麗奈の勇気
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「授業と授業の合間の短い休憩時間にそれは起きたの。真一がね笑いながら俊介に言ったわけ。不気味に笑いながらだよ。普段とは違った。あ、真一ついにキレたなって。もう満杯だなっこぼれ落ちたなって私はすぐにわかった。これはやばいことになるぞって」
麗奈はなにかを払いのけるように自分の両肩を摩った。
茂みから伸びる街灯が二人の足元を照らしている
白い運動靴がその光を拾う。
樹里は麗奈の顔を覗き込んだ。
麗奈には到底似合わない深刻な顔が持続されていた。
沢村俊介が過去にイジメを受けていた。それもそんなに遠くはないほんの少しまえの過去。
いまの俊介からは想像できるわけがない。どちらと聞かれれば言いきれる。いまの彼はイジメる側の人間だ。いや違う。樹里は明かりに照らされる足元に視線を落とした。小さな違和感を覚える。ふわふわとした感触が足先から膝あたりまである。まるでそれはいまにも宙に浮き出すような感覚だった。
イジメなんて言葉は彼にはそぐわないのだ。中学生がいう弱く幼稚で陰湿な言葉からは掛け離れてる人。
沢村俊介に遠藤壮太に。そして大橋彰。
三人がみせる背中、横顔はいつも特殊だ。
他の同級生と比べて超越しているといっていいかもしれない。
沢村俊介がイジメを受けていた。
ジメジメとした場所にうずくまるあの人が。想像できない。
人は変わる。いや、変われるもの。
樹里の頭に俊介と彰の姿が交差した。
初恋の人がいつものように頭をよぎっていった。
いつものように。
「それで…どうなったの?」
「真一は本気に俊介を下に落とすかもって思った」
「え!ベランダから下に?」
「うん。真一はたえずカッターナイフ持ち歩くような奴だったから。あいつならやりかねないって。そのとき私は勇気を出して動き出したのかな。そりゃ正直怖かった。明日からメジィーヌの口づけは私に向かうのかなとか。考えちゃうよね普通。でも私は」
死ぬまでズルズル引きずるような後悔はしたくなかった。
街灯が二人の全身を照らす。
ここから一歩進めば過去に戻れる。そんな鮮やかな光が夜空に浮かぶ星達と混ざり合っていた。
「落ちろ」
真一の両手が俊介の胸倉を縛り付けるように掴んでいた。
「謝ったら許してやる。泣いて謝れ。じゃないと本気で落とすぞ」
「ぐっ。嫌だ。何故お前に謝らないといけないんだ」
俊介が小さな声で言葉を発したあとだった。
突然真一の怒鳴り声がベランダから教室の中まで響きわたった。
「おまえさ!もう学校に来るな!目障りなんだよ!」
真一の上がる口角は初見では笑顔かと錯覚するような表情だ。しかし目が違った。血走る目は彼が怒りの絶頂にいるのがわかるのだ。
教室にいる全生徒が普段とは違う込み上げるなにかが真一のなかにあるのを感じた。
ベランダで行われる出来事に教室でまず口火を切ったのは麗奈だった。
危険を察知したように
「お願いキミちゃん。すぐに先生呼んできてくれる!」
と叫ぶようにいった。
「う、うん!わかった!」
キミちゃんと呼ばれた生徒は慌てふためきながら職員室に向かって走りだした。
いつものイジメではない。
麗奈はそう感じていた。
教室の窓際での異常ななにかに男子生徒達もおそるおそる近づいていく。
いままで
小虫を払うだけだった真一だったのだが、ついにキレた。
皆がもう謝れと思った。
沢村。もう泣いて謝ればいいんだ。と。
だが。胸倉を掴まれ苦しそうにしていた俊介は口元を歪ませてボソッと言った。
「……やれないくせに」
「な、なんだと?」
真一の押し殺すような声を聞いた麗奈は最悪の事態を想像した。
そしてベランダへと駆けていく。心と身体が分離しているのがわかった。
無意識に身体が動きだしていた。
「沢村君!謝っちゃえよ。謝りな!真一ももういいでしょ?やめなよ!」
ベランダに出た麗奈は真一の肩に触れて引っ張ってみせた。
「お前はひっこんでろ!おれはこいつを落とす!」
真一の尋常ではない声に麗奈は震えた。
「ダメだって!沢村君このままじゃやばい。ほんとにやばいから!一言でいいんだよ。もういっちゃいなよ!『すまん』て。『ごめん』でもいいから。それで終わるから。真一も納得するから!ね!」
嘆願するように声を張り上げる麗奈に向かって俊介は笑みをこぼした。
