君を想うということ 5
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あの事故によって奈緒子の天性であり魅力でもあった楽天的な部分は黒く塗り潰され厭世によって支配された。
妹との突然の別れからの彼女は、癒えることのないだろう深い傷痕に後悔という刃先を突き刺しながら生きていくことだった。
当時10歳にも満たない彼女が抱えたのは底無し沼のごとくの自己嫌悪だった。
あの日。
母親の在所へは自分が行く予定だった。
奈緒子はその日に恋する相手の笑顔が見たいばかりに行くのをためらっていた。
「奈緒ちゃん!自転車買ってもらうことになったんだ!」
奈緒子は彰の喜びを一緒に味わいたいと思った。
一緒に笑顔を分かち合いたいと思った。
「お姉ちゃん行かないなら私行く!おっきな川見たいし、じいちゃん、ばあばにも会う!」
自分の身代わりとなった美椙。
彼女は自己を抹消したい衝動のなか生きた。
懺悔と悔恨を空に訴え続けながら生きた。
美椙が苦しみ死んだのと同じように、自分もなにかに圧縮されながら命を絶つべきなのかとも思った。
彼女の瞳は輝きが失われ肩先からは慟哭が滲み出た。
たが彼女は徐々に生きる意味を見つけていったのだ。燦燦と降り注ぐ陽光に希望を見出だしていったのだ。
彼女が再び前を向き歩く活力となったもの。
それは初恋だった。
彼女は彰に抱いた初恋によって、崖っぷちに咲く花を一輪ずつ摘んでいくようにゆっくりと慎重に自分自身を取り戻していった。
メディアにありふれた死。
テレビドラマを見ればいくつもの死が映像を通して視覚に捕らえられていく。
彼女の両手が抱えきれないほどの花びらによって彩られたとき、いままで逃げ続けてきたものに立ち向かいはじめた。
奈緒子は父親が見るテレビ番組に目を背けないようにした。
奈緒子はいつの日か私に過去と未来があるのなら許してほしいと空に願った。そして自らの意思と決意で未来を掴みたいとさえ思いはじめた。
私が希望を持つことにきっと美椙は許してくれるよね。
と彼女は仏壇の位牌に手を合わせた。
そして私が彰君を想うことも許してくれるよね。
と心の会話を付け足す自分の気持ちに、彼女は手を合わせながらほのかに口元を緩ませていた。
ある日、ベランダで夜空を見上げながら祈るように手を組んでいたら、流れ星が真上から南の果てへと流れていった。
彼女は涙を流し美椙の面影を夜空に探した。
戦う。彼女は美椙が亡くなり一年ほど経ったころからそれをはじめた。自分が自分をもう一度認めるがための戦いだった。
日々なにかに切迫されあるいは猛追するかのように勉学に勤しんだ。
傷痕に突き刺さる後悔という名の刃先は右手で柄を握り抜き去るところまで来た。
そこまで来た矢先だった。
「奈緒子って生意気だと思わない?」
「頭いいし可愛いからって私達を馬鹿にしてるんじゃないの」
「私達も加わろっか。昨日男子達が騒いでたじゃん。修学旅行の事故は杉田のせいだって、杉田と話したら不幸になるぞって」
「なにそれ馬鹿らしい。相変わらず男子って子供だよね、幼稚だな考えが。ま、いいや、奈緒子って前からなんかイラッとするし。高飛車なんだよねあいつ。やっちゃおっか無視。するなら徹底だよね」
六年二組の教室で女子がひそひそと噂する。
杉田奈緒子の抱く根強い自己嫌悪は、ときに周りには彼女から発する刺々しさとして記憶されていった。
天秤に乗せられるオプティミストとペシミストは彼女の心を不安定にさせそれによって、無愛想、無関心、無神経が波状するのだった。
はじめはクラスのなかでのごく一部による杉田奈緒子への陰なる誹謗中傷だったが、ある日突然、彼女は賽の目にされたごとくにクラス全生徒からの鬱積のはけ口と化した。
修学旅行で奈緒子に告白をした男子生徒(無惨ともいえるフラれかたをした)がこのクラスでのムードメーカーだったと言えば進行スピードの甚だしさが理解できるだろう。
それは再び彼女を海底へと沈め孤立させ尚も沈潜させていく。
何日間だったろうか。
はたして何ヶ月間だったろうか。
彼女は戦った。
机に落書きをされていれば
「誰がこんなことするの!」
全生徒に戦いを挑んだ。
だがその気持ちを踏みにじるかのようにあたり一面には笑い声が蔓延する。
「笑わないで!なにか言いたいなら直接私に言って!」
奈緒子が何を言おうが四方八方からの嘲笑は止まらない。
そんななか、廊下際にいた男子生徒が口元を歪めながら大きな声を出した。
「おい。誰か不幸女に言ってやれよ。まあしゃべったら不幸になるけどな。なんせ妹とママが死んじゃうよ。ぺっちゃんこになっちまうぜ」
奈緒子は声を出した男子生徒の机に向かっていく。
階下からは騒ぎ声が床を鳴らし揺らすように聞こえてくる。
床の下には五年一組の教室がある。
奈緒子は階下から音が聞こえるたびに彼を感じる。
彰君が下にいる。
私のすぐ下に。
奈緒子は男子生徒の目の前に来ると頬を思い切りひっぱたいた
小気味よい音が響き渡った。
「いて!てめえやったな!」
奈緒子は腕を掴まれながら叫ぶ。
「私はあなたを許さないから!」
てめえらうるせえぞ!
