進まなくなる時間
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杉田奈緒子は玄関のドアの鍵を開けて中に入ると靴を脱ぐこともなくその場にしばらく座り込んだ。
動悸が激しいままに涙は枯れることなく頬を伝っていく。
暗闇のなか奈緒子はうずくまり泣きつづけた。
立ち上がり明かりを付ける力が湧いて来ない。
父がもうすぐ帰ってくる時間だ。
立ち上がらないと。
奈緒子が足に力を入れたときに込み上げてきたのは酷い吐き気だった。
目の前に三人の男の顔が浮かび上がった。
「う…ぅ」奈緒子は口を手で押さえながら洗面所に駆け込んだ。
もう吐き出すものは胃液意外には何もなかった。
それから何度も唇を洗った。泣きながら顔をしわくちゃにさせながら奈緒子は何度も何度も唇を洗った。
石鹸が口のなかに入り何度もむせながらも、擦りすぎて下唇から血を滲み出しながらも奈緒子は洗うことを止めなかった。
しばらく続けてそして奈緒子はまたその場にうずくまった。
すぐに震える身体が訴えてくる。
唾液の臭いだ。
「や…やだ。もう…いやだ…」
男達の唾液が染み込んでいる学生服を脱ぎ下着も脱ぐと風呂のなかへと駆け込んだ。
そしてまたシャワーを頭から浴びながらしゃがみ込んだ。
奈緒子は小学六年生からイジメを受け続けた。
その無慈悲なる一方的な行為にやがて彼女は疲れ果て自らの意思での脱却を忘却していた。
まるで熱湯が敷き詰められた大窯に入れられる中世に行われた魔女刈りのように、作為的に屈折させられた運命だと知りながらも奈緒子は成すがままに平伏するようになった。
だが。男達の性的なことだけは許さなかった。
そこだけは守り通さねばならないという強い意思が奈緒子にあった。
奈緒子には愛する人がいた。たとえその恋が片想いだとしても奈緒子には命に変えて守り通さねばいけないことだった。
男に唇を奪われていたら奈緒子は自ら死を選んだであろう。
いまの奈緒子はそれすらも出来ないでいた。
数日前から彼女は男達から自由にもてあそばれるようになった。
「なおこぉ。大橋って一年を俺達にやられたくなければ、自殺するなよ。絶対抵抗もするな。親に言うな。わかったな。ほんとだぞいくら大橋が喧嘩強くてもこっちはこわーい先輩方を何十人と連れてこれるんだからな。お前がなにか一つでも違反したら大橋は殺さるぜ」
いまの
奈緒子はただこの非情な日々を愛する人を守るがために送っていたのだ。
私のせいで彰君を不幸にはさせない。
私は…。
彰君を…。
明日もまたなにかを受け止めそして壊されていくのだ。
奈緒子はシャワーを全身に浴びながら彰の笑顔を思い出しまた涙を流していた。
彼女は家に帰れば普通の中学二年生の女の子を演じた。
学校に行けば教室でも部室でも逃げ場などなく虐げられた。
奈緒子の父親は体裁を気にする人だった。
自意識が異常なまでに強いといってもいい。
彼女は、二つの場所で生息する自分はどちらも影法師のように形はあれど実在がないものに感じられた。
風呂から出て部屋着を着て洗面所の鏡の前で放心状態でいた奈緒子はチャイムの音で我にかえった。
すぐに玄関の鍵が開けられ、背広姿の男が入ってくる。
父親だった。
「奈緒子。ただいま」
「お帰りなさい」
奈緒子の父親は帰りが早かったり遅かったりと日によって変わる。
遅くなる日はおそらく女性と会っている。と、奈緒子は推測していた。
母親と妹の美椙が亡くなってからたったの二ヶ月後に父親は、一切合切の悲しみをどこかに投げ捨ててきたように見知らぬ女性を家に連れてきたのだ。
当時幼かった奈緒子は、そんな父親がただ怖くそして憎くすら思えた。
「さてと。今日のご飯はなにかな?」
奈緒子は、父親が早く帰ってくるときは二人分の料理を必ずつくる。
だが今日はなにも出来ないままだった。
「ごめんなさい…まだなにも。昨日の肉じゃがの残りならあるよ…」
「そうか」
「いまから温めるね。お父さんビール飲むよね?」
奈緒子は冷蔵庫からビールと戸棚からグラスを出してテーブルに置いてから、昨日作った肉じゃがの残りを鍋のなかに入れた。
父親は上着を脱いで手モミをしながら椅子に座る。
父親は無言のままグラスに注いだビールに口をつけた。
「似てるかな…」
奈緒子が小さな声を出した。
「ん?」
「お母さんの作った肉じゃがと私が作る肉じゃがは…味が似てるかなお父さん」
父親はグラスを片手に奈緒子の背中を見ながら首を僅かに傾げた。
「母さんの肉じゃがか。どうだろうなぁ。もう覚えてないな」
ビールを啜る音。
「そっか…」
奈緒子には記憶のなかにしっかりと閉まってある。
母の肉じゃがの味。
母の温もり。母の優しさ。
隣りには満面の笑顔をした美椙。
記憶のなかにいまも鮮明にある光景だった。
それらが父親にとってはすでに過去でしかないのだ。
いや違う。
切り離され消されていく過去の記憶だ。
父親が、母親や美椙へ抱いていた愛情というものは、いまいったいどんな悲しみの色をしているのだろうか。
お父さんはいまの私を愛しているのだろうか?
