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初恋。  作者: 冬鳥
8/85

君を守るということ 3



@

児童公園の前で自転車を止めた壮太は親指を公園に向けた。


「なぁ彰!やってこうぜ」


22時過ぎの公園内部は、人気は感じられず魂の抜けた遊具が時を止めているだけだった。

壮太に続いて公園敷地内へと入った彰は暗闇の片隅で誰かが息を潜めこちらを伺っているような気配を感じた。


彰は早めた鼓動を耳に入れながら遊具の陰に潜む暗闇に注意を払った。


そして目の前をしっかりとした足取りで歩いていく壮太の背中に戻る。


心強いものだ。


彰は壮太の背中に憧れる。潜む何物にも動じない強靱さと勇気が窺える。そう、たとえいまここに”そのもの”が現れたとしても。

きっと壮太の背中は悠然としているのだろう。


夜の公園は独特の雰囲気を醸し出す。

動物園で哺乳類が獣舎に入った後の屋外広場みたいなものだ。

柵に囲まれた空間には生命体の気配はない。だが先程まで彼らが発していた息吹や体温が残っている。


佇む滑り台。静止するブランコ。無表情な鉄棒。無風の砂漠のような砂場。

明ける時を待つ空間だった。

二人の少年は絶対的な静寂が支配しているこの場所をいま目覚めさせていく。


「渡辺先輩に相談してよかったな。ただちょっと難しかったけど」



公園の真ん中で足を止めた壮太の背中に彰の声が届いた。


遊具達も耳を傾けてるようにこの場所は二人を包み込んでいる。


「なぁ彰。俺達は強くなってるってさ。嬉しいよな。なのに俺は泣いちまってた。悔しいよな。渡辺先輩の前でおめおめと泣いちまってさ」


封印がとかれるように見せた壮太の涙はまた一段と彼を強くさせるのだろう。



「僕は一週間に一回は泣いてるよ。あのとき壮太と約束したのに…。でも泣いちゃうんだ。僕が知らない間に僕の目から涙が出ちゃうんだ」


声を上擦らす彰の声に壮太が答えた。



「今日もやってこうぜ」




二人が空手の練習をやりはじめたとき、静観者は諦観者へと変わっていった。

優しく見守る遊具達もまた空手の指導員同様に二人の少年に友愛と勇気を与えていくのだった。


そしてもう一つの存在もここにあった。

雑草に囲まれたベンチの下で、もぞもぞと動く生き物がいる。

露で濡れた地面を寝床にして気持ちよく寝ていた黒猫は、人間の声によって不機嫌なままに目を開けた。



またか。またあいつらか。


私はそんな気持ちの篭ったあくびをした後に、じーっと躍動する二人の人間を見据えた。


小さな人間が左後ろ足で蹴れば、大きな人間が前足を固めて突いていく。


ベンチ下で目を光らせている私は去年からここを根城にしている。


ここはとても居心地がいい場所だ。



ここら辺は喧嘩っ早い縄張り拡張型暴力猫もいないし、春先に凶暴化する私と同型である遺伝子継承重視型エロ猫もいない。それにすぐに吠えたててくる知能指数最下層犬も少ないのだ。私にとってここは住みやすい場所だ。安住の地といっても良いだろう。


だが、ここにもわずかばかりの悩みはある。猫の額ほどの悩み事だ。それはこの時間になると物音と気配によって安眠を邪魔されるのだ。そして案の定、いつもの輩達が現れた。気持ちよく平明を迎えさせてはくれない、それがこの世の野良猫なる宿命だというのか。

とにかく輩達はドタバタと動く。月夜の下とにかくドタバタと何かをしているのだ。


最初私を起こしておきながらふざけやがって睨みつけると輩達は真剣な面持ちだった。

いったい何をしているのだ?と疑問に思った。

それにわざわざ腹を空かすようなことをしている。



真剣にドタバタする少年達を黒猫は一年間見続けてきた。



次第にこの黒猫までもが、二人がこの場所で日々練習をする空手に導かれていくことになる。



不思議な猫である。



彰はもちろん知らない。

真実なるこの世界の”そのもの”がこのときベンチ下にいたことを。


”そのもの”は日常のなかに潜む。

人との出会い。心の内に篭る記憶。あるいは人に近づく動物。または思い出の詰まる物。


運命を変えていく”そのもの”はあらゆる場所で来るべき人を待っている。


この黒猫ははとても用心深い。それは野生生物が生きていくうえで必須となる能力だ。


黒猫は万に一つの確率さえも見逃さず対処をする。この先に起きるかもしれない不安要素を想像し確率的な選択をあげてそれに対して肉球付きの手を打っていくのが世を長く楽しく生きる一番の秘訣だというのを知っている。

