枕木の香り
俊介はタバコを吹かしながら夜空を見上げていた。
すぐ後ろにある大きな桜の木の枝が夜空と自分を遮断するかのように広がっている。俊介はその遠近の重なりの光景を見つめ続けていた。
真一と裕吾が立ち去りすでに長い時間が経過したなか俊介は同じ場所に留まり思考を繰り返す。
はたして自分はどうしたいというのだ。
俊介の思考は一つのことを捉えたままだった。
秋の空気を抱きながら自分自身と向き合い続ける。
やがて俊介は手の平を上に向けて一人微笑んだ。
やれやれ。
思考の先に現れるのは弱小だったころの我が姿。そして行き着くのは憐れみと怒り。
真一と裕吾が正しい反応を示したのは俊介が一番理解していた。
あの二人が特別ではないのだ。佐野の情報を知っている者ならば誰しもが馬鹿じゃないのかと指を差すだろう、そんなものに関わるもんじゃない。うっちゃっておけと溜め息混じりに言うのだろう。
でもね。
俊介は自分自身と向き合い反論をする。
でもね、君達違うんだよ。と、俊介は思う。
だって愉快なものは事の隙間に埋まってるものなのだ。と。
それに流れゆく時間が一時停止するほどの緊張感もある。
愉快と緊張。
関わるものだろ。
と、俊介は思う。
自分が導く先にはいったいなにが待ち受けているのか
しっかりとした意思表示が大切なのだ。
自分自身を試練の場に放り込んで強くなりたい。
ただ楽しみたい。
親友である壮太を守りたい。そして恋する彰を守りたい。
杉田奈緒子をイジメから解放させたい。イジメと呼ばれるものすべてを捩伏せたい。
理由はたくさんあるのだ。
俊介は火が付いたままのタバコを足元に捨てた。すでにいくつもの吸い殻が転がっていた。
銀色の腕時計に眼をやると22時を回っていた。
俊介はもう一度やれやれとポーズをしてから立ち上がろうとしたときに何かしらの気配を感じた。
俊介は咄嗟に階段のほうに目をやる。
うっすらとだが、こちらに向かってくる人影が一つ確認できた。
俊介の表情が変わる。
明らかにこちらを目指して来る足取りは意思表示が感じられる。
敵か?
いまはおれは喧嘩をしたい気分なのか?と四肢に伺う。
悪くない気分だよと返答される。
黒い影が因縁をつけて来ようものならすぐに動く。
俊介は両足に力を入れた。
「あ、やっぱり沢村君だ」
俊介は名前を呼ばれてその先を睨んだ。暗闇のなかから呼ぶ声。それは女の声でありしかも聞き慣れた音域だった。
不意に力が抜けていく。
「なんだよお前か」
階段を上がって息を切らしながら向かって来たのは樹里だった。
クラスメートの須田樹里。利発そうな容貌にすらりとした体型に二つに縛られた長い黒髪。
そして眼鏡の奥のつぶらな瞳。
紛れもない。
俊介は小さな微笑みを浮かべた。
「なんだよお前かって…沢村君の金色の頭は目立つし…下の道路から見てもわかったわよ。あれ。他のメンバーは?」
「なんだお前かってのは、こんな遅くまでなにほっついてんだ?て意味だ。危ねえだろ。もしここにいたのが俺じゃなくてドブネズミの金髪野郎だったらどうするつもりだ。馬鹿だな。おまえはもう狙われる年齢なんだ。麗奈は?一緒にいないのか?」
「麗奈とはもうとっくの昔に別れたよ。それに沢村君は遠くから見ても絶対わかるもん。それにしても」
眼鏡の奥の目が輝く。
「今日はなんだか優しい言葉をくれるのね」
「ふん。この秋の風のせいだろ」
この風。
樹里は俊介の言葉にホッとしたように肩の力を抜いて
「隣りいい?」と聞いてから横に座り、手にする鞄を膝の上に置いた。
吹き込む風は徐々に冷たく感じられた。
俊介は学生服のままで、樹里はブルージーンズにベージュのカーディガンを羽織っていた。
俊介は隣に座る樹里から目を離すと照明が消えた野球場を見下ろした。先程まで騒がしかったこの公園もいまは人影もほとんどなくなり秋の空気が辺りを支配しようとしていた。
