い王に恵まれたんだろうな」

 そう褒める男に、アルテアは我が事のように嬉しくなり、つい顔が緩んでしまう。

「それに、昼間宿屋で飯を食ったんだが、なかなかに美味かったぞ」

「へっ、美味い飯と酒なら、うちも負けてないよ、旅人さん!」

 そう言って店主が麦酒とつまみをカウンターに座る男の前に並べた。男はまずは麦酒を飲み、満足そうな顔をしたあと、つまみを食べた。

「うん、この店も美味いな。やはり飯が美味い国は、文化が発達している証拠だな」

 豪快に酒を飲み干しつまみを食べる男を見ていると、アルテアも自然と飲むペースが早くなる。

 あっという間に酒を飲み干した男は、隣のアルテアをジッと見つめるとこう言った。

「それに俺が一番気に入ったのは、この国の女は美人だってところだな」

 アルテアは思わずむせ返った。酒のせいではない熱が頬に集まるのを感じ、慌てて頬に手を当てた。

 一体なにを勘違いしているの、この人は別に私の事を指して言ったわけじゃないのに。

「はっはっ! お嬢ってば、顔が真っ赤になってんじゃねぇかい!」

「ちっ、ちち違うわよ! ちょっとお酒が回っただけだから!」

 むきになって言い返すと、店主を含め、周りの客達も囃し立ててくる。そんなアルテアを男は楽しそうに見ていた。

「なぁ、さっき言ってた結婚って話しだが、お嬢さん結婚するのか?」

 男の言葉にアルテアは一気に暗い顔をした。男は片眉を上げて、おやといった風にアルテアを見つめた。

「お嬢さんの顔をそんなにも曇らせるような、酷い相手なのか?」

「嫌かどうかもわからないわ。だって、その国自体がどんな国かも、よく分からないのだもの」

 カップの中に映る自分の顔を見て、アルテアは溜息を吐いた。

「なんだ、お嬢さんは別の国に嫁ぐのか?」

「そうよ、でもしょうがないの。私って女だし、継承……家を継ぐこともできないしさ。そうなれば、出来ることと言ったら、家のためにこの身を差し出すことくらいしか残ってないもの」

 王族としての義務を果たすのは当然であると、アルテアは考えている。だから自身の望む条件が、いかに無謀で浅はかなのかも理解している。けれども王族としてではない、一人の女性としてのアルテアが、嫌だと叫んでしまうのだ。

「お嬢、そんなに嫌だったら、結婚なんて止めちまえよ。家のことなんて気にしないでよ、好きなように生きればいいさ」

 店主が穏やかに言うと、アルテアは顔を伏せて首を振った。

「駄目よ、駄目。そんなこと出来ない」

「なんでだい、お嬢は家があんまり好きじゃないんだろ?」

「そんなことない! 大好きよ!」

 ドンッとカップを机に叩きつけ、アルテアは店主を睨みつけた。店主も隣りに座る男も驚いて目を瞠った。

「私は家を嫌いになったことなんて、一度もない。そりゃ、たまに辛いなぁって思うことはあるのよ? だけど、家で働いてくれる人や、家のために身を粉にして支えてくれてる人たちのことが、私は何よりも大切だし大好きなの」

 酒場の店主も周りの客達も、皆アルテアの言いたいことを理解していた。そして思ったのだ。この強いけれど、少し間の抜けた王女様が、やっぱり好きだなと。

「お嬢、俺たちはいつだって、お嬢の味方だ。もしお嬢が結婚を断って、そのよく分からねぇ国といざこざが起きちまったとしても、俺たちはお嬢のために戦ってやるよ」

「おうともさ。なんせ俺たちはイルトニアフ王国の民だからな! 誰よりも強いんだ、心配すんな」

 そうだそうだと、皆が盛り上がる。既に戦うと言っている時点でアルテアの正体がばれてしまっているのだが、酒に酔っている彼女は全く気付かず、ただ純粋に感動に打ち震えていた。

「うぅ……わたしぃ、この国に生まれてよかったよぉ」

 今度こそ泣きだしたアルテアに、周りの客も店主も慌てて彼女を慰め始めた。

 そんな中、アルテアの隣りに座る男だけは、目を眇めて彼女たちを眩しそうに眺めていた。

「君は……人に恵まれたんだな」

 男がぽつりと零すと、アルテアは涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃになった顔を更に歪めた。けれどその表情はとても嬉しそうに輝いていた。

