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初恋。  作者: 冬鳥
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朝の空と登校道

朝、靴を履いた父親が



「じゃあいってくるよ」



というと流し台で洗い物をしていた奈緒子は笑顔を作りあげた

父親に向けたのは朝から憔悴しきった顔に浮かべた無理矢理な笑顔だった。




「はい。いってらっしゃい」


「今日は晩御飯いらないから。ちょっと遅くなる」


そう言い残してから閉めた玄関の音をきいた奈緒子はしばらくなにかを見つめたままだった。


そして深いため息をついて学校にいく用意をはじめる。


そして父親が出勤して15分ほどしてから奈緒子も異様に重たく感じる玄関を開けて共同廊下に出た。


もういつからだろう。ずっと睡眠不足が続いていた。



行かないと。



私が学校を一日でも休めば彰君がどうなるか…



奈緒子はおぼつかない足どりで階段を下りてマンションの外を目指した。



出入口付近には配列を無視し乱雑なままに停めてある自転車の群れが狭い共同通路を一層に狭くしていた。

奈緒子は外に出て視界が広がる場所まで来るとおもむろに空を見上げた。

午前7時。東から照らしだす太陽は秋の高く澄んだ空を爽快に彩り始めており、西の空には伊吹山や御在所岳がその光を受け鮮やかな輪郭を表していた。そして空の高さと青さを際立させる白い雲達は群れを成して大空を駆け巡っていた。


奈緒子は深く息を吸い込んで肺に溜め込んでからゆっくりと吐き出していった。


青く広い世界のなかを黒い点が動いていく。

よく見ると黒い点は鳥で、V次に列を作りながら南から北へと飛んでいった。


マンションの隣りにある公園からも鳥達の息吹を感じた。奏でる囀りが奈緒子がいるところまで聞こえてくる。そして一匹の黒猫がその鳥達と戯れダンスを踏むように無人の公園のなかをぐるぐると走り回っているのが見えた。


空は、太陽は、自然は。

今日の始まりを盛大に歓迎していた。



奈緒子は振り返ってマンション一階を見た。105号室の窓はカーテンに覆われたままだった。




奈緒子の横顔に温もりが伝わってきた。

東からの光りが、この世界全てに暖かさを伝え始めているのだ。



今日必ず言おう。


と奈緒子は思った。


朝は壮太君が後ろをついて来てくれる。


まず壮太君から。



私は大丈夫だからと。

イジメは無くなったよと。

もう

私の不幸に巻き込んだらいけないのだ。


よし…


奈緒子は空に向かって話しかけた。



「行こうかな…」




今日も学校へ。



マンションの前の通りを左に曲がってまっすぐの道を行く。そして突き当たりの大きな通りの上を跨ぐ歩道橋を渡る。

渡りきったところで奈緒子は道路の向こう側に顔を向けた。

人影があった。


今日もいてくれる。


あれ?