「おれの隣りに座んなよ。端から見れば恋人同士に見られる」
俊介は樹里を横目で見て鼻で笑うと、後ろに伸びる桜の木をのけ反るようにして見上げた。
「お前さ普段着だと別人のようだな」
「あら。新鮮さが漂ってる?もしや私、案外可愛いとか?」
「バーカ。うっせえ。とっとと帰れよ」
樹里も俊介の視線を追い掛けるように桜の木を見上げた。
「やっぱりいつもの沢村君だ。私はねいま塾の帰り。そこの曲がり角までは友達と一緒だったの。だから大丈夫よ。もしかしてすごく心配してくれた?」
「バーカ。やっぱりさっきの訂正。お前なんて誰も襲わねえよ」
のけ反ったまま話す俊介の隣りで樹里は風で流れる髪を耳にかけた。
「ママが心配だから車でお迎えするよって言うけど、私は自転車のが気楽だもん。沢村君ありがと」
「だからおまえのことなど心配してねえし、襲われねえよ」
そっか。て、小さく囁くように言って樹里は俯いて黙り込んだ。
俊介は思い出したかのようにタバコを吸って真上に煙りを出した。空は雲が出始めていた。
二人には風の音だけが聞こえてきた。しばらくその風の呟きに耳を傾けてみる。それは寂しげに啼く音だった。
樹里が口を開く。
「もうさ…なんか嫌だ。塾も勉強もめんどくさいな」
樹里の漏れる溜め息に俊介は顔を向けた。
「藪から棒になんだよ。笑ってたと思ったら急に落ち込んだり忙しい奴だな。勉強がめんどくさい?学年トップを争うような奴がいう言葉か?勉強が嫌だとは。それはまた致命的だな」
「私は勉強は嫌いよ。はっきり言って好きじゃないの。ただ、やれやれって親がうるさいだけ。ほんとにうるさいの。私は親が…パパが敷くレールの上をただ進むだけ。振り落とされるのが怖いだけ…。ただ…それだけ。それがいまの私。嫌いなのって致命的かな」
「だけだけ、とうるせえな。嫌いなもんを誰かに押さえつけられながら続けるなんてのは、日々、脳漿を垂れ流しているもんだ。苦痛でしかないだろ」
「うん…」
樹里は寂しげに小さく頷いた。
「じゃあお前はなにが好きなんだよ」
俊介の質問に樹里はまた一つ溜め息を漏らした。
「ママが可哀相」
「ママ?なんでだ」
「ママはパパと結婚して絶対失敗。たった一つの失敗でママはすべてがパァ。そんな感じ。なんでパパなんかにしたのかなって。男選びで大失敗。それって可哀相じゃない?」
俊介にとって父親というものの記憶は僅かにしかない。
「おまえの両親は仲悪いのか?」
「仲悪いっていうか。パパはママを馬鹿にするの。いつもいつもママはパパに鼻で笑われて溜め息つかれてる。ママはお嬢様でなにも男を知らないままにパパと出会って結婚した。医師を目指すだけのくだらない男とね。そしてお兄ちゃんと私を産まされて。それでもうママは牢屋直行」
樹里は隣りに座る俊介を見つめた。
「私はママみたいになりたくないの。私はすごくすごく大好きな人と結婚したい。一緒に尊敬しあえて一緒に笑いあえて、あの人の帰りを鼻歌しながら待って、あの人の子供が欲しいなって思って、あの人のためにおいしいご飯作りたいって思って。あの人のためにあの人のために」
話しながら樹里は泣き出していた。
「だから…私は勉強が嫌いなの。だいっきらい…。パパの敷くレール…医者になるなんて何一つ興味が湧かない。ただ私は…ママがパパに馬鹿にされるの嫌だから。だから…」
俊介は無言のままポケットからチョコを取り出して樹里に渡す
「ありがとう…」
「おまえさあの人あの人って誰を浮かべながら話してんだよ」
「え?…私は…。うん。私は彰君のことが好き…」
「ばーか」
「…すごく好き。どうしよう沢村君。勉強が身に入らないよ。学校でも塾でも寝るときも、ずっと彼のこと考えてるの。やばいよ私。あの人と絶対結婚したい。もういまそれだけ。勉強なんてクソくらえ」
