佐野マリオネット
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学校全体に帯びていた熱気は、ある時間を境にして突然に冷めていく。
朝の登校から中学生達の活動を支えたこの場所はいままさにつかの間の閉塞へと向かう時刻だった。
職員室に集まりだした教師の一人があくびをしながら時計の針を見た。
時刻は午後六時をまわっていた。
活動を終えた校舎、体育館、運動場、武道場など、敷地内のあらゆる建物や大地が鳴りを潜めていく。
建物の照明がひとつひとつ鼓動が止まるように消されていくなか、部活動を終えた学生服姿の生徒たちが、各々に帰路の方角にある三つの門を目指していった。
当然であることだが生徒たちはそれぞれに心を持っている。それぞれに悩み事があり喜びがあった。
グループで騒ぎながら下校する者達もいれば、疲れた表情のままトボトボと一人歩く者もいた。
南北にある二つの校舎はまた明日の登校に備えて馬力を蓄えているかのように暗闇のなかそびえていた。
喧噪と焦燥と困憊が入り乱れる通りの人の流れを尻目に、ゆらゆらと佇む片隅があった。
そこは大人達の死角ともいえた。
または大人と子供の狭間で迷い生きる者達の毒地ともいえた。
錆びついた空間に支配されるこの体育館裏では、いま幾つもの小さな息遣いが反響しあっていた。
その変わり様を一週間ほどまえからここに住み着いた痩せた白い野良猫が茂みから出たところで動きを止めていた。
猫はまったく動くことが出来ずにいた。
それほどまでにピンと張り詰めた緊張感や殺気が、人間の息遣いから認識できたのだ。
陽は歴史で散った英霊の遠い記憶のようにとうに西の底に沈み落ちており、空には人の儚さを悲しく讃えるかのように煌めく星がこちらを見下ろしていた。
この場所は暗く陰湿だ。
フェンスの向こう側にある街灯の木漏れ日のような光と、フェイクを簡単に見過ごしてしまうほどに弱く照らす月影。
それだけがここを漆黒の闇から救う頼りだった。
体育館の外壁の迫りくるコンクリートは風を遮り、空気が停滞を続けた。
誰しもが足を踏み入れれば不穏の香りを感知するだろうこの空間で。
いま、無数の人影がいるのが確認できた。
野良猫はゆっくりと後退りを始めた。
多くの影が一つの影を囲むように立っている。
大勢の人が一人を襲う。
まるで獲物を囲む猛獣の群れだ。
逃げ場はない。
お前はただ食われるのを待つだけ。誰かが噛み付くのを皮切りにお前の皮膚と肉は噛み千切られ骨まで砕かれる。
きっとお前がこの世に存在していたという真意すらまでが見事なまでに抹消される。
野良猫は後ずさる。
だが。
この野良猫は大きな勘違いをしていた。
獲物であるはずの一つの影は淡くせつない蒸気を放ち続けている。
決して目では見えないその証は。
それはまるで猛獣を喰らう神獣のように、絶対的な意義という名のもとにある勇敢と強靭な気力だった。
生粋なる野性動物にはわかる確かな蒸気だった。
だが。
勘違いしたままの猫はゆっくりと後退りを繰り返してアンモニウム臭が立ち込める茂みのなかに入って身を潜めた。
一つの影を取り囲むようにして同じく影で作られた輪。そこから少し離れた場所に一人の肥満体の男がいた。
名前は佐野。
輪の中心にいる人物から斜交いに立ちながら、鋭い眼光でその輪を睨みつけていた。
輪には一体感がなかった。
諦観者も大勢いた。
ある者は笑いながら、またある者は怒りながら、またその隣の者は複雑な表情のまま、それぞれの胸中を抱き状況を見守っていた。
フェンスの向こうを走る車のテールランプによって僅かに照らされた赤い顔は無数なまでに数えられた。
そして最後に赤い光は、この集まりの中心人物である巨体の男を捉えては遠ざかっていった。
坊主頭に恵まれた体型の男。
囲まれる男は遠藤壮太だった。
そして壮太は同じく輪の中心部分にいる二年生の山下の胸倉を掴んでいた。
山下は叫んだ。
「さ、佐野君!な、なんでおれがこいつとタイマンしないといけないんだよ!」
二年生のリーダーである佐野は静観したままだった。
「え、遠藤!こんなことしていいのかよ。俺達のバックにはな!」
山下の強がりに佐野は唾を地面に吐きつけて独り言を発した。
「山下。おまえは終わりだ。相手はあの人だ」
二年生の不良達が大勢いるなか佐野は山下と遠藤のタイマンを命じたのだ。
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壮太の凄まじい力で胸倉を掴まれるなか山下は現状を把握することができないままでいた。
ほんの15分ほど前だ。
山下は体育館裏で杉田奈緒子が来るのを待っていた。
だが、代わりに来たのは遠藤壮太だった。
いったいどこから情報が漏れたのか…。
杉田奈緒子本人からなのか…。
それとも、それ以外の誰かか…。
まぁ、いまとなっては情報の出所などはどうでもいいのだ。
…台無しだ。
遠藤壮太。一年の不良達をまとめるリーダーだ。なるべくなら喧嘩はしたくない。勝てる相手ではないのは体格差を見れば一目瞭然だった。
遠藤はがつがつと目の前まで来てからこう言った。
「おまえか奈緒ちゃんをいじめる奴は」
このとき山下は
遠藤のいじめという言葉がどこか空虚に感じた。
軽々しい言葉にも聞こえた。
奈緒子が二年C組の一部の男達にされていること、そしてこれから自分が奈緒子にしようとしていること。
それらはそんないじめという軽い言葉で済むことではないのだ。
山下は壮太が真剣にいったその言葉にどこか笑えてきた。
「遠藤。おまえは関係ないだろ。それに奈緒子はもう汚れてるぞ。奈緒子のこと好きなのかよ」
向かいあう遠藤にそう言ったとき遠藤はすぐにこう返した。
「奈緒ちゃんを汚すのはおまえらなどではない。奈緒ちゃんを汚し続けるのは過去にあった妹の災難だ」
過去の災難?妹?