「そうよ、私って凄く恵まれてるの。この国とそこに住む人たちが大好きなの」

 アルテアはそう言って、残りの酒を一気に飲み干した。

「もう一杯!」

 店主は苦笑しつつも、アルテアの杯に酒を注いだ。アルテアは満杯になったそれを笑顔で隣の男に向けた。

「ねぇ、乾杯しましょう。ここでこうして出会ったのも、何かの縁だわ。さ、ほらほら!」

「それもそうだな、じゃあ、君とこの国に乾杯」

 カチンと軽快な音を立てて杯が酌み交わされる。アルテアは他の客にも同じように乾杯をして回った。

 きっと、大丈夫だ。どんな相手と結婚しようとも、この国の人たちの笑顔を守るためなら、私は頑張れるはず。

 アルテアはいつもよりしょっぱい酒を飲み干しながら、そう思ったのだった。




「アルテア様、起きてください。アルテア様!」

「うぅー、そんなに叫ばないでぇ……頭に響くぅ」

「勝手に城を抜けだして、一晩中お飲みになるからです! まったく、結婚前の淑女がする行為ではありませんよ!」

 侍女が無理やり上掛けを剥がすと、頭を抱えながら体を丸めるアルテアが現れた。

「本当に早く起きて下さらないと、今日はケラビノス王国の方々との会見がございますのに」

「えぇ? そんなの、私聞いてないわぁ……」

「申しました。何度も申し上げました! ですが聞く耳を持たずに城を飛び出したのは、アルテア様でございましょう!」

 侍女に背中を支えられながら、アルテアはようやく上体を起こした。二日酔いでかなり消耗した様子だったが、ケラビノス王国の王太子一行と会見するまでに、なんとかこの酷い状態のアルテアを普段の彼女に近づけなければならないのだ、アルテア付き侍女は他の侍女たちに指示を出しながら、アルテアの身の回りの世話を始めた。

「今日は私こんな有様だから、体調がすぐれないとか何とか言って、会見を延期してもらえないかしら」

「できるわけありません。はるばる北の大地から、わざわざお越しくださっているのに、そのような失礼なこと申し上げられませんわ!」

 アルテアの夜着を脱がしながら、侍女がぷりぷりと怒った。他の侍女が洗面器を持ってきて顔を洗わせようとした時、不意にアルテアが「あっ」と気の抜けた声を上げた。

「なんですか、アルテア様」

「ねぇ、私が昨日来ていた服、どこにやったの?」

「上着以外はすでに洗濯に回しておりますが」

「あぁ、良かった! その上着を持ってきてちょうだい」

 言われて侍女は昨日酔っ払って帰ってきたアルテアが、寝室のソファに放り出したままにしていた上着を持ってきた。

 アルテアはそれを受け取り、なにやら上着のポケットを探り始めた。

「ううん、たしかここに入れたはずなんだけど――あった!」

 ポケットから取り出されたのは、皮の小袋だった。

「なんですか、その袋は」

 侍女が怪訝そうに尋ねると、アルテアはにやりと笑って袋を縛っていた紐を解いた。

「昨日、酒場で出会った旅人がくれたのよね。なんでも、二日酔いに凄く効くらしいのよ」

 そう言って、アルテアは昨晩のことを思い出した。

 旅人と乾杯を交わした後、酒場で他の客もアルテアたちを囲んで大いに盛り上がり、普段の倍以上は酒を飲んだ。

 いつもならアルテアが飲み過ぎる前に酒場の店主が止めるのだが、昨日は彼女が結婚の話しを持ちだしたせいか、せめて独身時代のいい思い出にと、店主も止めずにアルテアに酒を提供し続けた。

 そんな中、旅人がいい気分で客達と飲み交わしている最中のアルテアに近寄り、腰に下げた皮の鞄から小さな袋を取り出して彼女に渡したのだった。

 アルテアは酔いが回って真っ赤になった顔で、不思議そうにその小袋と男を交互に見遣った。

「多分、明日は二日酔いになるだろう。だからそうなった時は、その袋に入っている丸薬を飲んでみろ。あっという間に元通りになるぞ」

「えぇ、本当に?」

「あぁ、本当さ。なにせそれは、俺の国でしか採れない貴重な薬草を煮詰めて丸薬にしたものだからな。驚くほど効くぞ?」

 男が自慢気に言うので、アルテアは小首をかしげて男を見上げた。

「でも、そんなに凄いものを私が貰ってもいいの?」

「いいさ、それくらい。なんせ今日は久しぶりにいい酒を、いい女と飲めたからな」

 口角を上げて男が笑う。改めてその顔を見れば、非常に精悍な顔付きをしているのだとアルテアは気付いた。

「それじゃあ、ありがたく頂くわね。でも、貰ってばかりじゃあ申し訳ないわ。何かお返しがしたいのだけど……」

「気にするなと言ってるだろ? だが、そうだな……俺は暫くの間この国に滞在するんだが、またどこかで出会ったら、この国の案内をお嬢さんがしてくれたら嬉しいんだがな」

「そんなことで良いの? ふふっ、それなら私に任せておいて。あなたにこの国の素晴らしい場所を沢山案内してあげるわ」

「それは楽しみだ」

 アルテアの言葉に悪戯っぽい笑みを浮かべる男に、アルテアは無意識に胸元を抑えていた。男らしい顔付きだが、笑うとどこか少年のようなあどけなさが浮かび、そのアンバランスさがとても魅力的に見えてしまったのだった。