道を挟んで歩道橋の向こう側から上ってくるのは壮太ではなかった。


奈緒子は恥ずかしさで顔を赤らめながらも自然と笑みがこぼれた。


そこには彰がいたのだ。



彰も奈緒子の視線に気付きいた。


今日は行きも彰君なんだ。



軽く手を挙げてきた彰に奈緒子は小さく手を振ってまた赤面をした。


今日は壮太君ではなく。


彰君…



奈緒子は顔を赤く染めあげながら前を向いた。



言えない。


きっと今日も、もう大丈夫だよという言葉が言えない。



奈緒子は通勤時間の交通量がある道路の歩道を歩いていく。


あるところまで来て、ふと立ち止まり振り返ると、彰が歩道橋を渡り終えてちょうどこちら側に足を付けたところだった。


彰は振り返る奈緒子に気付き降りきった場所で同じく立ち止まった。


奈緒子は微笑んでクラリネットが入る黒いケースを少しだけ振ってみせた。

それはまるで手を振るように。


すると彰は、はにかむような顔をしながら、ぱっと横を向いた。


恥ずかしそうに彰も顔を赤らめて。あの頃の、子供のときのように彰は奈緒子の視線をぱっと逸らすのだ。


その瞬間にこの秋の空の下で。

奈緒子は小学生のときの思い出が脳裏に浮かんでいた。



「あ、奈緒ちゃん!ここ、ここだよ」


公園の滑り台の前で、地べたに座る小学三年生の彰は横をぽんぽんと叩いて奈緒子に隣りに座れと合図を送ってくる。



奈緒子が彰に視線を向けると彰はぱっと横を向いてそのままぽんぽんとすぐ隣りを叩いた。


恥ずかしそうにして横を向きながらいう



「奈緒ちゃん早くここに来て」



そして彰はちらっとこちらを見てから仰向けに寝そべった。




「奈緒ちゃん同じように寝てみて」




「えー。でも服が汚れちゃうよ」



彰の隣りに嬉しそうに腰を下ろした奈緒子は白のスカートをひらひらとさせながらいった。



「いいからいいから。たぶん汚れないよ土乾いてるし。ほら」


仰向けになったまま彰は手をパタパタと払って奈緒子に見せた。


手の平に付いた土を見て奈緒子は「もう」と微笑んだ。


「僕見たいに仰向けになって」


奈緒子は幸せそうに笑いながら同じく仰向けになった。



「ほら。見てよ。空」


彰は手を頭の後ろで組んで鼻歌と共に空を指差した。


奈緒子は彰の横顔を見てから同じく空に顔を向ける。



雲がとぎれとぎれに太陽を隠す秋空だった。筋雲と鱗雲に混じって乱層雲も顔を出していた。

賑やかな雲達は太陽や飛行機や鳥達と、広い空のなかでアートを描いてはしゃいでいるように見えた。


「空はいつも真上にあるんだ。たまにはこうやってじっくり見てやらないと。だってすごく綺麗なんだ。どんどん姿、形が変わっていくんだよ。あ、奈緒ちゃん。太陽が出たら目を閉じてね。目が目玉焼きになっちゃうから」


