幼さ故の背伸び
「ぎゃあぁぁ!」
俊介の突き出したパンチによって吉川は悲鳴を上げながら後方に吹っ飛んでいった。
仰け反る頭を先にアスファルトに口づけをするように吉川の体が倒れ込むと同時に地面を蹴る音が鳴った。軽快な音楽に合わせてステップを踏むかのように軽く固い音だった。敏捷な野性動物が素早く獲物に最後の一撃を食らわす。俊介は躊躇なく仰向けに倒れた吉川の上に馬乗りとなった。
そして顔を歪める吉川の胸倉を掴みもう一度、拳を強く握りしめたまま高く上げた。
「おまえはユキを!」
「ひぃぃぃっ!ご、ごめんなさい。や、やめて!」
「このクソガキが!」
吉川は必死に顔を両手で覆ったまま首を千切れんばかりに左右へと振った。
「違う違う!やったってのは違うんだ!!キ、キ、キ、キスだよ。ほんとだ!やってなんかないよ。ほんとだ信じてくれ!お願い!だから殴らないで!」
吉川は目の前にいる哮る猛禽の男に懇願するように泣きながら喚いた。
「……」
俊介の胸倉を締め付ける力が増す。
「ほ、ほ、ほんとなんだ…許して…お願い…。軽く…チュッて…ほんとキ、キ、キスしただけだ…ほ…んと…」
首を締め付けられて苦しそうな声を出す吉川を、きつい眼差しで見下ろす俊介。だが振りかざしたままの拳はゆっくりと力が抜けていくようにみえた。
「わかるよ。お前だけが悪いんじゃない。ユキがお前に体を預けたのはユキの意思によることだろう。おまえは無理矢理するような奴ではない。だから…おれが干渉することではない」
わかるよ。
俊介の振り上げる拳は先のなにかを求めた。
打ちのめすなにかを。
昔なら鉄槌を落としていた。
いまはわかる。
好きだという辛い心を。
ユキは吉川を好きだった。だから体を許した。
はじめての経験を吉川に託したんだ。
吉川の端整な顔立ちは溶けていく氷細工のように全てのパーツが下に垂れはじめていた。唇の端から顎へとこぼれ落ちる血が細い線を作り、それが崩れゆくパーツの色合いを増していた。
俊介はとても醜い汚物を直接触れていたことにいま気付いたかのように、胸倉を掴む手をぱっと離して立ち上がった。
「ふん。汚れちまった」
「ご、ごめんなさい…もう殴らないでお願いだよ」
「もう殴らねえよ。汚いのは触りたくないんだ。それに、おれはちょっと取り乱したようだ。ほら立てよ」
吉川を解放させると、服に付着した埃を神経質なベルボーイのように何度も長い指で払った。
吉川はおろおろと上体だけを起こして放心した梟のように眼だけを大きく見開き固まっていた。
俊介は吉川を睨んでからすでに西日となる赤い空を見つめた。
眩しさの向こうには鮮やかな赤やらオレンジが空を染め上げはじめていた。
「いきなり殴ったりして悪かったな。おれは以前にユキと付き合っていた。あんたを殴りたくなる気持ちを少しだけでも理解してくれないか。つい暴走をした」
俊介の口調が変わる。
労る優しさが篭っていた。そしてあの笑顔。
吉川は震えながら「うん」と首を縦に振った。
俊介はポケットに両手を突っ込んだまま横に身体を動かした。俊介が全身に受け止めていたオレンジ色の光りが吉川の横顔へと移動した。
「ただ、あんたに一つだけ言いたいのは騙される女も悪いが、やりたいだけで女を悲しませるあんたはほんとに悪い男だよ。わかるだろ。まだおれ達は」
―あまりに幼いんだ。
吉川は眩しさに眼を細め顔をしかめながら口元を押さえた。すると、手の甲には生暖かい血が付着していたのでとても驚いた顔をした。
「すげ…血が出てる…。えあ…いや…、も、もう一年生には手を出さないから…許してくれ」
吉川は頭を深々と下げてから再び、手の甲に付いた血をまじまじと見た。
「あはは!こいつは面白い」
俊介は腹を押さえて笑い出した。高く大きな声で子供のように可笑しそうに笑っていた。八重歯が覗くと人懐っこさが前面に出る。