黒猫は不快感と恐怖感と警戒心を入り混ぜながら気配があるほうへとたえず目を光らせる。




私は浮き世に照らし出されているいつものドタバタする輩達を見るとなんだか安堵するようになってきた。


そしていまもあいつらでよかったなと思っている。


私にとっては安堵なるドタバタ音だ。


もちろん警戒心はたえず持ち続けている。


もし輩達ではなく野犬や猫殺しの人間がこの場所に来たならば颯爽と逃亡することになるからだ。


毎度毎度びっくりさせんなよと奴らの足元で甘えたいくらいだ。

私は高確率の安全性を認識すると、ため息を一つ漏らし前足をちょっとだけ舐めてからまた眠りに入っていった。


やれやれ。


賑やかなもんだ。


優秀な野良は安眠をとても大切にするのだ。

邪魔をしてほしくないものだ。


私は片目を開けた。

あのドタバタは見ていると面白い。


まるで。戦いのようだ。



まあいいや。寝よう。





壮太との組手は全神経を集中する。押し寄せる威圧感と力強さは凄まじい。道場での他の小学生とはわけが違った。


組手の合間に彰は切らす息のなかマンションの四階を見上げた。


「あれ?」


今日は珍しく、402号室の窓に明かりが点いていなかった。


奈緒ちゃんいないのかな…もう寝てるのかな…。


公園中央付近で二人は向かい合っている。

地面に転がる多数の小石のなか裸足で練習をする。


冬の風は春の風に変わりつつあり、いま吹く風は僅かに冷気を含み汗で熱くなった身体に心地良さを与えていく。

冬の終わり。


春の訪れを肌で受け止めながら空手を全身に染み込ませていく。




夜空を鋭利なナイフで切り裂いて弓形の傷口を開かせる。そこから覗く山吹色が夜空の真実の色なんだと錯覚させるような細い三日月が西の空に浮かんでいた。

30分ほど練習をしてから二人は雑草を払いのけるようにベンチまで辿り着くと疲れた身体が限界を示すようにどかっと座りこんだ。


すぐにベンチ下で何かが反応した。

彰はびっくりして思わず声をあげた。


「ひぃっ」



ベンチ下から勢いよく飛びだした黒猫は、二人を睨むように一瞥してからニャーと吐き捨てるように鳴いてすたすたとブランコのほうへと逃げていった。


二人はいまも胴着姿だった。もし向かいの道路を通り過ぎる誰かが公園内部を見たら、ベンチ付近で白く浮かび上がるものが、この世のものでない何かに見えて忽ち噂になることであろう。


壮太は大きな身体を曲げるように体操座りをしたまま息を弾ませていた。


「腹減ったな」



「うん。お腹減った」




「何度もしつこいけどさ、先輩に話してなんかすげえスッキリした。あのときなんにもしなくて良かったってさ。なんかごめんな。俺がうじうじと引きずっちゃって」


「壮太…そんなことないよ。僕はほんと怖かっただけだから…」


彰は身体を丸めて体操座りをした。


「まあ渡辺先輩も言ってただろ?馬鹿は相手にするなって。ほんとそうだよ。いきなりあんなふうにボール蹴ってくるなんておかしいもんな。よし。もう忘れよう。誰も怪我とかなかったんだもんな。謝ってすむならそれでいいんだ」



