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初恋。  作者: 冬鳥
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君を守るということ

@



土曜日の夕刻。彰と壮太は自転車を走らせて隣町の七宝町まで向かう。

目指す先は空手道場だった。


空手には数多くの流派がある。そんななか二人が出会った空手は龍真会という空手界では有数の一大流派だった。


龍真会。


昭和初期、単身日本に渡った朝鮮人が立ち上げた流派になる。

彼は暴力と差別と貧困のなか、空手という金剛杖を右手に度胸を左手に抱き潜り抜けていった。そして戦後、我が身を守った空手によって社会的地位を築き上げた。

彼は武芸に秀でるだけでなく有能な指導者であり、また野心、造詣、知恵もあった。いままで空手と呼ばれた概念を打ち消すほどの改革を施した龍真会は、瞬く間に全国規模へと急成長していった。


龍真会の主なる特徴は、俗に喧嘩空手と呼ばれる対人との実戦を想定した稽古方針だった。



創始者は門弟たちに空手を教える傍ら、暴力の無意義を説いた。そして蔓延する暴力への対処方法も同じく説いた。

世の平和と安楽を願い祈り唱える宗教者達がときに底無しの暴力ないし戦争を繰り広げ殺戮者となるものと似ているだろう。



要は《売られた喧嘩は買え》ということだ。



突発的な人的災難に出会ったときに対して、いかに自らの身を守り、あるいは隣りにいる大切な人を守るか。


もちろん龍真会へ足繁く通い鍛練をする人のなかには、暴力の短絡的な快感に溺れていく人もいる。日々道場ではいかに素手、素足を武器に変えて人を倒すのかを練習するのだ。それは個々に維持する良心なるものを揺れ動かす危険行為でもある。


もし少年時代から龍真会のような実戦向きな空手を習うならば、良い指導員に巡り会うのが肝心要素になる。一歩間違えれば暴力を対人関係の圧力として利用する子供が出来上がってしまうことになるだろう。それは対人との信頼関係を結べない壁となり長きにわたり障害として立ちはだかってしまうことを意味する。


龍真会の空手は、とりわけ子供達にとっては諸刃の剣ともいえる。指導者の手腕が試される。


彰と壮太は空手によって多くの人と交差していくことになるが、とりわけ渡辺との出会いは二人を大きく成長させ特出していくことになる。



七宝道場では二人の指導員が曜日を決めて稽古を受け持っていた。


毎週土曜日を担当指導しているのが渡辺という30代の男だった。



土曜日は、一般の大人と子供が一緒になって午後7時から9時半まで稽古をする。


七宝道場は常設道場ではなく貸しスタジオで稽古をしている。この日も磨かれた板張りの床の上に15人ほどの道場生の汗が滴り落ちていた。この貸しスタジオにはバレエ教室も入っており、スタジオ入口の壁に張り付けてあるチラシの写真はバレエの華麗さと空手の重厚さが肩を並べていた。唯一の共通点といえばどちらも純白を身に纏っていることだろう。



渡辺の体格はそれほど大きくはない。身長175㎝ほどの筋肉質な体型になる。

いま向かいの県道を走る車内から見えるガラス越しの彼は武道家特有のぴんと張った姿勢のまま、道場生が一斉に突きを繰り出すのを後ろ手に見守っている。その目つきは鋭い。まるで獲物をとらえる獣みたいだ。