思い詰まるような樹里の告白に俊介の小さな動作が止まった。
「沢村君はわかってた?私が彰君を好きだってこと。すごくすごく好きだってこと」
「当たり前だろ。お前の態度見てたら誰でもわかる」
「一人の男性をずっと気にしてる。授業中も放課後も私は彰君をずっと気にして見てる。するとねわかったことがあるの。パパがママに対する気持ち、ママがパパに対する気持ち。私は彰君を好きになるまで、聞かれたら親はとっても仲良しだよって言い切れてた」
秋の虫が足元で鳴きはじめて樹里が眼鏡のブリッジに触れる。
そして
しばらく二人は無言のままベンチに座り続けた。
俊介がタバコを二本吸う間お互いにそれぞれの思案の世界にいた。
やがて俊介が二本目の吸い殻を足元に捨てたときに
樹里が口を開いた。
「彰君は杉田先輩のこと好きなのかな…あんなに必死になってるし。きっと好きなんだよね」
「そんなの知るか」
「杉田先輩のこと…大丈夫かな…杉田先輩へのイジメ止まるかな」
俊介は急に肩を揺らし笑いだした。
「な…なによ」
「お前も忙しい奴だな。ママが抱える絶望的なストレスを心配して、おまえの頭がみるみる悪くなるのを心配して、結婚相手を心配して、杉田を心配して。そして杉田を好きかもしれない彰のことを心配して」
「まあね」
樹里はぺろっと舌をだした。
俊介は樹里の愛嬌ある反応を見てまた笑った。彼女からはすでに涙の跡は消えていた。
「おまえが抱える一部は俺にもわかるんだ。その気持ち」
「え?どういう意味?」
「おれには父親がいない。いつからいないのか何故いないのかどんな人なのか。母親は聞けば必ず応えてくれた。でも母親が楽しく話すことは決してなかった。ただただ無表情に淡々と話す母親を見ておれは」
俊介は樹里に渡したのと同じチョコをポケットから取り出して口のなかにほうり込んだ。
「いつしか父親のことを聞くのをやめた。いまおまえの話しを聞いて思った。母親はおれがいることによってある程度のレールが決められちまってるのかな。そしてこのおれも」
「沢村君…」
「ふん。何言ってんだおれは。忘れてくれ」
いま俊介の頭には母親ではなく彰が思い浮かんでいた。笑顔が声が温もりが目の前に感じられていた。
「なぁ須田。いまここにあいつがいたら…。あいつも一緒にこのベンチに座ってるとしたら」
俊介が遠い目をした。表情はとても柔らかい。
「あいつって?」
「彰さ」
「彰君?」
「ああ。あいつがいまここにいて。三人肩並べて座ってたとしたら。そしておまえとおれの話しを聞いてたとしたら」
「うん」
樹里は想像する
瞳を閉じて隣りに座る彰を思い浮かべる。空想の邪魔をするように鼓動がざわめき始める。
「あいつならきっとこう言うよ」
俊介は誰もいない左側を見てからまた桜の木を見上げた。
「須田もさ、シュンもさ、そのレールってやつを下から支える枕木の香り。それを嗅いでみたらどうだろ」
樹里の深呼吸なのか溜め息なのか、とにかく長くゆっくりとした呼吸が俊介の言葉の後に続いた。
「わかる。それ大橋君言いそうだな。そしてこう続けるよね」
―僕は良い香りがすると思うけどな。
「ふん。そう言うだろうな。所詮はキザ男だ」
「うん。彰君には天性の優しさがあるから」
そのレールを信じて。
俊介はまたタバコをくわえて火をつけた。足元に転がる吸い殻の群れが風で動きだす。
それを樹里が慌ててベンチから立ち上がり拾いだした。
「もう…拾っとくからね。中学生なのにタバコなんか吸って。しかもこんなにたくさん」
「うるせえ。不良だから仕方ないだろ」
「不良ってかっこよくないけど」
「なんだと?」
俊介が怒り樹里が萎縮する。もうこれは何度か学校で繰り返してきたことであり二人はなんだか笑えてきた。
樹里は拾った吸い殻を鞄から取り出したティッシュで包みベンチの隅に置いてから再び俊介の隣りに腰を下ろした。