こいつ何言ってるんだ。と思ったときには胸倉を掴まれていた。
遠藤が来たあとに佐野達二年生もここに来た。佐野が従えてきた人数は山下の予想を遥かに超えていた。
「さ、佐野君」
山下の助けを求めるような声に佐野は苛立ちを全身で表すように身体を揺すりながら山下を睨みつけた。何度も地面を蹴っては唾を吐いた。
抜け駆けして奈緒子を襲うという山下の行為は心底自分が舐められたという気持ちだというのを周りに態度で訴える。
佐野は周りを見渡してから輪の中心にいる二人に視線を戻した。
おい山下。周りをよく見てみろよ。
佐野は心で呟いた。
二年生から集めた者達は、いまここに20人はいるだろう。
おまえが予測した六人で襲うんじゃないんだよ。
杉田奈緒子を、一時的に厳しく脅すために角材やら鉄パイプ、またはカッターナイフなどの凶器を皆に持たせていた。
いまこの状況を煙草を吸いながら笑っている奴もいればシンナーを吸って狂う寸前な奴もいた。
こんな下種な狂暴な奴らが佐野の舎弟であり仲間だった。
そしてここにいる皆が山下の裏切りを理解していた。
奈緒子をプール西に連れ込む予定だったのが山下の抜け駆けによって台無しになった。
佐野はあの人が敷いたレールを歩むのみ。
いまここであの人は…。
山下の公開処刑を皆に見せつけるつもりなのだ。
輪を作る誰かがいう。
「山下君。俺達を裏切ったな」
「佐野君を騙して奈緒子を一人でやるつもりだったのか。早く遠藤とタイマンしろよ」
罵声や嘲笑が山下と遠藤に向かっていく。
そんななか佐野は考える。
ここにいる連中のなかにはおれと宮崎以外にもあの人に感染された者がいるはずだと。
佐野にはあの人が最終的に目指す行き先はわからないままだが、かろうじてわかることもあった。この場をどう終わらすかはあの人が語ってくれたのだ。
まずは裏切り者の山下に制裁を下すことだった。
おそらくそれは壮絶なものとなる。抜け駆けして奈緒子を誘いキス以上なことをしたことに対してあの人はひどく怒っていた。
話しをする場所はいつも北門近くの自転車置場だった。
「それでな、今日部活が終わってからおまえは人数集めるだけ集めて体育館裏に来い」
あの人はいう、
「やがて沢村俊介が来るはずだ。それまでに山下はやりたい」
あの人は計算しているのだ。沢村俊介の仲間である衣川真一や松田裕吾も来るという。
「あいつはこねえよ。おまえの大嫌いな大橋彰。おまえは鼻蹴られて、宮崎が写真を机にいれた。あいつはこねえ。他の一年は来る。おまえは適当におれとやってればいい。他は全力で一年が潰す。いいな。盛大にやろうぜ。一年VS二年。おれとおまえ。どっちが勝つかな、どっちがほんとのリーダーか」
あの人は豪快に笑いだした。
佐野はわかっている。
この世にはほんとに近づいてはいけない人間がいる。その人間とは決して目を合わせずに通り過ぎるのをひたすら待つのだ。
だが佐野は捕まってしまったのだ。
佐野は初めあの人となる遠藤壮太に恐れてるわけではなかった。兄の賢治に恐れていた。
だが。違うことに気付いた。
ほんとに怖いのは弟の壮太だ。
佐野は震え上がるのを必死に抑えながら山下と遠藤の成り行きを見守る。
「おまえよ。俺を本気で怒らせたな」
巨躯である一つの影は大きく腕を振り上げた。
「ふん!」
そして振り落とされた拳は山下の頬に減り込んでいく
「ぎゃああ!」
山下の叫び声がこだました。
佐野はああ始まったなと
小さなため息をついた。
操り人形は許されるため息を何度もついた