ちったあ静かにしろ!
いま勉強してる奴もいるんだからな!だあ!そこ、ケンイチ!だまらっしゃい!
遠藤壮太の野太い声が床下から、開けた窓から、まるで包み込むように奈緒子がいる教室へと流れてきた。
杉田奈緒子に対する嫉妬や怒り、バスの事故の鬱憤晴らしだけでなく、奈緒子へ憧憬を抱く生徒までもがイジメに加担していった。最初は小さな幼稚ともいえる刃物をちらつかせ少しだけ彼女を怖がらせることにより、奈緒子の怯えという一種の魅力的な一面を見るだけで終わるつもりだったが彼女は憤怒を抱き立ち向かった。予定外の成り行きにますますむきになる加害者側。辿る平行線。滲み出る刺激臭が醸し出す起伏。
徐々に彼等や彼女等の心の片隅に有りつづける嗜虐性が芽生えはじめることになる。
思春期の扉を開く年代だ。近く中学生になるという不安感、迫りくる果てのない競争のレールが見え隠れするときである。
それに彼女が時折真意のごとく覗かせる純真さも合い重なる。
肉食動物が獲物をおもちゃのようにただ弄び、弱者である犠牲者の混乱状態を見て何かしらの安堵感を得る。それと同じだ。
そういった要素を含みながら奈緒子への蔑みは大きな波紋となって急激に広がっていった。
集団競争社会の真っ只中に立たされる不安定な時期において、彼等は暴力が支配する氷上で簡単に制御を失い滑り出しあらぬ方向へと向かった。
その加害者としての行為の記憶は大人になってからも全身を幾重にも付き纏う綿毛のように自らを苦しめていくことになるのだが、子供達の容赦ない感情は現在だけを見る。
奈緒子への虐待は中学生になっても続いた。
ひがみ、妬み、自分より不幸な者がいることの安心感。
あらゆる感情が彼等を取り繕い肯定させイジメを継続なおエスカレートさせていった。
「奈緒ちゃん!」
彰と壮太は、一人で下校している杉田奈緒子を発見して後ろから声をかけた。
そこは小学校とマンションのちょうど中間ほどにある小さな敷地に納められる稲荷神社の前だった。
奈緒子は聞こえなかったのか反応がない。
壮太がまた大きな声をだした。
「なーおーちゃん!」
奈緒子がびっくりしたように振り返る。
「あれ…?」
彰には振り返った後の奈緒子の表情がどこか沈痛な面持ちに見えた。
奈緒子はすぐに笑顔を作りあげる。
「あ、壮太君に彰君。お帰り」
三人はそこからマンションまで一緒に帰っていく。
奈緒子の少しだけ後ろの右側を壮太が、左側を彰が守るように歩いていく。
両脇を固める二人は大きなな手振りを加えながら友達のことや学校であった出来事を話す。
奈緒子は微笑みながら何度も頷いていた。
やがてマンションの自転車置場まで来ると奈緒子は手を振って「じゃあね」と、階段を上がっていく。
奈緒子の後ろ姿が見えなくなると、彰は壮太の横顔を見つめた。
「なぁ壮太。なんか最近の奈緒ちゃん元気なくない?なんか嫌なことでもあったのかな…」
「え?そうか?いつも通りじゃないか?」
小学五年生の彰と壮太は奈緒子と徐々に開いていく距離をひしひしと感じていた。
男女間での敬遠関係はクラスでも一様だった。
一緒になって遊ぶことに抵抗を感じてくる年代だった。
「彰!気にするなよ。奈緒ちゃんも勉強とか忙しいんだよきっとな。俺達はいまから遊ぼうな。よし!またすぐここに集合な!」
「わかった!」
一人は三階に駆け上がって行き一人はそのまま一階の集合通路を進んで行った。
遠藤壮太は303号室、
大橋彰は105。
そのときの402号室。
靴脱ぎで奈緒子が座り込んだままに泣いていた。
折れはじめる心を感じていた。歯を食いしばり戦うと誓ったのに。
負けたくない…。
彰と壮太。
いまも二人と楽しく会話ができない辛さ、
二人の眼差しの優しさによって惨めさを感じる自分が悔しい。
クラスでは、存在すべてを無視され、見えないところでは虐待対象される扱いが続いている。
机のなかはゴミが詰められる。
ロッカーには何枚もの「不幸女!」と書かれた紙切れ。
奈緒子は大粒の涙を流して泣いていた。
彰と壮太はいつものようにマンション横にある公園でサッカーをしていた。
「よし彰!PK勝負な!」
「望むところだ!」
壮太がボールを大きく蹴りあげたときに、中学生らしき男達が公園のネットを揺らしながら入ってきた。