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初恋。  作者: 冬鳥
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2010年19時




2010年12月27日。


午後七時ちょうど。


寒風によって巻き上げられた砂埃がフロントガラスを細かく叩いた。


見据える目はあのころのままに。


大橋彰は険しい表情のままハンドルを握り続けていた。



助手席に気配を漂わす


”そのもの”が笑い出す。


クックック…


俺達はみっともなかったよな。


ああ、まだあのとき俺は貴様のなかに寄生していなかったか。クックック。


お前のどうしようもない無能さは奈緒子をまた突き落とした。




大橋彰の運転する黒色のヴァンガードが混雑する岡崎市内を抜けようとしていた同時刻。


名古屋市中区栄三丁目の雑居ビルの10階にあるプールバー。


そこで一人の男がバーカウンターに座り酒が入ったグラスに口をつけていた。



店内にはビートルズのレットイットビーが爽快に流れており、天井からはオレンジ色の照明があらゆるポイントを効率よく、さらにムードを高めるように照らし出していた。

座る男の後ろには綺麗に磨かれたビリヤード台が立ち並んでおり、側壁には同じく磨かれたcueが光を反射させながら立て掛けられていた。ライトに照らされるそれらは、窓の奥で光り輝く夜景によって一層に引き立てられていた。


店内はまだ時間が早いこともあり客は少なかった。あと二時間も経過すれば大勢の若者達がグラスを片手にビリヤードに興じる空間となる。そのころには玉突きの乾いた音がBGM変わりになっていくのだろう。


いまこの場所では流れるビートルズの名曲が静かな雰囲気をリードしていた。


カウンターで一番隅に位置するスツールに座る一人の男の背中には、ビリヤード台から反射される弱い光りが撫で付けていた。


グレーのジャケットを着たままの男はジンベースのカクテルに薄い唇をつけた。


男が軽くグラスを傾ける指には優美さがあった。細長く白い人差し指と中指には品のいいシルバーの指輪がはめられおり、手首から顔を覗かせる時計はオメガの高級品だった。

グラスに氷が当たる音が彼の手元から心地好く流れていた。


カウンターを挟んで男の前には若い女性店員がいた。


その女性は楽しげに話しかける。



「沢村様。それでどうなっていったのですか?続きがすごく気になります」


若い女性店員はそう言うと男と目を合わせてから彼の口元まで視線を移していった。


男は笑顔を作りあげた。


彼が笑うと八重歯が強調されて可愛いさが滲み出る笑顔になる。

それは女心を擽る笑顔だった。


短い時間八重歯を覗かせていた男は笑顔を消すと同時に来店したときからかけていた眼鏡を外してグラスの隣りにそっと置いた。


女性バーテンダーはその顔を見て鼓動が瞬時に早まるのがわかった。

目の前の男性客が眼鏡を外す行為を見たのは初めてであった。


覗かせた瞳は異様なまでに鋭く感じた。


印象の違う二つの顔をもつ男だと女性店員は思った。


彼にとっての銀縁眼鏡というアイテムは刀身を収める鞘みたいなものなのだ。


眼鏡をしているときの彼はいかにもなインテリな男に見えた。

身体は細いラインに仕上がっているのがわかるしルックスも整っている。


服装も自分に何が似合うか熟知しているようで、髪は黒髪で襟足が長く、漂うバニラのような甘い香りが悪くない。


洗礼されたインテリ風。




だが、いま彼が眼鏡を外したときの表情は一転した。

女性店員には鞘から抜いた刀身のような瞳に見えた。

彼の内部にある凶器と狂暴が前面に押し出し、男女関わらず見据える相手を試すような威圧感だった。


眼鏡を外したほうのがいい男だと思った。


ホストにも芸能人にもなかなかいない雰囲気がある瞳の奥底まで覗いてみたくなる。



計り知れない男は警戒されるものだ。


短絡的でわかりやすく外見が良い男がホストに求められる。



女性店員はいままでに世の中でいう多くの”良い男”と交際をしてきたといえた。良い男達に貪られるままに抱かれきたし男の体を貪るままに求めてきた。そんな良い男でさえ自分から交際の別れを切り出したときの醜態さは何度も味わってきた。彼女は頭のなかで過去に関係をもった男の顔を高速のスピードで駆け巡らせた。



この男性客は…。

いままでに経験のない得体の知れない何か…

女として生まれた私が本能のままに引き付けられる魅力があった。

いま彼女の記憶は通り過ぎていった男達を踏み越えて少女時代まで遡っていた。

古井戸を覗いた。

見えない底。

水はあるのか石を落としてみる。

彼女は耳を澄ます。

音が鳴る。


瞳の力だけで引きずりこまれていく。



「この話し。まだ聞きたい?」



彼女ははっと息をのんで彼を見た。



彼は微笑んでいた。

刀の冷たい切っ先が頬を撫でていく。そして蛇のように身体に纏わり付いてくるなにか。


彼女は小さく頷いた。


単純に言ってしまえばそそるのだ。


彼に。



目の前にある不可思議な魅力の味を知りたくなる。


堪能してみたくなる。


あれのとき

この人はどんな声をだすのだろう?


あの鋭い眼差しのまま私の体を玩ぶのだろうか?