 そんな昨晩の出来事をアルテアが思い出していると、侍女が不審に思って声をかけてくる。

「アルテア様? そんなにもお加減が悪いのですか?」

「ううん、そうじゃない――こともないんだけど、大丈夫よ」

 手の中にある小袋から一粒取り出し鼻先に近づけると、嗅いだこともない強烈な匂いがした。

 思わず鼻を摘んで丸薬を遠ざけたが、昨晩の男の言葉を思い出し、アルテアは鼻を摘んだまま口に丸薬を放り込んだ。

「あ、アルテア様、なにをお飲みになったのですか! そんな怪しげな物を……!」

 侍女が焦るのも仕方ない。仮にも一国の王女が、酒場で出会った旅人から貰った怪しげな薬を、何の躊躇いもなく飲み込んでしまったのだから。

「うぇー苦い! 酷い味だわ」

 ベッドサイドに置かれている水差しからグラスに水を注ぐと、アルテアは急いで口の中を水で洗い流した。

「アルテア様、今すぐ吐き出してください。貴女たち! すぐに医師を呼んでください!」

 慌てふためく侍女をアルテアが制止する。

「待って! 本当に大丈夫だから! これは単なる二日酔いに効く薬……らしいから、心配しないで」

「心配します! いくら毒に耐性があるアルテア様と言っても、全ての毒に対してというわけでは無いのですから……」

 おろおろとする侍女たちをアルテアは何とか宥めすかし、まだ痛む頭と吐き気を覚える胃を抱えながら、着替えの準備を再開させた。

 主に命令されると従わざるを得ない侍女たちは、不安そうな顔を見せつつもアルテアの身の回りの世話をし始めた。

 そうして顔を洗ってドレスを着せられ、鏡の前で化粧を施されている内に、割れそうに痛かった頭の痛みが引き始め、不快感を訴え続けていた胃には、ミントティーを飲んだ時のような爽快感が広がっているのを感じた。

「やだ、なにこれ凄いわ……」

 髪を結い上げられながら、鏡に向かってアルテアはポツリと呟いた。

「や、やはりどこか具合が――」

「違うのよ! 凄いわあの薬。あんなに痛かった頭が、もうほとんど痛くないのよ! それに吐き気も全然しない! 凄い、本当に凄いわ!」

 感動のあまり立ち上がろうとするアルテアを何とか侍女たちは押しとどめ、髪結いの作業を続けた。

「気のせいではございませんか? 先程飲んでから、それほど時間は経っておりませんわよ?」

 胡乱げに侍女が言うが、アルテアはそんなことはお構いなしに喜びと驚きで興奮しきりだった。

「あぁ、あの旅人にお礼を言わなくちゃ。あっ! でも私あの方の名前を訪ねていなかったわ。なんてこと! これじゃあどこの宿に止まっているのかも分からないじゃないの」

 はしゃぐ主人を押さえつけながら、侍女たちは何とかアルテアを着飾らせることに成功した。普段よりもしっかりとした化粧が施され、髪も複雑に結われているのは、もちろん今日会見するケラビノス王国の王太子に会うためのものだった。

 そうして昨日の旅人へと思いを馳せている内に、アルテアは現実に引き戻された。

「アルテア様、ヴァンゲリオス王太子殿下がお見えになりました」

 寝室に現れた新たな侍女が厳かにそう告げると、アルテアの嬉しそうな顔が一気に険しいものへと変わったのだった。




 第一印象は、美しいけれど腹の読めない人だとアルテアは思った。

「お初にお目にかかります、ケラビノス王国第一王太子、ヴァンゲリオス・ユレノール=バジリアスと申します」

 イルトニアフ王国に住む人よりも幾分肌の色が濃いその人は、金色の髪にアイスブルーの瞳を持った美しい男だった。絵に描いたような王子様然とした風貌で、マナーの手本のような美しい所作で挨拶をした。

 相対するアルテアも、優雅な所作で礼をして挨拶を返した。

「遠路はるばる、よくぞ我がイルトニアフ王国までお越しいただきました。私はイルトニアフ王国第一王女、アルテア・レジャール・ロゼアと申します。以後お見知りおきを」

 アルテアは挨拶をしながらも、王太子の後ろに控える人物を見た。分厚いマントを頭まで被り、顔を布で覆ったその人物は恐らく王太子の護衛なのだろうが、その男以外にお付きの者が居ないことにアルテアは驚いていた。

「此度はよくぞ我が国へと参られた。着いたばかりで疲れているだろう、どうぞ暫しの間ゆるりとお過ごしくだされ」

 アルテアの父でもあり国王でもあるベオニートルがゆったりと告げると、ヴァンゲリオス王太子は優美な笑みを浮かべた。

「お心遣い痛み入ります。ですが、私はすぐにでも、アルテア王女を私の国へと連れて帰りたい気持ちで一杯なのです」

「それは早急な。なにか急ぎの用でもおありかな?」

 国王が探るようにヴァンゲリオス王太子を見つめると、王太子はアルテアの方を見て言った。

「急ぎと言うよりも、噂以上の美姫であらせられるアルテア王女を見てしまい、恥ずかしながら心が逸ってしまいまして。直ぐにでも私の妃へと迎えたい気持ちを抑えきれずにいます」

 アイスブルーの瞳を向けられて、アルテアは居心地の悪い思いをした。どうにもこの王太子からは軽薄な印象を受ける。

「はっはっはっ。それは何とも嬉しいことを言ってくださる。今まで娘が独りでいたのも、貴方のような方に出会うためだったのかもしれませんな」

 なにを調子のいいことを言っているのかしら、お父様ったら。アルテアは父親へと詰め寄って怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、王太子の手前大人しく座っていた。

「それでは、明日にでもアルテア王女を伴い、国へと出発しようと思っているのですが、よろしいですか?」

「明日に! それはいくらなんでも早過ぎるというものではありませんかな?」

 明日! なぜこの王太子はそこまで焦って私を国へと連れて帰ろうとするの?