だが、稽古が終わるとその目付きは緩み本来の垂れ目となる。そして人格を滲み出すように生徒達と分け隔てなく接していくのだ。

表情だけを見れば別人のようであった。

稽古中に注意する声は背筋が急激に寒くなるほどに厳しい。私語をする子供には本気になって叱る。


「中途半端な気持ちで来てるならいますぐ帰れ!」


渡辺の声は空中のなにかと波長が合うようによく通る。

広い板張りの部屋が震えるような声だ。

叱られた小学生はたちまち縮こまり目を真っ赤にした。


「ごめんなさい…」


子供が涙を溜めながら謝ると渡辺の表情は緩む。


「わかればいい。空手を中途半端にやってると怪我するからな。稽古が終わってからおおいに話せ遊べ。それまでは真剣にやれ。わかったな?」


「はい!」



渡辺は子供達に空手を通じて礼儀やけじめ、優しさを植え込むのに腐心していた。

彼はおそらく根っからの空手好きであり子供好きなのだろう。


今日も同じく稽古が終わり着替える時間になると渡辺の頭のスイッチが切り替わるように、胴着を脱ぎタオルで全身の汗を拭き取りながら話しかけていく。


小学生から中学生、高校生に一般の大人。

女性もいる。


人数はその日によってバラバラだが

あらゆる年代が、稽古が終わると渡辺を中心に交流をする。

今日も同じように皆が、弾む息を抱きながら輪を作り他愛ない話しをした。


そんななか彰と壮太は終始無口であり、渡辺は時折二人を見つめては首を傾げていた。


「よし。そろそろ行くか」


渡辺の切り上げを示す言葉によって皆が帰り支度をはじめる。

彰と壮太は、鼻歌混じりに胴着を床に広げて畳もうとする渡辺に近付いていってその目の前でちょこんと揃って正座した。


「あの…」


「おお、お疲れ、いやぁ二人とも今日は動きが悪かったな。次はがんばれよ」


渡辺は顔を上げるなり二人の消沈した顔を見つめた。


「あ、あの…先輩…」



「なんだ?」


「えっと…」


「よしわかった。道場を出たら話しを聞こう。いいな?」


何かを察した渡辺は二つの肩を優しく叩いてから立ち上がった。


「さあ、もう時間だから、さっさと着替えてとりあえず出るよ。時間過ぎると管理人のおっさんがやって来てネチネチとうるさい」


渡辺は大きな笑い声を出しながら一人歩いていく。

道場生達も顔を見合わせてから渡辺に遅れて笑いだした。



道場生はぞろぞろとスタジオの外に出てくると渡辺に向かって挨拶をしていく。


「押忍!お疲れ様でした!」

大人達は駐車場に停められた自家用車に向かい、少年達は迎えに来ている保護者の車に乗り込んでいく。



そしてその場所に残っていた彰と壮太は、渡辺が大きなカバンを足元に置くと、ぼそぼそと話しだした。



「渡辺先輩…オレ……オレ…」


「ん?壮太。どうした、何があった?オレ、オレって言われても意味がわからないぞ。何があった?聞くから言ってみろ」


渡辺の声は包みこむような優しい問い掛けだった。

その声に誘われるように二人はぽろぽろと涙を流し始めた。



「おいおい。どうした」



二人は三日前の出来事を泣きながら話し始めた。





彰と壮太は同じクラスの二人を加えた四人でいつものマンション隣りの公園でサッカーをしていた。壮太がキーパーで三人が交互に蹴って遊んでいた。そこへ、学生服を着た中学生らしき男達が公園のなかにずかずかと入ってきた。中学生らしき男達はそれぞれにまだ幼さが抜け切っていないが、一人前の小悪党に扮する総勢八人の大所帯だった。


「サッカーやってんだ。なぁなぁ俺達も混ぜてくれよ」


ボールは彰の足元で止まっている。



「なぁ俺達もこいつに蹴っていいの?」


男達はフェンスぎわでキーパーをやっていた壮太を指差してニタニタと笑った。

壮太は負けじと中学生達を睨みつけた。


「なんだお前。おい、このクソデブ睨んでるぞ」


一人が彰を突き飛ばしてボールを無理矢理に取り上げると勢いよく蹴った。それが壮太の膝に勢いよく当たり向かいの滑り台のほうへと転がっていく。


ボールが当たっても微動だにしない壮太はまゆの辺りにシワを寄せて睨みつけたままだった。


「なんか腹立つなあいつ」


男達のリーダーらしき男がそう言い唾を吐いた。


「あ…あの…やめてください」



おそるおそる彰が言うと、中学生の一人が振り向きざまに彰の頭を叩いた。


「うるせえ!」


頭を抑え身体を縮める親友に反応した壮太は憤怒の形相を中学生に向けた。


「やったな!」


多勢に無勢だ。壮太の怒りを中学生達は意に介さない。


「おいデブうるせえぞ。よーし全部取れよ!」


中学生達は笑いながらサッカーボールを壮太に向けて勢いよく蹴っていく。



友人の二人の小学生は公園の隅で固まっている。彰は涙を必死に堪えて直立不動の姿勢を維持していたが、壮太の頭にボールがまともに当たったのを見るとたまらなく悲鳴をあげた。


