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初恋。  作者: 冬鳥
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奈緒子強くなれ



前を歩く須田樹里は足を止めて身体を右に向けた。


「先輩。入ってくれますか」


一年A組の教室。




なかには彰や壮太がいるのだろうか?。


これからの自分のことを二人は知っているのだろうか?



突如、暗く淀む音楽室に彼がたくさんの光を引き連れて現れたように。


奈緒子は前に歩むことを躊躇する。頭上には一年A組のプレートがあった。



二人を巻き込んではいけないのだ。



大切な人だから。




「あ…あの」




奈緒子の声はなんとか樹里まで届いた。か細く弱り切った声だった。


樹里は顔を横に向けて息を大きく吸った。



「いいから入って!」



太く長い根が張り付いたような樹里の声に奈緒子はビクついた。



樹里の有無を言わさない態度に奈緒子の思考は停止状態になっていく。

音楽室のまえで樹里に話しかけられてからの奈緒子の内部には何かが変化を始めていた。

その兆しの前段階のように思考がいま鈍くなっていた。


奈緒子は頷くことしかできなかったた。



扉を開けて教室に入っていく樹里に導かれるままに1年A組のプレート下を潜り奈緒子もなかに入っていった。


暗い廊下とは対称的に明かりに覆われている教室のなか。二人が入っていくと停滞していた空気の流れが変わったのがわかる。



教室のなかには誰も居なかった。

机と椅子が並ぶ教室。


がらんどうとした室内だった。



「あ…あの、彰君や壮太君は…?」


奈緒子の細い声が整列した机上を滑っていった。

樹里は教室の中央まで来てから足を止め、そして振り返る。

樹里の長い黒髪が揺れた。


「…あの…杉田先輩」


名前を呼んでから眼鏡のブリッジにかるく指を当てた。

長く細い人差し指に純潔な爪だった。


奈緒子は幾分見上げるように樹里の仕種を見届けた。樹里の背は奈緒子よりも10cmほど高い。


奈緒子の瞳を見つめる樹里。その視線は決して敵意に包まれてはいない。


多くの冷笑と蔑む視線を感じながら生きてきた奈緒子は、いま向ける樹里の目には優しさが混じっているのがわかった。

その視線は奈緒子を急激に恥ずかしくさせ、もじもじと俯かせる。


そのあと奈緒子にとって、とてつもなく長く感じる沈黙が流れた。


「あ…あの…えーと」


樹里の沈黙に、恐怖を感じ始めた奈緒子は小さな声を出しては言い淀んだ。

それを見ていた樹里は急にへなへなと座りこんで頭を床に垂れた。


「…ごめんなさい!」



「え?」



「ずっと…ずっと私達は先輩のことを無視してた。一年の子達はね、ほんとは…みんな杉田先輩と話したいんです。杉田先輩のクラリネットの上手さに一年生はみんな尊敬をしているんです。だけど先輩と…話すと…」


他の先輩達から言われる…

お前らさぁ、杉田と話したら同じようにするよ


あんたも杉田と同じように毎日泣かすからね。


奈緒子はよく背中に卑猥な言葉を書いた貼紙をされていたし、先輩らの横暴な態度はいつものことだった。髪を引っ張られて足を蹴られる奈緒子を樹里や他の一年生の生徒は痛ましい現状として見続けてきたのだ。


樹里は膝を曲げて座り込んだまま泣き出していた。


奈緒子は樹里のところに走り寄っていき同じく床に座り込んだ。


「あ、あの、須田さん…。私は…大丈夫。もう慣れっこだから。ありがとう。私なんかのために…泣いてくれて…」


奈緒子は樹里の肩に触れようと思ったのだが どう触れたらいいかわからずに寸前で止める。


「す…須田さん…もう泣かないで」



ひくひくと肩を震わせながら泣いていた樹里は、奈緒子と視線を合わした。


「ほんと…ごめんなさい…だけど…」



だけど。


樹里の表情が変わる。


眼鏡の内で光る瞳。」


「先輩…。慣れっこって…慣れっこて何よ。それは嘘よ。先輩は辛くて悲しくて悔しいはずよ。そうですよね?そんなのはもうここで終わりにしてください。慣れっこだなんて嘘…」