 アルテアの中で疑問と不安が渦巻いた。だから思わず彼女は言ってしまったのだ。

「あの、せめて! せめて、一週間後にある武術大会が終わるまで、お待ちいただけませんでしょうか?」

 ヴァンゲリオス王太子と国王がアルテアを凝視した。

 アルテアは煩いほど胸を打つ心臓を鎮めながら、なるべくゆっくりと言葉を重ねた。

「ご存知でしょうが、我が国は武を重んじ国柄でございます。そしてこの私も、まだまだ未熟ながらも、毎年開かれる武術大会に出場して、武芸の腕を磨いてまいりました」

 国王をちらりと見ると、何を言う気だとあからさまに焦っているのが見て取れた。

 アルテアは苦笑しそうになりながらも、顔を引き締めた。

「せめて最後に、この国に生きる一人の人間として、武術大会に出場してから嫁ぎたいと願っております」

 懇願するようにアルテアは王太子を見つめた。彼は何の感情も伺えないアイスブルーの瞳でジッとアルテアを見据えると、美しい顔に薄く笑みを浮かべた。

「その大会は、私も出ることができますか?」

 思っても見なかった返事に、アルテアどころか国王まで驚いた。

「そ、それは……はい。腕に自信のあるものでしたら、身分に関係なく出場できるようにはなっております。ですが、他国の王族の方が出場できるかは……」

 助けを求めるように国王を見ると、国王は難しい顔をして考え込んでいた。しかし顔を上げると王太子をしっかりと見て言った。

「ヴァンゲリオス殿が腕に自信があると言うのでしたら、出場を許可しましょう。しかし、留意していただきたいのは、この武術大会は刃を鈍らせた武器を用いますが、皆戦の時と同じ気概で闘っております。なので、どのような怪我をするか分かりませんが、それでもよろしいかな?」

「もちろん、私も出るからには勝つつもりでいます。なんの問題もありませんよ」

「よろしい。でしたら、貴殿の出場を認めましょう。そしてアルテアの輿入れは、大会の後ということでよろしいですな?」

「そうなりますね。いいでしょう、私もぜひこの国の民と剣を交えてみたいと思っていたところです。アルテア王女との結婚は、その勝利を持って華を添えましょう」

 なんとも大きく出たヴァンゲリオス王太子に、アルテアは困惑していた。果たして、この見目麗しい男に、大会で優勝できるほどの実力があるのだろうか? それとも、簡単に勝てると思われているだけなのだろうか。

 もし後者ならば、他の誰でもなく、この自分自身でその思い上がりを叩き潰してやりたいと、アルテアはイルトニアフ王国に生きる者らしい気迫に満ちていた。

 そして大会のことの打ち合わせや輿入れの準備について話し終えると、この奇妙な会見は終わったのだった。




 翌日、アルテアは朝早くから城を抜けだそうとしていた。

「うおんっ」

「しーっ! もう、鳴いたらだめでしょ、クード」

「くふぅん」

 城壁をよじ登ろうとしていたところ、どこからか飼い犬のクードが走り寄って来てアルテアに向かって吠えはじめた。どうやら自分を置いて、城を抜けだそうとしている飼い主が気に入らないらしい。

「仕方ないわね、ほらここで大人しくしてたら、連れて行ってあげる。できる?」

 そう言ってアルテアは自分の服の胸元を指差した。クードは言われたとおりに大人しく尻尾を振って了承の意を表した。

 アルテアはクードを抱き上げると服の中に招き入れ、上着をきちんとズボンにたくし込んで落ちないかどうかを確認してから、壁をよじ登り始めた。アルテアが町娘アリーとして振る舞う時、基本的に動きやすさを優先するからズボンを履く場合が多い。ドレスでこの壁をよじ登るのは、さすがのアルテアでもなかなかに難しいからだ。

 なんとか城壁を乗り越えたアルテアは、懐からクードを出してやって地面に置いてから、一緒に歩き始めた。

 アルテアがまず向かったのは、城下で一番人で賑わう泉の広場だった。しかしまだ朝日が登ったばかりの時間だったので、人通りはまばらだった。

 泉の縁に座り、目を閉じる。そうすると、色んな音が耳に届くのだ。井戸から水を汲む音、鎧戸を開け放つ音、朝の挨拶を交わす人々の声、鶏たちの元気な鳴き声、様々な音や声が聞こえてくる。アルテアはこれらの音が大好きだった。この国に住まう人々の命を感じ取れる、そんな優しくも力強い音だからだ。

