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初恋。  作者: 冬鳥
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解毒剤


枕木の香り。


言ったあとに、彰のはにかみながら俯く姿が俊介の脳裏には克明に浮かんでいた。


彰は俊介の母親がもつ慈愛を拾いあげ樹里の両親のお互いに見せる微笑みを掴みあげる。


そんなに悪いレールの上ではないよ。と言うのだろう。彰は話を聞いてそれは辛いな、とただ同情するだけじゃなく必死に手を差し延べ泥沼から掬い上げようとする。



普段見せる涼しく爽やかでいささか冷たくもあるその表情は、こちらが真剣に悩みを或いは恨みを告白すれば、幾分動揺を見せながらも熱く真っすぐな眼差しへと変わっていくのだろう、

透き通る純粋なる瞳と空手で鍛えられる頑丈な手を彼は差し込んでくる、そして入り組んだ迷路のなかへと一緒に足を踏み入れていくのだ。



俊介は日々、彼の観察を怠らない。



彰の会話の受け返しなどは容易に予測できるものだ。

俊介は知っている。


授業中、窓辺の席に座る彰は入り込む季節を巡る香りに胸をときめかせていることを。


校庭の向こう、どこまでも広がる空の限りない隔たりに虚しさを覚えていることを。


教室のなかへと滑り込んでくる風に一つ一つの名前を付けるかのように慈しんでいることを。



レールの上。



きっと彰は想像するのだ。


そこで鼻孔をくすぐるのは枕木の懐かしい香り。




彰。そうだな。きっと悪くない香りだよな。


おれは悪くないレールを進んでる。


だって。


こうしておまえに出会うことができたのだから。



俊介はいつの間にか八重歯を覗かせ一人笑っていた。

それは樹里が顔をこちらに向ける僅かな時間であったが、彼の魂は長く長く昼下がりの学校にいたのだ。

正午を過ぎたころになると日差しは彰のもとに集まるように彼の髪を頬を光らせていた。

いつもの窓際の席に座る彰に向かって歩いていく自分がいた。


彰は俊介が後ろから近付ていくのを知っている。


ちらっと顔を横に向ける仕草を見せた。彰は微笑んでいた。俊介はいまにも走りだしたい衝動を必死に抑える。


周りのクラスメートが授業を聞いてるなか俊介は彰に向かって歩いていく。


ただ一人、動を貫く。


俊介は彰のすぐ後ろまで来ると、抑えていた衝動を解放するように広い背中に顔を強く埋めた。


甘くせつない香りだった。

とても。


込み上げるせつない香りだった。


俊介は彰の喉元に手をまわしてただひたすらに鼻を埋めた。


香りが周りを覆っていた。

確実に現存する自分が教室にもいた。



「あのね…沢村君」



「……」



樹里の問い掛けに俊介は現実へと戻ってきた。


普段の目付きが宿る。

いま隣りにいるのは彰ではないのだ。

クラスメートの須田樹里がいるだけだ。


俊介は多少の苛立ちを覚えた。



「話しは戻るんだけど…私に出来ること…なにかあるのかな…。杉田先輩のこと…何か出来ることがあれば」


瞬時に

俊介は鼻で笑った。




「出来ることか。ならば須田。おまえが杉田と仲良く話してやれ」



「え…私が?杉田先輩と?」



樹里が自分の人差し指を鼻面に向けた。




「部活時間に話しかけてやれよ。お前が話せば案外他の一年達も話すんじゃねえのか?おまえがびびらずに平然とやってのけたら仲間も付いてくるものだ。お前はくせ者揃いの一年A組を束ねる学級委員長だ。おれは超越した才能がおまえにはあると思うがな。よくうるさい壮太を睨みつけ、無気力な彰を叱り付けてるじゃないか。杉田を可哀相に思うなら笑顔で話しかけてやれ。お前は…彰が好きなのだろ。あいつを想うならば…あいつの大切な幼なじみを救ってやれ」



「……」


俊介の言葉に樹里は頭を抱えながら下を向いた。

「うう…」


唸るような声を出してから大きなため息をついた。

樹里の長い黒髪が耳から落ちて横顔を隠しあげていった。


「お前は秀才でリーダーシップもあると見ていたが。おれの目は狂っていたのか」



「沢村君…私ね…怖い…情けないかな…才能あるなんてありがとう…でも私ね。怖い…いじめかたがね、常識を超越しているの。世がいういじめから逸脱していると言ってもいい。A組はさ、遠藤君がいるもん。たとえ私が出しゃばったことによって誰かが突っ掛かってきても、あの人が後ろ盾になる安心感がすごくある。男の子なんてとくに遠藤君に言われたらさ黙っちゃうでしょ。それにA組は彰君の雰囲気もあって。なんせ沢村君もいるよ。A組の男の子はどこのクラスよりも団結してる。それは女子にも影響がある、みんな安心感があるの。だからA組はほんとに団結力あって。学級委員の私なんてまったく。でも…あの場所は違う。杉田先輩をいじめる先輩達に私が言っても…誰も味方にはなってくれない。絶対にね。悔しいけど私は怖い…」