彰は自慢げに奈緒子を見てニッと笑った。


「うん」


すぐに秋の雲は太陽を隠しあげていく。


波状される太陽と雲の駆け引きのなか彰と奈緒子は肩を寄り添いながら仰向けのまま空を観察した。


ゆっくりと雲は動いていく。まるで動いていることを騙すかのように。慎重に、穏やかに、固形を演じながらゆっくりと動いていく。


しばらく二人は公園の滑り台の前で仰向けになっていた。


奈緒子が彰をちらっと見ると、すると彰が驚いた顔をした。


「あ、僕を見たらダメ!太陽が隠れてるときは大丈夫だから目を逸らしたらダメだよ。ずっと見ててよ。すごいことになるんだから」


奈緒子の顔がすぐ近くにある。

彰は顔を赤らめたまま頬を膨らました。


奈緒子は「はいはい」


と、にっこり笑いながら視線を再び空に戻した。


大きな雲の固まりが西から流れていく。


「あ…!」


言われるままにぼーっと見ていた奈緒子が声を出した。


「わかった?」


「うん。すごい。だって私達が」


―動いているみたい。


彰は奈緒子の手を握った。

「え…」



今度は奈緒子が顔を赤らめる。



「ね!二人で大空を飛んでるみたいだろ?いま僕らは鳥になってる。ダメだよ目を逸らしたらすぐに着地しちゃうよ!」


ゆっくりと動いていく雲をしばらく見続けていると自分達が動いているような錯覚になる。



「僕はもう二時間くらいここでこうして空と対決してるんだ。空は僕に鳥になるのを認めてくれた。奈緒ちゃんもなれたね。僕達は空を飛んでる。ね、奈緒ちゃん」


彰がギュッと手を握ってくる。奈緒子も強く握りかえす。


この時がずっと続けばいいのに。


奈緒子はばれないようにそっと彰に視線を移した。


彰の大きな瞳が輝いていた。


ずっと続けばいいのに。


風が吹いたのと同時にスカートの裾が小さく揺れた。


「あ、彰君!あの雲見て!なんだかイルカに見えない?」


「え?どれ?どれ?」


彰と奈緒子は手を繋ぎあったまま公園で寝そべり空を追いかけ続けた。


あのとき…二人は空を飛んだ。


あはは、昔は…彰君はもうちょっと愛想が良かったのにな。


でも。やっぱりカッコイイな。


奈緒子は歩道橋の向こう側へ顔を向けたまま喜びを胸のなかで膨らませていた。


ゆっくりと歩きだす奈緒子の心のなかは白がくっきりと残映として残った。



だがそれは短い時間だった。行き交う車のなか奈緒子はなにか視線を感じて道路の向かい側を見た。


「え…」


学生服を来た男子が二人こちらを見ていた。



「あれは…」



宮崎と山下だった。


強制的に現実へと戻された奈緒子は歩を速めた。


彼らが

どうしてここにいるの。


あの二人が

南門に来る時間はもっと後のはずだ。


なのに。どうして



20Mほど足早に歩いてから元の歩行スピードに戻した。


後ろには彰君がいる。



奈緒子には彰も距離が開かないように調整をして歩いてきているのがわかった。


たえず奈緒子の30Mほど後ろを彰は歩いている。



いま彰君は好きな人いるのかな。



そう考える思考に侵入してくる二人の男。山下と宮崎の薄ら笑いの顔が奈緒子を襲う。



自分によって彰が傷付けられたら私は…。



毎日が恐ろしい。



嫌で嫌で。いますぐにでも死にたい。



でも彰君を傷付けるのだけは。止めないといけない。


今日もまたされるであろう行為を考えると足が震えだす。毎日なにかが壊されていく。



背中には朝日の優しい温かさのようなものも感じている。


彰君が後ろにいる。


それは奈緒子の背中をほんわかと温めるのだ。



奈緒子は彰と壮太が自分のボディーガードをしてくれる行為は、たんなる幼なじみとしてなんだと自分に言い聞かせていた。


友達としてただ心配でいまの私を守ってくれるのだ。


片想いのままでいい…

彰君を見られるだけでいい。


笑顔が見られるだけでいい…



だから私は。


死にたくない。




奈緒子と30M後ろの彰はもう少しで学校に着くという場所まで来た。






「おい…またあいつが杉田の後ろにいるぞ」


佐野の手下である山下と宮は南門のなかへと入っていく奈緒子と彰を見送りながら舌打ちをした。



二人は彰に喧嘩を売ることはしない。

あの男に二人で向かっていっても勝てる見込みがないことはもう熟知していたからだ。


あの男は武道の使い手だ。

戦うならあと二人はいる。


「くそ」


山下が唾を吐いた。


二人は昨日の夜から奈緒子を抱きしめてキスをしたくて悶々としていた。


早くしたい。

二人は朝早くから奈緒子に会いたいがために登校道の人気がない辺りで待ち伏せまでしていたのに。



奈緒子の後ろには彰がいたのだ。



「またあいつだ。学校でだとほかの奴らの唾液で奈緒子が臭くなるんだよな」



山下が地面を蹴りながら吐き捨てるように言った。




「山下さ、杉田にキス以上のことはしてないよな?」



宮崎が訝しそうに山下を見つめた。



「な、なんだよ。してないよ」


言葉を濁す山下を宮崎は無言のまま見つめ続けた。


「こ、このままじゃ杉田が付け上がるよな。ま、まあ佐野君には不必要なことは言わなくていいよな」



「なぁ。ほんとに奈緒子にキス以上してないんだな?」



「しつこいな」


山下は足元にぺっと唾を吐いた。




「しかしあの大橋や遠藤が目障りだな。佐野君。いつあいつらボコるんだろ」


その言葉に宮崎は表情を一変させた。



「山下」



宮崎は思った。


山下のことは告げ口しておこうと。


どこかに呼び出して奈緒子の胸まで触ったのだろう。

奈緒子にキスをするたびにあいつの胸が触りたいという言葉がうるさかった。


宮崎にはわかったのだ。さきほどの山下の言葉によって山下は”感染者”ではないことが。





奈緒子は南門を入ったところで彰を待った。


彰は立ち止まりこちらを見つめている奈緒子に気付いて一度足を止めたが、またゆっくりと歩きだした。



「あ、彰君。私…大丈夫だから…あの…イジメとか…もう全然無いから…」




「おはよ奈緒ちゃん」


彰は片手を上げながら挨拶をしただけで通り過ぎようとする。


「彰君。私ね…」


彰は奈緒子の真横で止まる。



そして真顔のままに前を見据えながら言った。


「奈緒ちゃん。守るから。必ず。だからおれを頼って」



歩きだす彰に向かって奈緒子はもう何も言えないでいた。

ただ彰の遠ざかる背中を見ながら込み上げてくる涙を必死にこらえるだけだった。

見上げると秋の空が幻の世界のように滲んでみえた。

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