「おや、随分と早起きだな、アリー」

 突然話しかけられ、アルテアはびっくりして閉じていた目を開いた。

 するといつの間に近づいたのか、目の前に先日の旅人が立っていた。気配には敏いはずなのだが、音に集中していたせいか、男が近づく気配を感じ取れなかった。

「あぁ、旅人さん。びっくりした、いつの間に近くに来たのか分からなかったわ」

「ははっ、アリーがあまりにも気持ちよさそうな顔をしていたから、ついつい声をかけてしまったんだ」

 男はアルテアの隣を指して座っていいかを尋ねると、アルテアは快く隣を勧めた。

「それで、どうしてこんな朝早くに、ここにいたんだ?」

 アルテアの足元で、大人しく座っているクードの首元を指先でくすぐりながら男が聞いてきた。

 その滅多に見れない光景に驚きつつ、アルテアは微笑んだ。

「ここに座っているとね、色んな音が聞けて、とても心地いいの」

「ほう、それはまたどうして?」

「だって、人の営みを感じられるじゃない。生きているって感じられるのが好きなの」

 嬉しそうに通りに立ち並ぶ家や店を見回すアルテアを見て、男はおかしそうに笑った。

「なに、そんなに変なことかしら?」

「いいや、そうじゃない。君はとても素直で優しい心根の人だと思ってね」

 そう言って優しく見つめられると、意識していなくても頬に熱が集まるのをアルテアは感じた。

「そ、それよりも、クードがこんなにも私以外の人に懐くのって、初めて見たわ」

 アルテアは足元で男の手に頭をこすり付けるクードを見下ろして言った。

「そうなのか? こんなにも人懐っこいのに」

「この子はね、基本的に私にしか気を許していなくて、私以外の人が触れようとしても逃げるか威嚇するかのどちらかなのよ。だからあなたはクードにとって、特別な人になったのね」

 クードの頭を撫でてやりながらアルテアは言った。

「それは光栄だな。クード、これからもよろしくな?」

「くふぅん」

 甘ったれた声で鼻を鳴らすクードに、二人して顔を見合わせて笑った。

「ね、この前聞きそびれちゃったけど、あなたの名前はなんて言うの? 私は――」

「アリーだろ? 酒場でみんなが君をそう呼んでいたからな。俺の名前はリオンだ」

「リオンね。それじゃあリオン、改めてお礼を言わせてもらうわ。この前あなたから貰った薬、とってもよく効いたの。本当にありがとう。お陰で失態を曝さずに済んだわ」

 もしあのままヴァンゲリオス王太子と会見していたら、まともに対応できていなかったとアルテアは思った。

「役に立てたようで良かったよ。それで、今日はその礼をしてくれると?」

 にやりと笑うリオンに、アルテアはふふっと笑った。

「えぇ、そうよ。約束だものね。あなたにこの国の良さをもっと知ってもらえるよう、今日は頑張るわ」

「それはありがたい。だがいいのか? 君の貴重な時間を俺のために割いてしまっても」

「大丈夫よ。もう私の予定は大方決まってしまったようなものだから」

 寂しげに告げるアルテアをリオンは怪訝そうに見ていた。だがアルテアはすぐに元の快活な顔に戻ると立ち上がった。

「そろそろ朝市が始まる時間よ。新鮮な食材が沢山市に出されるの。まずはそこから案内するわ」

 そうしてアルテアによるイルトニアフ王国観光案内が始まったのだった。




 様々な場所へアルテアがリオンを案内している内に、気付けば既に昼時になっていた。

 アルテアは露店でラム肉のサンドイッチを二人分買って、リオンに一つ渡した。

「はい、ここのラム肉って凄く美味しいの。ぜひ味わってほしいわ」

「ありがとう。案内してくれた上に、ごちそうまでしてもらうなんて、なんだか少し気が引けるよ」

 苦笑するリオンをアルテアは笑い飛ばした。

「よしてよ! 今日は私の勝手であなたを連れ回しているようなものなんだから。ほら、早く食べましょう」

 二人はベンチに座りながら、早速サンドイッチを頬張った。

「うん、これは美味い。スパイスがよく効いていて、食が進むな」

「でしょ? 私もここのサンドイッチが好きで、よく買いに来るのよね。でも――」

 ふとアルテアの言葉が途切れる。リオンは食べる手を休め、アルテアを伺い見た。

「もう少しで、このサンドイッチも味わえなくなるのよね……」

 この国に生まれ育ち、色んな物に触れてきたアルテアだったが、その全てがあと少しで触れることができなくなる。ケラビノス王国へと嫁ぐということは、つまりはそういうことだった。

「……君は、そんなにも嫁ぐのが嫌なのか?」

 リオンがそっと尋ねた。

「嫌というのは少し違うかもしれないわ。なんていうか……そうね、私はきっと怖いのよ」

 戦いの女神などと持て囃されていても、その中身は普通の女性と変わりないのだ。見知らぬ国へと嫁ぐ不安は計り知れなかった。

「怖い? 相手の男は、そんなにも恐ろしい男なのか?」

「違うわ。それどころか、驚くほど優男なのよ。次から次へと、歯の浮くような言葉を私に言ってくるの。おかしいわよ、この私を見て美しいだのなんだの、お世辞も行き過ぎると失礼だって気付いているのかしら?」