「これから料理も頑張って、母さんに近付いていけたらいいな」
「う、うん」
「奈緒子。最近の学校はどうだ。勉強もきちんと出来てるのか?」
「え…」
奈緒子が温めて皿に盛った肉じゃがを父親は頬張りながら聞いてきた。
「勉強とか、友達とかさ。どうなんだ?最近の学校は。うまくいってるか」
「う…うん…順調よ。友達とも仲良しだよ…勉強も大丈夫。お父さんどうして?」
父親に背中を向けたままの奈緒子の肩はカタカタと奮えだした。
その震えは指先まで伝わっていた。
「そうか。友達に恵まれるのはいいもんだ。大切にしろよ。ほら奈緒子も早く食べなさい」
そういうと父親はビールが入ったグラスを再び傾けた。
彼女は父親にイジメのことは何も言えなかった。それは父親を心配させたくないのもある。が、言えない最もな理由は父親の彼女への愛情の欠如を知りたくはなかったからだ。
奈緒子は毎日決められたことをする。
それは夜九時にカレンダーの日付に×印を付けていくことだった。今日も奈緒子は黒いマジックで力強く二本の線を交差させた。
そして昨日までの過去に付けられたシルシを見て思うのだ。
一つ一つ微妙な違いを見せる×印。
それは自分がその日を生きてきた証だった。
そしていまも生きている。のだと。
まだ先は長い…。とても…。
中学校を卒業して高校生になれば…
あと一年ちょっと。
我慢を続ければ私は解放されるのだ。
奈緒子は歯を食いしばり堪えた。
誰も助けてはくれない… ただ時間が助けてくれる…時間が解放させてくれる
時間だけが味方だ。
時間…時間…時間。
時間がすべてを解決させるという保守的な考えのみによって奈緒子は現況の脱出を期待した。
ただ、イジメは明らかに変化を来していた。
奈緒子はなにも口にすることができなかった。そして夕食を終えて父親が使った食器を片付けている最中、身体が再び震えだすのを必死に押さえ込んだ。
寝るときにはまた襲う全身の震え。
明日を考えたときに出る悲しみや恐怖が震えを引き起こす。
だがその震えすらも変わった。もう時間が解決することは難しいのかもしれない。堪えられないかもしれない。
そういった思いが震えかたすらをも変えた。
ガクガクと震えだす身体を沈めるために奈緒子は好きな人を心の全てで思い染め上げた。
彰を想う。
想像するのだ。
彰と楽しく話す自分のことを。
そして彰の笑顔と白く長い指を。
風が吹いて揺れる前髪を。
彼の広い肩幅を。
奈緒子のなかの震えがゆっくりとだが着実に静まっていくのが奈緒子にわかった。
奈緒子は仰向けのまま手を天井に向けて挙げた。彰の髪に触れるのを想像した。
そしてすぐに耳を床に押し当てた。
この建物の一階には彰がいる。
奈緒子は布団に鼻を押し当て彰の香りを探した。
彰君を守るために。
私は死なない。
私は生きる。
彰君にまた明日会えるかな…
奈緒子は自然と微笑んでる自分に気付き一人赤面をした。
朝は彰は一緒ではないが帰り道には必ずいた。
北門の隅の壁にもたれ掛かり。待っていてくれる。
彰と壮太が登下校を一緒に歩いてくれるようになってから明らかに見る景色が変わった。
恥ずかしさもあるがそれ以上の嬉しさがあった。
だがそれと同じくらいの恐怖感もあった。