「懲りないなあんた。わかったよ。もう何を言ってもどれだけ殴っても無駄なのを理解した。あんたは根っからそういう奴だ。毎日あくせくと女を抱いて泣かしていく。もうあんたのことはどうでもいいよ。拳が痛いだけだ。それで、話しをまた元に戻すのだが。そんなに酷いのか?」
「え?」
ぽかんと口を開く吉川の頬には涙の跡が残っていた。
「だから、二年生の間で横行されている杉田って女へのイジメのことだよ」
「え……またその話し…ですか?」
「まあな。杉田奈緒子」
「杉田奈緒子……」
二人は奈緒子の名前を呼び合ってからしばらく無言になった。
学校のチャイムの音が聞こえてくる。
俊介が先に動いた。
俯いたままの吉川に手を差し延べる。
吉川は泣き笑いをしながらその手にしっかりと掴まった。
「ありがとう…俺。はじめて殴られたよ。痛いけど…なんか悪くないっていうか。なんか…君はかっこいいよ。うん。すごく」
俊介は吉川を引っ張って立たせながら、クックックと口元を緩ませた。
「吉川先輩。あんたみたいなくそが何故女にモテるのか少しわかった気がする」
―あんたは調子がいいよ
俊介が言うと吉川も一緒に可笑しがる。
「ま、まあね。うん。たしかに俺は調子いいかも」
俊介がポケットから出した煙草を一本進めると吉川は有り難い気持ちを前面に出しながらそれを手にした。
ライターの火を吉川に向ける。
「それで、杉田奈緒子はやばいのか?」
俊介はくゆらす白い煙りを西日に向けて吐き出した。
何もかもがオレンジに染まっていった。
いまここにいる大人と子供の間で足掻く人間までをも西日は綺麗に染め上げていった。
俊介には偽りがない真実の現在を照らす淡い光にみえた。
吉川は吸ったことのない煙草を吹かす真似だけするように大袈裟に煙りを吐き出して、咳込むのを必死に我慢する。
―調子がいい奴だ。
俊介はそれを見ながらまた笑う。
「うん。杉田はやばいかも。実はよく話しは聞くんだ。近く男達が集団でどうとかってのも聞いたことあるよ
「そうか…」
「やばいよね…。きっと佐野君は杉田のことが好きなんだよ」
「おお、さすが色男。言うことが深いな。ガキが好きな女の子にちょっかい出すパターンか。それにしては佐野のくそデブはやることがかなりえぐいな」
「うん。えぐい。佐野君やり過ぎだよ。ちょ、ちょっと沢村君。デブはやばいよ。佐野君の耳に入ったら…」
二人は真顔で見合ったがやがで同時にニヤけた。
「血、拭けよ」
俊介はポケットからハンカチを取り出して吉川に渡した。
「あ、ありがとう」
「なあ吉川先輩。このイッパシの不良がハンカチなんぞを持ってるなんて不思議だろ?ほらここ。拭けよ」
微笑んで自分の頬を指さす俊介の仕種に見とれながら吉川はまた「ありがとう」と頭を下げて手にしたハンカチで血を拭った。
ハンカチからは微かなバニラの香りがした。
「洗って返すね。ありがとう」
「いいよ。おまえの血がついた物など二度と使うか。捨てろ」
「ごめんありがとう。うん…ほんと…はじめて人に殴られたから…びっくりした。なんか…」
「もう一本吸うか?」
俊介が再び煙草を取り出しながら聞くと吉川は苦い顔をして首を横に振った。
「でも…君はすごいね。そんな格好して。上級生に目を付けられるのは怖くないの?」
人生はじめて殴られたことによほどインパクトがあったのか、吉川は幾分昂揚としながら手振りを交えながら俊介に質問をした。
金髪頭にピアスに校則違反の学生服。
「べつに。上級生なんぞよりもっと怖いのは自分が自分に負けることだ」
吉川は感服したように大きく頷いた。
「よかったら名前教えてくれないかな?」
「沢村だよ。沢村俊介。悪かったないきなり殴っちまって」
「ううん。いいよ。俺が悪いんだ。女の子を泣かしてばかりだから。」
俊介はまた笑う。
―おまえほんとに調子いいよ。
「ちょうどね、帰り際にC組の女の子に聞いたんだけど、今日の杉田へのイジメはとくにひどかったみたいだよ。佐野君かなり荒れてたみたい。」
