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初恋。  作者: 冬鳥
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虐め終結の始まり



午後から始まった数学の授業。杉田奈緒子は教科書に視線を落としたまま蛻の殻のように固まり続けていた。


教師が発する声が天井を掠めていき、

生徒達の生じる私語が床を舐めあげていく。


それらがただ奈緒子の耳を通り抜けていった。


いましがた山下から言われた言葉が奈緒子の首を締め上げるように圧迫し続けていた。



―部活動が終わったら一人で体育館裏に来い―




奈緒子の体内に入り込む山下のしゃがれた声と他の男達の汗や唾液の臭い。奈緒子はおもむろに顔をあげた。そこにあるのは対面する黒板でも教師でもなかった。


そこには男達の顔が克明に奈緒子の目の前に現れていたのだ。


たちまちに襲いだす悪寒。全身を襲う震えによって奈緒子は背中は丸めた。



男達の迫りくる両手が奈緒子の小さな両肩を掴む。


教師の声が遥か遠くから聞こえてくる。


奈緒子は深呼吸をしてから右肩を摩りながら左手の先に吐息を吹き掛けた。


まえに広がる黒板。

ざわつく授業。


消えない残像。


身体を襲うひどい悪寒。



男達の視線を奈緒子は背中で感じていた。


奈緒子はいま自分が置かれている状態を相談できる友人は誰一人としていない。


だが。

奈緒子は何度も吐息を手の平にに吹き掛けた。

体内から生まれた小さな温もりが震えを僅かばかりに制限させていくように思えた。


彼女には希望を与える人がいた。

光り輝く暖かい温もりを彼女は日々感じ続けている。


幼いときから。

ずっとその人の温もりを。


彰君…。



彼女は心のなかの声で大好きな男性の名前を呼んでみた。


それは両手に温もりを与えるためだった。


奈緒子のなかに再び勇気を蘇生させるためだった。


小さな声で。


もう一度名前を呼ぶ。


あきら…くん。



奈緒子は彰の笑顔と柔らかい声を思い浮かべる。


思い浮かべればいつも目の前に現れてくれるその人は。


いつも笑っていた。



身体の震えが止まっていく。


彰君…。


彼女が愛する男性はいまそばにいてくれているのだ。

同じマンションにいるのだ。

同じ学校にいて同じ街にいる。


大橋彰という存在の温もりが、彼女の内部から沸々と熱を帯びさせていく。

そして希望ある世界へと導いていくのだ。

扉の向こう側に見える光の世界へと。


彼女は決してその小さな光りを見失いたくない。


絶対に。


彼女は固く決心をしていた。


行こう。と。


そこがどんなに地獄であり死地であろうと。


いま彰の幻影に包まれる彼女は、彰を救うことに対して喜びすら感じていたのだ。


脅威をあの人に向けさせたくない。


救いたい…


誰にも彰君…を

傷付けさせない。


小さな小さな勇気が沸き起こる。

奈緒子は愛する人のために自分の宿命に逆らう。


いつか。いつかあの人と手を繋ぎたいから。



そのとき私は、もう他に何も求めない。




あの人の手。




奈緒子は手の平を広げてみる。



あの人の手の平。



奈緒子は瞬時に全身が熱くなるのがわかった。


火照る身体が無性に彰を求めだす。


あの人の手。

叶わぬ夢でもいいのだ。ただ…いまは想像をしたい。

あの人を思いたい。





奈緒子は脳裏で彰の後ろにいる妹の美椙の笑顔も捉えた。



すべては私が元凶なのだ…。



吹奏楽部の教室に来た大橋彰が言った言葉。



「美椙ちゃんのためにも立ち上がれ!」




その言葉が大橋彰から発っせられたとき。


奈緒子はあの事故から背負い続けた重荷を少しだけ下ろせた気がした。


美椙…。ごめんね。


お姉ちゃんは…。


私は彰君がいるから生きたいの…。



あの日。あの事故があった日。

彼女が行く予定だった。



奈緒子と母親が岐阜の母親の在所に行く予定だったのだ。



だが奈緒子は三日前に突然行かないと言い出した。


それは彰との約束があったから。


「お姉ちゃん行かないなら私がママと行く!」


そして変わりに美椙が行くこととなった。


吹奏楽部の教室で彰に言われた言葉。

そのとき奈緒子は思ったのだ。


いま私は彰君によって生きていられる。

そしてこれからも生きたい。

彰君を見ていたいから。



奈緒子の瞳から流れ落ちた一滴の涙が数学の教科書を濡らした。


奈緒子のなかでは美椙の笑顔もそのままだった。



ごめんね美椙。




私が死ぬはずだったのに…。


ごめんね…。


奈緒子は涙を拭いてから顔を上げた。


私は。


必ず彰君を救う。







数学の授業が終わり次は理科の授業だった。休憩を挟んでから四階にある理科室へと生徒達がぞろぞろと歩いて行く。




奈緒子も席から立ち上がると、山下が近付いてきた。



「なぁ奈緒子。何度も言うが誰にも言うなよ。一人で来い。わかってるな?部活が終わったらすぐに体育館の裏だからな」



山下は奈緒子の隣りでそう囁いてから横顔を舐めあげるように見入った。


「…はい…」


奈緒子は小さく頷いた。


「よし」



山下の肩が奈緒子の小さな肩にぶつかっていった。



「もし今日お前が来なかったら大橋殺すからな。集団リンチでボコボコになった挙げ句に川にどぼんだ」



薄気味悪く笑いながら立ち去っていく。





奈緒子は足腰の力が抜けて床に座り込んでしまいそうになるのを必死に堪えた。


教室に一人残された奈緒子は肩を落とし下を向きながら廊下へ出て理科室へと向かう。


中庭を挟み向かいにある南校舎には一年生の教室や理科室、美術室などがある。奈緒子はとぼとぼと理科の教科書を抱えて歩いていく。



連絡路で繋がれた向かいの校舎に入り一人階段を上がっていく奈緒子の後ろに男が近づいていた。




奈緒子は突然に背中をトントンと優しく叩かれた。




驚愕して振り向くと、二段下に金髪の男子生徒がポケットに手を入れたまま立っていた。


奈緒子の目の前に突如現れた男は背は高くない。だが異様といえるまでに目つきが鋭くその瞳によって身体を大きく映らせていた。瞳はまるで猛禽の目だった。


冷酷な眼差しは奈緒子の心の闇までも見抜くほどに射ていた。

そして金色に染め上げた髪の毛と香るのはバニラの香り。



「お前杉田奈緒子だろ?」




その男は奈緒子の名前を唐突に呼んだ。




「え…」




この男は一年生だろうか?

無数な校則違反となる学生服を身に纏った目の前の男の危険性を十分に察知した奈緒子は一歩二歩と後退して階段に足をぶつけた。


「キャッ!」


奈緒子は踵に感じた痛みと共に目を伏せたまま立ち去ろうとした。



「おい。ちょっと待てよ」




金髪の男性は、階段を急いで上がり出した奈緒子の背中にまた呼び掛ける。



「杉田。今日なんかあるだろ?佐野のクソブタになんか言われたか。言えよ。俺達が助けてやる。お前一人で行くとか思うなよ。言え。場所はどこだ!」




え?…?




奈緒子は振り向こうと思ったがそのまま階段を駆け上がっていった。




「ちっ!」



階下から男の舌打ちが聞こえてきた。



奈緒子は階段を上がりきって廊下も走り続けた。





誰にも言えない。



言ったら彰くんが…




でも…あの金髪の人は…。どうして?


俺達って…?


どうして知ってるんだろ…

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