 ヴァンゲリオス王太子のいかにも王子様と言った風貌に違わぬ甘い言葉を思い出し、アルテアはけらけら笑った。

 だがリオンはそんなアルテアをじっと見つめ、ごく自然にこう言った。

「君はどうやら酷く自己評価が低いようだ。アリー、君は俺から見ても美しい女性だと思うよ」

 深い闇色の瞳で見つめられながら真摯に言われてしまい、アルテアは思わず固まった。そして次の瞬間には首まで真っ赤に染まっていった。

「な、なな何を言うの、あなたまでそんな事を言って、私をからかわないでよ!」

 赤い顔を見られたくなくて、慌ててアルテアは顔を伏せた。熱い頬を手の甲で覚ましつつ、ふとリオンの腰に下がる剣を見て、酒場で出会った時にも思ったことを口にした。

「ねぇ、あなたって強いの?」

 唐突なアルテアの質問に、リオンは面食らいながらも真剣に答えてくれた。

「そうだな、何を持ってして強いというのかは俺にはまだ分からんが、腕っ節だけを指すのなら、俺は強い方なんだろうな」

 冷静に答える様子から見ても、恐らくそれは正当な自己評価なのだろう。その泰然とした様子に、アルテアはにわかに心が騒ぎ始めるのを感じた。

 それはイルトニアフ王国の民の性ともいうべき闘争心、それが彼女に訴えかけるのだ。戦いたい、強い相手と戦って勝ちたいと。

 そんなとき、国中に鐘の音が響き渡った。

「変わった音色の鐘だな」

 リオンが不思議そうにその音に耳を澄ましていると、アルテアが説明した。

「この鐘はね、普段鳴らしている鐘とは違う種類の鐘なの」

「それはどういう意味なんだ?」

「この国が武を重んじる国だって、あなたは知っている?」

「あぁ、知っているが」

「毎年ね、この時期になると武術大会が開かれるの。その大会の一週間前になると、毎日この鐘が昼時に鳴らされるの」

 金属の音とは違う、透明感のある不思議な音が辺り一帯に響き渡っていた。

「遠い昔にこの国に武術を広めた旅人がいてね、その人がこの国にある物をくださったの」

「それがこの鐘だと?」

「正確に言うと、巨大な岩石だったらしいの。どうやってこの国まで運んだのかは分からないんだけどね。それで当時の国王が、その岩を職人に命じて、鐘に加工させたの」

「岩を鐘に?」

 疑わしげにリオンが聞くのをアルテアは誇らしげに答えた。

「そうよ。当時国交のあった国からも応援を頼んで、大勢の職人たちがその岩を鐘へと作り変えていったらしいわ。なにせ鉄と同じくらい硬い岩だったみたいで、それはそれは大変な大仕事だったって習ったわ」

 この国に住む人ならば、必ず一度はその話しを教えられるほどの歴史的な出来事だったらしい。

 リオンは感心したようにその鐘の響きに耳を澄ませた。

「きっと当時の国王は、その旅人への感謝をどうにかして表したかったのね。こうして鐘にすることで、その人が伝えてくれた武術がずっと継承されていくようにと願いを込めたのだと思うわ」

「そうだな……その旅人も、きっと喜んでいるだろうさ」

 リオンは空を仰ぎ見た。この国の空はとても深い青色をしていた。

「アリー、その武術大会というのは、俺のような余所者でも出場できるのか?」

 尋ねられてアルテアは目を瞠った。

「出場したいの?」

「あぁ、せっかくかの有名な武の国イルトニアフへと来たんだ、できるならそこの国に住む人たちと一度は剣を交えたいと思ってな」

 口角を上げて挑発的な表情でリオンはアルテアを見た。

「あら、そんなにも腕に自信があるのなら、ぜひ出場を狙ってみればいいわ。ただし、誰でもというわけではないの。明日から大会前日まで、出場希望者の選定が行われるの」

「それは戦えるほどの腕があるかを見定めるためか?」

「そうよ。今までの大会である程度まで勝ち残った記録がある人は、すぐに出場できるんだけど、そうでない人は、まずその選定会に勝ち残ってからというわけね」

「なるほど、それは腕が鳴るな」

 悪戯っぽく笑うリオンにアルテアはまた胸が高鳴りつつ、澄まし顔で彼を見た。

「ちなみに、私も出るのよ。こう見えても私、なかなか強いのよ?」

「へぇ、女性もこの国では戦うと聞き及んでいたが……これは俺も気を抜けないな」

「そうよ、もし大会に出場できたなら、ぜひとも私と戦えるまで、勝ち残ってよ?」

 冗談めかして言うが、内心アルテアはこの旅の男が勝ち残って自分と相対するのを心待ちにする気持ちと、そうなってしまうと自分が王女であることが露見するという事実に、複雑な気持ちを抱いていた。

「あぁ、待っていてくれ。必ず君の元まで辿り着いてみせるよ」

 熱っぽく低い声で告げられ、アルテアはまた頬を染めた。どうしてだろうか、この男といると何故か胸が高鳴り体が熱くなる。

 アルテアは混乱していた。けれど、もしリオンが自分の望むような強い男だったら、それはとても幸せなことであると同時に、どうにもならない未来への傷跡にもなるだろうとも感じた。なぜなら、たとえリオンがアルテアの理想の強き男であろうとも、すでに彼女の夫となる男は定められているのだから。

 アルテアは人生で初めて感じる苦しさに胸を抑えつつ、せめて嫁ぐまではこの男の側に居たいと、願ってはいけないことを願ってしまったのだった。




 武術大会の準備はつづがなく進められていた。一方アルテアは、輿入れの準備に追われていた。

「このドレス、見て下さいませアルテア様。この様な微細な意匠の刺繍は見たことありませんわ」

 溜息とともに侍女たちがヴァンゲリオス王太子からアルテアへと送られたドレスに見入っていた。

「それに所々に散らせてあるこの光る糸も見事でございますね。このような糸、この国にはございませんわ。さすがケラビノス王国ですわね」

 侍女たちが騒ぎ立てるのを横目に、アルテアは窓辺に腰掛けて物憂げに外の風景を眺めていた。

「ドレスなんて貰っても、嬉しくなんか無いわ。そんな物より美味しいお酒を頂いたほうが、よほど嬉しいわ」

「まぁ、なんてことを仰るのですか。アルテア様は本当に着飾ることに頓着なさらないので困りますわ。これからはアルテア様も一国の王の妃となられるのですから、数着のドレスを着回すなんてこと、してはいけませんよ?」