何かされているところを二人に見られてしまったら。と奈緒子は想像すると怖くなる。
私によって迷惑をかけることになるのだ。
「彰君。壮太君。もう私は大丈夫だから。イジメなんて怖くないよ」
布団に入った奈緒子は、彰を想い浮かべながら”明日必ず言う”と呪文のように何度と唱えるように復唱した。そのうちに浅い眠気が身体を包みはじめた。
「おやすみなさい彰君」
奈緒子は床に話しかけて浅い眠りに入るために瞳を閉じた。
彰が吹奏楽部に乗り込んだ翌日から
奈緒子に対する性的なイジメは急激な加速でエスカレートしていった。
なかでも
とくに酷いのは山下という男だった。
奈緒子の机のなかに入れられた紙切れには場所と時間が殴り書きされていた。
奈緒子が行くと必ず山下が一人でいた。
今日も指示された通りに昼休憩に美術室に行くと山下が机に座って薄気味悪い笑顔を浮かべていた。
「お、来た来た。おまえは健気だな」
突然近付いてきた山下にスカートをめくられる。
「何嫌がってんだ。ほら下着見せろゃ。お、白じゃん」
山下は奈緒子の手首を強く掴み奈緒子の唇に自分の唇を強く当ててきた。
しばらくキスをしてきてから後ろに回り胸を強く掴まれる。
「キャッ!」
「杉田。いい胸してるじゃん。前から揉んでおけばよかった。なんだよ。お前いま嫌がったのか?嫌がったらわかってるよな」
下着のなかに入り込む山下の手。
奈緒子は山下にされるがままに胸を揉まれキスをされた。
「とりあえずいまはまだキスと胸だけにしといてやるよ。なぁ奈緒子。おれがお前を連れだしてることは絶対に佐野君には言うなよ。わかったな!」
奈緒子は激しくキスをされながら震えるように頷いた。
部活動を終え玄関口で上履きから靴に変えたときに、足裏に粘着性がある液体が付着する。
奈緒子は小さな悲鳴を上げて靴を急いで脱いで靴下も脱いだ。
目線を感じる。
離れた場所で男達数人がこちらを見て笑っていた。
そして数人で取り囲み
無理矢理に何度も唇を当ててきた。
「それは宮崎の精子だぞ。ほらキスさせろ」
今日は五人の男が代わる代わるに奈緒子の唇を吸った。
奈緒子は抵抗をしなかった。男達にされるがままに奈緒子は服従した。
誰かの気配が近付き解放される。奈緒子は裸足のまま靴を手に走った。
北門だ。
北門だ。
奈緒子は泣きながら北門を目指した。
「奈緒ちゃんお疲れ」
壮太の声が聞こえる。
顔を上げると彰もいた。
いつもの場所で二人は奈緒子を待っていた。
「ご、ごめん…ちょっとお腹痛くて。さ、先行くね」
「だ、大丈夫か?」
壮太の声を無視するように奈緒子は走りだした。
裸足のままだった。
家に帰って洗面所に駆け込んでまた洗う。
何度も
何度も。
そのまま
洗面所で奈緒子は泣き崩れた。
いま一人きりになったときに込み上げてきた涙と共に猛烈な恐怖感と虚脱感が襲いかかる。
声が聞こえてきた。
奈緒子は涙で濡らした顔のままカーテンの隙間から声が聞こえた公園のほうを見る。
彰と壮太がいた。
奈緒子は座り込んでカーテンにしがみついたままその声を聞く。
彰の声はよく通る。
微かな風に乗って届くその声は奈緒子を立ち上がらせた。
いつか…
告白したい…
あの人にこの想いを…
必ず。
奈緒子は立ち上がると壁に掛けられたカレンダーに向かう。×印を付けるために。