あとジュースも飲めちゃったし。

美味かったな。


二人はその味の余韻を確かめるように夜空を見上げて唇を濡らした。


「あ、知ってるか彰。明日はホワイトデーってやつだぞ」


「え?なにそれ?」



「ほら。彰は貰っただろ?先月にバレンタインデーのチョコ」


彰は先月に五個のチョコを同じ学年の女子から貰っていた。しかもその中の一つには手紙まで入っていて壮太に取り上げられて読まれていたのだ。


「二組の真理ちゃんだっけ、告白までされてたよな?それはホワイトデーにきちんとお返ししないとダメなんだぞ。男ならすることだからな!」



「ふーん。そういうもんなの?なんか大変なんだな。めんどくさいな」



彰は壮太の話しを上の空のままに四階を見上げていた。


この角度からはマンションは見えづらいが402号室の明かりが点いていることだけは確認できた。



あ… いる…。


腕を伸ばせば届く距離にあの人はいる…。


彰はその明かりに右手を伸ばして掌に載せる。


指の間を透けてこちらまで届く奈緒子の明かりは彰の心を風船にする。


ふわふわ浮きながらあそこまで行きたい…



そして彰は奈緒子の心を連れて空を飛ぶ。

高く。遠く。

地平線の彼方まで。




「え?なに?で、みんなにお返しすんの?」



壮太が、ぽわんとしたままの彰の横顔を見つめていた。


「あ、いや…ホワイトデー?なんだろそれ。なんでそんなのあるんだろ。あ、そういえばさ壮太。奈緒ちゃんにさ…」



「え?なに?奈緒ちゃん?もしかして彰…、奈緒ちゃんからもバレンタインデー貰ったのか?」


「何言ってるんだよ。奈緒ちゃんに貰ったのは修学旅行のキーホルダーだよ。いま考えてたのはそのお返しのことだよ」


「あ?キーホルダーのお返し?ああ…それか」



壮太は腕を伸ばして背伸びをした。


「じゃあ俺達の修学旅行で買おうぜ。あとちょっとで行くんだしな」



「うんうん。そうしようか」


二人は頷きあって笑顔を見せあったが、ゆっくりと覇気のない顔になっていく。


奈緒子は四月から中学生になる。


彼女の心はますます遠くへ行ってしまうことになるのだろうか。



「昔はよくここで奈緒ちゃんと遊んだよなぁ」


いまは眠るように静かな公園を懐かしそうな眼差しで見渡していく壮太。


「うん…」



「なぁ彰。最近の奈緒ちゃんてさ…、ちょっと元気なくない?」


壮太がベンチ下にある石を足で左右に転がしながらボソボソとした声で聞いた。


「やっぱり壮太も思うんだ…うん…元気ないよね」



「それとも俺達嫌われたとか…」


「え?嫌われたとか…は…ないと思う…思うけど…」


彰は歯を食いしばり唇を尖らせた。



「嫌われたのかな…」




湿っぽくなってきた会話を打ち払うように壮太がベンチの上からジャンプした。壮太の腹部を締め付ける帯が揺れた。


「まああれだ。大変なんだよ。中学生になるってのはいろいろとな。うん」



「だよね…」



彰は再び四階を見上げた。



奈緒子はいま手に届くような距離にいるのに。彼女が奏でる柔らかい光りをこの掌で包むことができるのに。

これから離れていくのだろうか。



奈緒子が離れてしまっては彰は生きていけないと思った。


―僕のすべてを奈緒ちゃんに捧げたい―



奈緒子の部屋の明かりが炎のように少しだけ揺らいだ。カーテンが動いたのだろうか。


よし!


彰も壮太がしたようにベンチから飛ぶように離れると402号室がよく見えるところまで走っていく。



「ねえ!もうちょっと練習していかない?」


「よし!やろうぜ!次は型の練習しよう!」


「いいよやろう」



揺れるカーテンの向こう側に奈緒子のシルエットが見えた気がした。


彰は思った。

奈緒子があそこにいることがいま自分の幸せなんだと。


いつか奈緒子の存在全てが自分から離れて行くのかもしれない。


でもいまは見られるのだ。大好きなあの人を。

間近に感じることができる。




茂みに隠れていた黒猫はベンチから離れた二人を見て、やれやれと言いながらベンチに向かってゆっくり歩きだした。

その間も警戒は怠らない。悠々と歩く心情は戦場にいる緊張感そのものだった。

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