「沢村様。続きを聞かせてください」



女性店員はこの男を前から知っていた。

この店のもう一人のバーテンダーでもあるマスターとは昔からの知り合いらしく、よくこの店に飲みに来る男だった。ビリヤードをやらせるとかなり上手い。

最初に見たときからいい男だなと思っていたのは事実だ。だが世の中に星の数ほどにいるいい男の一人だとしか見えなかった。

三回会えば知り尽くす薄っぺらい人間性、ベッドでは愛を置き去りにした自分本意のセックス、そして別れを切り出せば泣き出す。


男は皆くだらない。

飽き飽きしていたころだった。



いま目の前で眼鏡を外した男の鋭い視線をひしひしと感じる彼女は、彼に目眩を覚えるほどの深い興味を抱いてしまっていた。

少女時代の記憶。

古井戸を覗いたときのことが何度も蘇る。

異次元への香り。

暗闇に潜む興味とスリル。

興奮と好奇心。

底に眠るなにかへの願望。


それらは彼女が女として忘れかけていた男に求めるものだった。



沢村が話しの途中にトイレへと向かったとき、髭を蓄えたマスターがいそいそとこちらに近付いてきた。


「沢村さんには気をつけてよ。お持ち帰りされないようにね。わたし眼鏡外したところはじめて見た」


「え?マスターも?」



まだ時間が早いので店内には客も少なく、女性バーテンダーでもある彼女は30分ほど前から沢村という男性客の話し相手になっていたのだ。

そして30分で見事なまでに心を奪われた。


距離を開けて同じくカウンターのなかにいるマスターはグラスを拭きながらこちらをちらちらと見てきていた。


心配なのだろうか…


女性店員はマスターを見て笑いをこらえた。



心配なのは…


マスターはまず間違いなく

この沢村さんが好き。


だから私を心配してるんじゃない。





彼女は今一度、席に戻ってきた沢村と視線を合わせてみた。

そして少しだけまたベッドの上での彼を想像をしてみるのだ。薄い唇のキス。細い顎を動かす囁き。襟の隙間から見える鎖骨の硬さ。



どんなふうに自分の体を求めてくるのだろう…


だめだ。


彼女は諦めた。

まったく想像がまとまらない男だった。

彼が持つ二つの顔が思考を妨げてしまう。



彼女はいつのまにか二人の沢村に愛撫されていることを想像していた。


二人になるなんて。


女性店員はバカらしくなって妄想を遮断させた。



「まだ聞きたい?」



沢村という男はテーブルに置いてある銀縁の眼鏡の横にあるタバコに手を伸ばした。



「はい。もしよろしければお聞かせください。ご覧いただくようにまだお客様も少ないですし。お願いします沢村様。いったいどうなていくのか、さっきお話してくれた彰さんの奈緒子ちゃんを助ける起死回生の行動にはびっくりしましたし感動もしました。映画のワンシーンみたいに情景が思い浮かんでしまい私もその音楽室にいるようでした」




いまから話すのはフィクションだとかノンフィクションだとか考えずに聞いてほしいんだ。



彼女がシェイカーを振ってカクテルを調合しているときに目の前に座っていた俊介が唐突に話し始めた。


最初はその会話から始まったのだ。


フィクションとノンフィクション。


女性店員は話しを聞いていて、すぐにこの男性は自分の中学時代の記憶を話しているのがわかった。作り話しにしては伝奇的、空想的、冒険的な要素は少なくあまりに現実的だったからだ。きっとすべてがノンフィクション。虚構などないのだ。


それに登場人物の”俊介”がこの男性の名前だというのは以前から知っていた。


髭面のいかつい体格をしたマスターが「今日はシュン君来てる」

と言いながらキャッキャと喜ぶのをいままでに何回も見てきている。


沢村俊介が口にする旧友の仲間達の名前。


そのとき彼の眼差しはなんとも言い難い甘さが浮かんでいた。


彼女はいま仕事そっちのけで、俊介の話しにすっかり引き込まれてしまっていたのだ。



「沢村様。彰さんはかっこよすぎます。単身で音楽室に乗り込んで相手にイジメることはリスクある遊びなのだという恐怖感を加害者達に植え付けてしまわれました。それは中学生では考えることも実行することも難しいことだと思います。沢村様。次はライバルである壮太さんの挽回になるのでしょうか?楽しみです。イジメる男達を番長がぎゃふんといわすのでしょうか。御迷惑でなければ早く続きが聞きたいです。あ、でも私は壮太さんファンです。彰さんは完成されていて近寄り難いところがあります。番長さんはどこか憎めないというか温かみがあるというか。すみません。私の意見などは必要ないですよね。でも、これだけは感想として言いたいのでずが、なんかいいな、羨ましいなって思ってしまいます。二人の良い男から愛されているんですよね奈緒子ちゃんは」


女性バーテンダーは話し終わるとくすくすと笑い出した。



「私は沢村様が話す物語にすっかり入り込んじゃってます。これも沢村様の語りかたがお上手だからです」



「愛か」


俊介は鼻で笑うように言った。


カウンター越しにいる女性店員は30歳になる俊介より少し年下くらいだろうか。

口の右下にあるホクロが印象的な女性だった。



「愛ね…人がほんとに人を愛したらなにがなんでも自分のものにしたくなる。そうだろ?」


「はい。そう思います」


俊介の瞳は心のなかで埋もれる愛を探すかのようにゆっくりと閉じられた。


「その愛を邪魔するのは自分自身なときもある。自己愛、自意識、自尊心。自分に陶酔する奴ほどほんとの愛を得られない」


だろ?


開かれた鋭い目が彼女を捉えた。


「彰と壮太はあの頃からすでに、自分として生きるいまこの世界のすべてを無くしてでも奈緒子を手にしたいと思っていた。二人は限界まで一人の女を愛した。いや、俺達が決して達することができない限界の向こう側まで奈緒子を愛していたんだろう」




俊介は時計を見た。


いま彰は名古屋に向かっているだろう。


導かれるままに。



そして今日すべての謎が解けたときに彰はどうするのだろうか。俺と樹里はそれを見届けなければならない


”責任がある”



「話しの続きといこうか」


俊介は彼女の目を見つめた。

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