 侍女が言うとおり、アルテアはドレスや装飾品などにまったく拘りのない人間であった。体を動かすのが大好きな彼女は、窮屈なドレスに身を包むのをあまり好まないというのも理由の一つであった。ただ流石に公の場ではドレスを新調するのだが、それでも王女という立場を鑑みれば、彼女の衣裳部屋はあまりにもこざっぱりとし過ぎていた。

「王妃になるだの好き勝手に皆言うけれど、そもそもあの方は継承権第一位というだけで、まだ王となると決まっているわけではないのよ?」

 むっつりとアルテアが言うと、侍女たちが大袈裟に驚いた。

「何を言っておられるのですか! そのようなこと、決してあちらの国では言ってはなりませんよ? アルテア様が妻として、あの方を王へとなるように支えていかねばなりませんのに」

 分かってはいるのだが、どうにもアルテアはあの嘘くさい笑みの優男が好きになれずにいる。妙に自信に溢れた物言いも、優美過ぎる仕草も笑顔も気に入らない。体つきも決して良くないというわけではないが、はたして彼自身が言うように、この国の武術大会で通用するほどの腕前なのかも疑問である。

 あれならまだ旅人のリオンの方が、よほど強そうに見えると考えて、はたと我に返る。一国の王太子とただの旅人を同列に並べること自体がおかしなことだと気付いたのだ。

 アルテアは憂鬱な気持ちを振り払おうと、ドレスや装飾品の準備に追われる侍女たちを置いて部屋を出て行った。

 そうしてアルテアが向かった先は、武術大会の管理をしている騎士団のある東塔だった。

「おやおや、アルテア様、どうされましたかな。輿入れの準備をしておられるのでは?」

 騎士団団長の執務室に入ると、出迎えたのは国王と同じくらい巨体の男、ジーク騎士団長であった。

「そうよ、目がちかちかするくらい、ドレスや装飾品やらをずっと見てたのよ。もう嫌になるわ」

 うんざりと言った風にアルテアが言うと、ジーク騎士団長は山のような体を揺らして豪快に笑った。

「はっはっ! それは難儀でしたな。貴方様にはさぞ、お辛い時間でしょうな」

 ジーク騎士団長はアルテアに椅子に座るように促し、ベルを鳴らして部下を呼んで茶を出させようとしたが、それをアルテアが遮った。

「長居するつもりはないから気を使わないでいいわ。それよりも聞きたいことがあって来たの」

「ほう、それはなんですかな?」

 ベルを元の場所に置いて、ジークはその鋭い瞳をアルテアに向けた。実は彼女をここまで強くした張本人は、このジーク騎士団長なのだ。子供だろうが女だろうが、それこそ一国の王女相手だろうが容赦なく厳しく指導するジークを、小さいころのアルテアは鬼のようだとよく思っていた。今でも彼と相対する時は、自然と背筋が伸びるのだった。

「選定会にリオンという旅人が出ているはずなのだけど、彼が勝ち残っているのかどうかを知りたいの」

 アルテアがそう言うと、ジークの目が僅かに眇められた。アルテアはなんとなく居心地が悪くなり、顎を引いて団長を見返した。

「ふむ、リオンという者ですか。少々お待ちくだされ、たしかこの辺りに選定会の報告書が……おう、あったあった」

 引き出しの中を漁って数枚の羊皮紙を取り出すと、ジークはアルテアが言う名前を探しだした。

「リオン、リオン……うむ、ありました。どうやら順調に勝ち進んでいるようですな」

 ジークにそう言われて思わずアルテアはほっと胸をなでおろした。リオンが自身を強いだろうと言っていたのは嘘ではなかったのだ。

「それで、この者はどういった人物ですかな? 貴方様が気にかけるほどですから、よほどの者なのでしょうな」

「いえ、そういうわけではないのよ。ただ、少し前に知り合って、この大会の話をしたら凄く乗り気になってしまって。言い出したのは私だし、少し気になってしまって……」

 上手く言い訳ができているのか自信がなかったが、とりあえずアルテアは当り障りのない言葉を選んだ。

 ジークはアルテアの内側を見透かすように、その鋭い瞳で彼女を見つめていたが、すぐに目元を和らげた。

「そうですか、貴方様と戦えるほどの人物なら良いですな」

 そう言うジークの言葉は温かみに溢れていた。彼女にとってジークはもう一人の父親のようなものであった。

 ジークとその後軽く会話を交わした後、アルテアは現れた時に言った通りに早々に退室したのだった。




 武術大会を三日後に控えたある日、アルテアは自身の輿入れで騒がしい城内から逃げ出すように、泉の広場へと赴いた。

 通りを行き交う人々を眺めながら、迫る結婚への重圧にアルテアは日に日に暗い表情を見せるようになっていた。なるべく心配をかけたくないと、無理に笑顔を浮かべても、上手く笑えている自信がなかった。