「そうか」
彰に鼻頭蹴られてなにかのリミッターを切るつもりか佐野。
「あのさ。もしよかったらでいいんだが杉田の情報がもっと欲しいな」
俊介の言葉に対してにわかに吉川の目は輝かやきはじめた。
「うん。沢村君任せて。情報だね。おれは女の子の友達かなり多いからいろんな情報手にはいるよ。その変わりと言っちゃなんだけど…君と友達になりたいな」
…調子いいなぁあんた…
俊介は八重歯を出した。
「わかったよ。俺達はいまから友達だ。なんでもいいから杉田の情報をおれに流せ。あと杉田がもし男達に集団でどうとかの話しが出たら必ず決行の前におれに教えろ。女だけじゃなくて男の動向にも目を離すな。わかったな」
最後の俊介の目は切るように鋭かった。
「は、はい!ま、任せて」
俊介と吉川が肩を並べて正門に戻ってくると松田裕吾と衣川真一が地面に座りながら大声で話して笑いあっていた。
「おお!シュン。終わったのか?」
「終わった」
俊介と吉川は仲良さげに肩を並べたままだった。
「なぁシュン」
振り向いた真一は吉川の顔を見ながら声を出した。
「ん?」
「あれ。吉川先輩の口から血が。まぁいいや。いまは仲良くしてる感じだし。シュンはクールに決め込んだわけね」
「ああ。クールに硬派に生きてることに感謝ってやつ」
吉川は俊介に向けて大袈裟なまでに大きく一礼して手を振ってから隅で隠れるように待っていた友人と門から外に出ていった。
「なんだあれ」
裕吾が鼻で笑った。
俊介はあくびを一つしてから二人と同じようにアスファルトに座る。
「余裕?」
裕吾が聞く。
「問題無し。ありがとな付き合ってくれて」
俊介は続けて二人に聞こうと思ったことがあったが途中で話すのをやめた。
聞いてもつまらない話しになっていくだけだと思った。
俊介は胸ポケットからセブンスターを取り出して銀色のライターで火を付けた。
「吸うか?」
銀紙が綺麗に取り除かれたソフトケースの隙間から二本を一度で器用にだしてそれを二人にくわえさせる。
俊介の細い右手首には、ごついシルバーの腕時計が巻いてあった。それがジャラッと揺れながら音をだす。
正門の片隅で三人はタバコを吸う。
運動場や体育館からは部活動をする声が聞こえてくる。あまりに対称的な空気が混在するのが中学校かと俊介は思った。
「俺さぁ、須田にしようかな。告白!」
裕吾に向けて真一が煙りを勢いよく吹き出した。
「裕吾はまだ須田樹里一筋なのかよ。もうやめとけよお前とは不釣り合いだ。どうクールに見てもダメなもんはダメだ。あいつは小学校のときからの秀才。向こうは学年順位一位の争いを繰り広げ、かたやお前は学年順位何番だ?え?どうクールに決め込んでも無理だろ」
「言ったな真一。恋に頭なんて関係ねえよ。肝心なのはここだよここ。ハートだ。須田を想うハートは誰にも負けねえよ。もし須田が男に絡まれてたらおれは必ず助けるぜ。真一はどうなんだよ好きな女の子いるのかよ。言えよ。白状!」
「そりゃいるよ」
裕吾がすぐに聞き返す。
「えー!誰よ。誰?」
二人のやり取りを聞きながら俊介はクックックと横で笑っていた。
真一はニタニタと笑いながらリーゼントスタイルによって日陰を作る裕吾の目元を見た。
「なぁ裕吾。おれはたぶん両思いなんだ。付き合うようになったら正式に紹介するよ。裕吾はその子を見てチンチンおったてるなよ。許さないからな」
「こ、こら真一!バ…バカヤロウ!このおれを勝手に汚すんじゃねえよ。おれだって須田を汚したらお前でも容赦しないからな!ちくしょ。両思いなのかよ。生きてることに感謝したい!」
「いまからここで待ち伏せして須田に告白するか?見届けてやるよ」
「こらぁ真一君って人は、こらぁこらぁ。成敗!」
俊介はリーゼントの裕吾や小肥りの真一がふざけながら話す言葉を耳に入れて微笑みながら思考を繰り返していた。