中学生達は汚い笑い声を出す。


「ギャハハ!デブにモロ命中。おいおい、あいつまだ睨んでるぞ。なかなか度胸あるじゃん。殴っちゃおっか」



彰は公園入口に向かって走りだした。


「壮太!ケンジさん呼んでくる!」


「やめろ彰!」


壮太の甲高い声にびっくりしたように彰は足を止めた。


遠藤賢治。壮太の三つ上の兄である。


「にいちゃんは関係ない!絶対に呼びにいくな!」


壮太の掌は血の気が失せるほどに強く握りしめられていた。



@




「そうか…。で、どうなった?」


渡辺は無精髭を生やす顎を摩りながら壮太の泣き顔を見届けていた。



「う…ぅヒクッ…その後は彰と…他の友達が謝ったんだ…何度もすみませんすみませんてあいつらに。俺達は…なんにも悪いことしてないのに…ヒクッ。なんか…すげえ悔しくて……ヒクッ、オレは何もできなくて」



壮太がここまで泣くのは珍しいことだ。渡辺の記憶では入会仕立てのときに同年代の男の子に顔面を蹴られて泣いていた。それ以来ではないのか。

片や大橋彰の涙は数え切れないほどに見ている。



渡辺は咳払いをしてから稽古の余韻のごとく額を濡らす汗を拭った。


壮太は戦うつもりだったのだろう。例え多勢に無勢でも向かっていく。そんな男の子だ。


だが。守るべき人がいた。

きっと悩んだのだろう。

何度もボールをぶつけられながら、大きな分かれ道を壮太なりに必死に思案し決めようとしたのだ。


結局は、いま悔しくて悔しくてただただ泣きじゃくる結果が残ったわけだがこの涙はあのとき向かっていかなかったことへの後悔なのだ。仲間が泣きながら謝る姿を自分の責任だと思ったのだ。向かっていける自分の度胸は十分にあった。だからこそいま余計に悔しいのだ。他面、壮太はどこかでわかってもいる。仲間がいたからこそ行けなかったことを。要はいま自分が下した決断を理解してくれる人を求めているのだ。



そして考えれば考えるほどに深い。

渡辺は腕を組んで「うーん」と小さく唸ったが心中は晴れやかなる気持ちだった。

遠藤壮太は大成する。きっとどの分野でも抜きん出るだろう。


いま渡辺はそう確信していた。


もし守るべき人がいなかったらこいつは存分に戦っていただろう。


渡辺はこの話しの核心をおさえていた。


おそらく…。

遠藤壮太が本気になったならば。さぞかし中学生達は仰天したことだろう。


渡辺にはわかるのだ。

日々空手をスポンジのごとく吸収していくこの逸材の実力を。


それは大橋にも言えることだ。

ただ、いまの大橋は如何せん気持ちが弱いところがある。


渡辺はいま二人の成長していく過程を垣間見たようで嬉しくて仕方なかった。


そして渡辺は諭すようにゆっくりとした口調で話し始めた。


「壮太、泣くな。俺にはわかる。お前はその場にいた友達も守りたかったんだ。友達を守ると考えたときに戦うことを躊躇した。だろ?」


「オレ……オレ…」



「まあ聞け」


渡辺は俯いて涙を流す壮太に一歩近付いた。


「壮太。俺も同じことがあったら謝るぞ。俺なら土下座して頭を地面にこすりつけるまでする。額を泥だらけにして涙流して鼻水垂らして謝る。ずみまぜんでじだっグスン。てな」



渡辺は自分の話しの姿を想像したのかクスッと笑った。


「だな。間違いない」


一度小さく頷いてから真剣な面持ちになった。二人が見つめるいまの渡辺は稽古中の表情になっていた。



「え……先輩が謝っちゃうんですか…」


「ああ謝る。しかも土下座もする。渾身の謝罪ってやつだな」



渡辺は彰と壮太にいっそうに距離を寄せる。スタジオの入口の前、三人は肩が触れ合うほどに固まった。


「お疲れ様」


その横を管理人の初老の男が鍵をじゃらじゃらと鳴らしながら通り過ぎていった。

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