 戦場にも何度か出たことがあるアルテアは、まだその時のほうが気持ちが楽だったと思うほど、結婚のことを考えると気が重くて仕方がなかった。

 せめて相手のことをよく知ろうと、何度かヴァンゲリオス王太子の滞在する部屋へと訪問したのだが、その度に彼は何かと理由をつけてアルテアに会うのを拒否した。初日にアルテアをあれ程褒め称えていた人物とは思えないほどの素っ気なさである。そのことが余計にアルテアの不安に拍車をかけた。この人を心から支えていけるのだろうかと、アルテアが不安に思うのは仕方のないことだった。

 そうして鬱々と広場の泉の縁に腰掛けていると、ここ数日聞きたくて堪らなかった人の声がした。

「アリー、久しぶりだな」

 顔を上げると、特徴的な小麦色の肌の男――リオンが心配そうにアルテアを見下ろしていた。

「どうした、そんなに暗い顔をして。なにかあったのか?」

 アルテアの隣に腰掛けながらリオンが尋ねてきた。アルテアはゆるりと首を振ると、彼に出会った時よりも弱々しい笑みを浮かべた。

「ううん、なんでもないの。それよりも、選定会のほうはどうだった?」

 本当は既にジークから聞いていたので知っていたのだが、改めて本人の口から聞きたくてアルテアは尋ねた。

「あぁ、それならなんの問題もないさ。明日勝てば大会に出られる」

「そう、良かった。それなら私も気を引き締めなくちゃね」

 らしくないと自分でも分かっている。いつもなら、どんな難敵が目の前に現れても、どうにかして打ち破ってきたのだから。そう、戦いの場であったなら、簡単にそう言う風に考えられるのに。

 急に黙りこんだアルテアを、リオンが眉根を寄せて覗き込んできた。

「やはり、どこか具合でも悪いんじゃないのか? 無理をしないで家に帰ったらどうだ」

 事情も知らないリオンにまで心配されるほど、いまの自分はみっともなく落ち込んでいるのだろうか。アルテアは無理やり明るく振る舞った。

「ねぇ、今日はあなた時間があるかしら? 一緒に行きたい所があるの」

「俺なら大丈夫だが……君の方こそ、無理をしているんじゃないだろうな?」

「してないわ。よし、だったら早速行きましょう! 素敵な場所なのよ」

 立ち上がったアルテアは、リオンに手を差し出した。リオンは躊躇いつつも、その手を取った。アルテアは戦いの場以外で初めて握る異性の手にどきどきしながらも、勢いのままリオンを引っ張って歩き出したのだった。

 すれ違う人々が二人を見て皆驚いたような表情を見せるのが、なんとなくアルテアはおかしかった。異性と恋の噂の一つもなかった町娘アリーが、こうして男性と手を握って歩く姿は衝撃なのだろうと彼女は思っていた。

 だが実際は、彼女の正体を知っている人々が、王女が手を引いて見知らぬ男と歩いている事実に驚いていたのだった。

 そうして二人が街から南東にある小高い丘へとたどり着くと、ちょうど鐘の音が響き渡った。かつてこの国を訪ね武術を広めた旅人からの贈り物である、あの特別な岩の鐘の音を聞きながら、二人はしばし黙って丘から見える湖を見つめていた。

「いい景色だな」

 ぽつりとリオンが言った。彼をそっと窺い見ると、精悍な顔が穏やかに緩んでいた。

 するとリオンもアルテアの方を見たので、思わずアルテアの肩が震えた。

「君にお願いがあるんだが……」

 真剣な顔付きでリオンが言うので、アルテアも居住まいを正した。

「なにかしら。私に出来ることなら何でもするわ」

 一国の王女として、ただの旅人に何かを与えることはできないが、アルテア個人として、できることは何でもしてあげたいと思った。

「俺が武術大会で優勝したら――」

 リオンの指先が、そっとアルテアの頬に触れる。

「君に結婚を申し込むのを許して欲しい」

 頬を撫でる指先はかさついていて、無骨な感触がした。けれどもそれは彼がよく剣を握っている証でもあると、アルテアは好ましく思った。

 黙ったまま答えないアルテアを見つめながら、リオンは熱の篭った闇色の瞳で彼女を見つめ続けた。

「私は……」

 もっと早くに出会っていたら、自分はケラビノス王国へと嫁がずに済んだのだろうか。そんな事を夢見てしまう自分に、アルテアはあることにようやく気づくのだ。これが、恋だということに。

 しかし生まれて初めての恋は、決して叶うことはないだろう。なぜなら彼女はこのイルトニアフ王国の王女であり、すでにヴァンゲリオス王太子と婚姻を結ぶことを運命付けられてしまっているのだから。

 じくじくと痛む胸に眼の奥が熱くなる。こんなにも恋とは痛くて辛いものなのかと、アルテアは滲みそうになる視界を必死に瞬きをして誤魔化した。

「リオン、ありがとう。でも――」

「続きは言わないでくれ。俺が勝ってから、全ての答えが欲しいんだ」

 そっと荒れた指先で唇をなぞられる。アルテアは背筋を震わせながら、その感覚に酔いしれた。

「俺は決して君の顔を曇らせるようなことをしない。全ての苦難から、君を全力で守り通すと約束しよう」

 リオンはアルテアの手を取ると、その指先にそっと口づけを落とした。

 アルテアは頷くこともその手を振り払うことも出来なかった。ただただ、リオンの深い色の瞳を見つめ返すことしか出来なかったのだった。




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