樹里は素早く立ち上がり奈緒子を見下ろした。


「いま先輩のために必死に戦ってる人がいるんです!。先輩を心から救いたいって願う人がいるんです!先輩は知ってますか?大橋君が音楽室に来て先輩を救った次の日から言われている大橋君への中傷のこと。彼はクラスメートからもあることないこと言われてるの知ってますか…?。私は…私はいま…」


樹里は濡れた瞳で奈緒子を睨みつけた。



「いま私は!あなたに泣いてるんじゃない!弱い先輩を助ける私の!私の大切な友達に感動して泣いてるんです!心配で泣いてるんです!杉田先輩の弱さと私の弱さに悔しくて泣いてるんじゃない!」



叫ぶように話す樹里は最後に黒板の上にある時計を見上げた。



「先輩!これから遠藤君が…遠藤君があなたを助けるって。…助けたいから…って…。いま死に物狂いで頑張ってるの!だから、私は…あなたをここにできるだけ食い止めるの!絶対に行かせないから」



泣きじゃくる樹里。


奈緒子は立ち竦んだまま肩を震わせていた。



二人の啜り泣きが響き渡る教室に近付く影があった。


教室と廊下を繋ぐ扉が開く。




「よぉ」



入ってきたのは俊介だった。奈緒子から見れば近未来からの使者となるのか。

樹里から見れば怖くてカッコイイ親友となる。



「お前らなにドラマチックなことしてんだよ。二人して瞳濡らして」




「沢村君」


樹里の泣き笑いとなった顔を見る俊介は八重歯を出して笑った。


俊介が歩く度に一年A組の教室のなかには甘い香りと鋭利な雰囲気が漂いはじめていく。



「樹里。ありがとな。なんとか連れてきたってところか。あとは…」



樹里と奈緒子の間で立ち止まった俊介はポケットから煙草を取り出す。

それを見ていた樹里は素早く「もう!」と大きな声をだしていた。目に留まる涙を拭きながら。


俊介は立ち竦んだままの奈緒子に顔を向けた。



「杉田。よかったな。壮太がクソブタを始末する。いまから始まる。おまえはここにいろ。そして…おまえも明日から少しは強くなれ。腐った男達は始末してやる。だから明日から戦え。ほかはもう勝てない奴らじゃないよ」



―さて俺も行くか


火を付けていない煙草を指で玩びながら俊介は軽く笑った。


「え…沢村君も行っちゃうの…?」



「ああ。壮太一人で勝てるわけないだろ。いくらあいつでもそれは無理な話しだ」



「で、でも…怖い先輩が出てくるんだよ…ね?さっき言ってたよね?。だから遠藤君一人が…行くんでしょ」



樹里の言葉を聞きながら扉に向かっていく俊介。短い金髪のふもとでは赤くなった耳が目立った。走って走って探しまわったのだろう。



「ばーか。こんな面白い祭りに参加しないわけないだろうが。それに壮太は親友だ。地獄に行くなら一緒に落ちてやるよ。もし彰がここに来てもあいつには言うな。おれと壮太で十分だ」



教室を出るところで煙草に火を付けた俊介は背中を向けたまま奈緒子に話しかける。


「なぁ杉田。お前は友に守られてる。決してお前は一人じゃない。そして次はお前自身が戦え」





教室を出て行った俊介と、両手を強く握りしめる樹里。そして嗚咽混じりに泣き出した奈緒子。時計の針は進んでいく。



さて…


行くか。



廊下に出てから煙草の煙りを大きく吸い込んだ俊介は歩を早めた。


気配を消したままに近付きその背中を掴む誰か。



「待て」



俊介が素早く振り向く。 そして驚く。


「お、おい…。な、なんでここに?」


目の前にいたのは彰だった。

彰は厳しい表情のまま口を開いた。


「シュン。どうして奈緒ちゃんがここにいるんだ?」


彰…。


お前はどうしていまここにいるんだ?


俊介は彰がここにいる意味について、あることを想像し、そして珍しく動揺していた。

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