「俺は…なにも悪いことはしていないんだ。で、でも…ありがとう…こんな俺に…ありがとう。名前を、沢村君て呼ばれたの久しぶりだな」
「え…」
俊介は泣いていた。
俊介の涙。
麗奈はその滴の行く先に釘付けになっていた。光が差し込むその先に滴がぽたりと溶け込むその光景に。
「やれよ…」
俊介は目を赤く染め上げながら真一を睨みつけた。
「馬鹿が!やれないのか?所詮は口だけだな!お前は臆病者だ!さぁ落とせ!」
「言ったな!うぉぉぉぉ!」
真一は唸りながら俊介の足首と尻を掴んで投げるように手摺りの上から下に落とした。
たちまち絶叫が沸き起こる。
「キャアアア!落ちた!」
「キャアァァァ!」
たくさんの叫び声が教室の中をこだまする。
生徒たちは一斉にベランダに踊り出て手摺りに張り付いて眼下を望んだ。
あれ…
「あれ?いない!いないぞ!」
そう言ったときだった…
「いきなりドアが開いてね…もうあのときはすごくびっくりした。そこにいたのよ俊介が。まあ教室は二階だったし下は花壇だったからね。でもねぇ。あんな血相でいきなり現れるとは思ってもいなかった」
「どうなったの?早く続き!」
麗奈は樹里に顔を向けて真剣な面持ちになった。
「ドアが勢いよく開いて…俊介が入ってきた。指先から下へと伝う血が床に向かって数滴流れていくなか、一直線に真一へと向かっていった」
「それで……?」
「そのまま真一の腕に噛み付いた。痛みに呻き声をあげながら真一が俊介の頭を顔をどれだけ殴ろうと蹴ろうと何をしようと真一の腕を離さなかった。あげく先生が来ても離さなかった。そして最後は真一の左腕の皮膚と肉を少し引きちぎって離れたの…。まるで…猛禽の嘴よ」
猛禽の嘴。
それから二人は無言のまま歩いていった。
樹里も麗奈も次の会話が見つけられなかった。
大きな公園を過ぎれば麗奈の家が近づいてくる。
公園の角まで来たところで麗奈が口を開いた。
「二人はいまは大の仲良しだよ。真一の左腕に傷痕が残り俊介の腕と頭にも傷痕がある。俊介はいま髪が短いからわかりやすい。左側のこの辺り」
麗奈は自分の左耳の上に触れた。
「そっか…」
きっと
沢村君は
麗奈の味方が嬉しかったのだ。
そして。自分を。
再生させたのだ。
それが彼の強さ。
彼のひたむきさ。
彼の自尊心。
「おい、須田か?」
背後から声をかけてくる声。
少しだけびくついた二人だったが、声には優しさが篭っていた。そして聞き慣れた声質だった。
「あらら。噂をすればなんとやらだ。すごい偶然」
麗奈と樹里は背後からの声が誰かすぐにわかった。
沢村俊介が後ろから二人を呼んだのだった。
振り返ると
千覚寺小学校の有名不良だったスリーカードが揃っていた。
沢村俊介、松田裕吾、衣川真一。
「なんだ。もう一人は麗奈か」
俊介が麗奈を見てクスッと笑った。
小学生のときは村田川と呼ばれた悪童達がそれぞれの立ちかたで街灯に照らされていた。
「あ!す…す…須田…。よぉ」
松田裕吾が樹里に声をかけた。
「お疲れさま」
樹里が挨拶をすると裕吾は顔を真っ赤にして俯いた。リーゼントスタイルも一緒にお辞儀をした。
「何やってんだ?」
「よぉ俊介」
麗奈が手を挙げると俊介は口元を小さく歪ませた。
細い生活道路の真ん中で五人は他愛ない話しを続けた。
街灯が真上にあった。
樹里はなにげに真一の腕まくりをした左腕を見て、続けて俊介の左耳を見る。
樹里にはそこにある傷痕が勲章のように見えた。
友達として契りを結んだサインにも見えた。
男同士が凌ぎあった戦いの証にも見えた。
いま沢村俊介と衣川真一が楽しそうに話すのが樹里には嬉しくてたまらなかった。
きっと…
きっと…杉田先輩も…
明ける日がくるの
「おい須田。お前さ、何泣いてんだ?」
俊介が眉を寄せると
「え?な、泣いてなんかないわよ。これはあくびよ。あくびがでただけ」
「あれ?おいシュン。麗奈も泣いてるぞ」
真一が麗奈の顔を覗き込んで笑いだした。
「お前らどうしたんだ?もしかして喧嘩でもしてたんか?」
俊介も笑う。裕吾だけは心配そうに樹里を見ていた。
「こらぁ!乙女の涙は神聖なんじゃあ。笑うんじゃなーい。二人で過ぎゆく日々を思い出しそして涙を流し熱い友情を確かめあってたんだ。ロマンチックじゃないか」
麗奈の言葉に三人の男は一層に笑いだした。