背中を丸めて俯いたままの樹里に俊介はゆっくりと手を伸ばしていった。そしてその細い背中に優しくおいた。


「え…沢村君…」



背中に温もりが伝わった樹里は顔を勢いよく上げた。沢村俊介がする行動ではなかった。



「おまえが怖いというのはわかるよ。杉田はとことんやられてる」



「沢村君…」



「あれは…猛毒を持つ蛇みたいなもんだ。そいつに睨まれたら戦うか逃げるか。戦うには武器がいる。もし武器が得られず逃げだすならば奴らは必ず追いかけてくる。そして引きちぎるほどに噛んでくる。だがほんとに怖いのはそのあとだ。猛毒は体内を駆け巡っていく」




俊介は震え始めた手を樹里の背中から急いで離した。



「毒蛇に噛まれたときの解毒剤はなにかな…戦うとしたら武器はなにかな」




樹里の問い掛けに俊介は応えなかった。




しばらく間を置いてから



「寒くなってきたな」


とだけ言った。



ベンチに座ったままの樹里は眼鏡の縁を指でなぞりながら俊介の動きを目で追いかけていた。

そして樹里は勇気を出して聞いてみる。


「沢村君は…五年生のとき。実は…さっき麗奈から聞いたの。五年生のとき…」


言い淀む樹里に俊介は鋭い視線を送った。


「まあな」


何かを一瞥してから上を見上げた。 まるで樹里から何かしらの感情を隠すかのようにただ夜空を見上げた。


学ランの隙間から覗かせるピンク色のTシャツが樹里の目を掠めていく。俊介の腹部には無駄な脂肪が全くないのが確認できた。

俊介が身に纏うバニラの香りが風に乗る。


樹里は羽織るベージュ色のカーディガンの胸の位置にあるボタンを指で何度か触れて無言の連鎖の緊張を凌いだ。




「おまえに一つ質問していいか?」



動きを制止させたままの俊介は眼下に広がるグランドに顔を向けた。

ランニングをする男の影がそれぞれのライトの下でうっすらと表れては、またすぐに暗闇へと逃げ込んでいくのが見えた。


「うん」



樹里が頷く。




「須田は思ってないか。俺達が動いても、杉田への凄惨なるイジメはなくなるわけないだろって」


樹里は何度も見てきているのだ。奈緒子への壮絶なる仕打ちを。大勢の人間が一人の人間をまるで虫けらのように命をもてあそびそして嘲笑う光景を。


樹里は、俊介の言う通り彰や壮太がその報復をいくらしたとしても決していじめが無くなるとは思えなかった。



「ごめんなさい…正直なところ…解決にはならないと思う。遠藤君と彰君は、幼なじみの杉田先輩がイジメられたことを知ってただ自分自身の怒りをぶつけてるだけなんだと思う…」



俊介は「おまえの意見はある意味では正論だよ」と神妙な面持ちで頷いた。



「この先にあるだろう杉田で遊ぶ二年生のクソ達との暴力での決着は、ある視点から見ればあいつらのただの自己満足なことかもしれない。友情ごっこの自己満足な結果はただ酷くなるだけかもしれない。火に油を注ぐような結果しかないような気もする」




「沢村君。自己満足だなんて…私はそこまで言ってない。だけど…遠藤君や彰君が動いたことによって、確かにもっとイジメがひどくなったりしないかなって…報復にはまた報復って感じで。それが繰り返されたら一層ひどくならないかな。なら、このままそっとしておいても良いんじゃない?って思うよ。なんだかね、私は嫌な予感がするの。もしかしたら私たちはとんでもない方向へ導いてるんじゃないかって」



とんでもない方向?


俊介は猛禽なる目を樹里に向けた。


「学級委員長の嫌な予感か」


樹里が纏うカーディガンの裾が風で小さくなびいた。

樹里の長い黒髪も同じ方向へとなびいていく。



遠くの地で緊急車両のサイレンが鳴り響き、遠くから暴走族のエンジン音がこだましてきた。





「おれはそうとは限らないと思う。さっきお前が聞いてきた毒蛇に噛まれたときの解毒剤とやらを教えてやるよ。それは杉田には味方がいるぞってことを周りに認識させることだ」



「味方?」



「ああ。重要なことだ。味方がいればされる側とする側の力比べが変わる。孤立無援ではされる側は一方的に弱くなる。味方は解毒剤だ。毒を抜いたあとは敵は強くはない。戦う武器さえあればいい」



おれは…


俊介は思いだしていた


自分のすべてを強制的に変えたあの時間の境を

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